第3話 今日は、君のほうが上だ
「……ねえ。君、前に俺とどこかで会ったことある?」
遊汰の心臓が、大きく跳ねた。
「いや、初対面だと思う」
「だよね」
蓮はあっさりと引き下がり、ボールを一つ弾ませた。
「なんか、打つ前から読まれてる気がしたんだ。気のせいかな」
(読まれてる、か)
遊汰はレシーブの位置で、静かに息を吐いた。この少年は、言葉にできないまま、本質だけを嗅ぎ取る。
「気のせいだよ。さあ、続きだ」
「うん」
二本目のサーブが来る。さっきより少し外へ逃げるコース。遊汰は一歩目を早く切った。ラケットが間に合い、ボールはネットを越える。
だが、そこに蓮はもう待っていた。
乾いた音。フォアの強打が、逆サイドへ突き刺さる。
「サーティ・ラブ」
(速い。一球ごとの判断も、足の運びも)
三十三歳の頭は、蓮の強さを正確に理解していた。理解できるぶん、差の大きさも分かる。
第一ゲームは、四本連続で取られた。
「0対3か」
フェンスの外で、れいなが小さくつぶやいた。隣の青木は、腕を組んだまま動かない。
「ねえ、青木コーチ。遊汰、大丈夫ですかね」
「見てろ」
「え?」
「あいつ、さっきから一度も、ふてくされてない」
コートの中。サイドを替えるとき、遊汰はタオルで汗を拭きながら、蓮の背中を見ていた。
(フォアは超一流。サーブも十六歳とは思えない。でも、バックはどうだ)
さっきの四ゲームで、バックハンドに送ったのは三球。その三球とも、蓮は少しだけ、足を止めて打っていた。
(肩の入りが浅い。得意なはずのフォアに、無意識に回り込もうとしてる)
「ねえ、遊汰」
ベンチで水を飲んでいた蓮が、不意に口を開いた。
「君、悔しくないの? 三つ取られてるのに、顔が怒ってない」
「悔しいよ」
「じゃあ、なんで笑ってるの」
遊汰は、自分の口元に触れた。確かに、少し上がっている。
「楽しいんだ。強い相手と、ちゃんとテニスができてるのが」
蓮の動きが、一瞬止まった。
「……変な奴」
「よく言われる」
「次、いくよ」
第四ゲーム。遊汰のサービス。
ファーストサーブは、あえて遅く、バックへ。蓮が打ち返す。回り込みたい衝動を抑えて、バックで返してきた。
遊汰は、そのボールを、ゆっくり、低く、スライスで返した。
蓮のバックへ、浅く。
蓮が一歩前に出る。ボールは、思ったより沈んでいた。膝が少しだけ曲がる。
(来い。そこで、もう一球)
次のラリーでも、同じコースへスライス。高さを変え、深さを変える。決して速くはない。ただ、打つたびに蓮の打点が、ほんの少しずつ下がっていく。
四球目のスライスが、バックハンド側のコーナーに低く沈んだ。
蓮のラケットが、ボールの下をすくうように振られる。ネットにかかった。
「フィフティーン・ラブ」
蓮が、遊汰を見た。その目には、初めて、驚きではなく、興味が宿っていた。
「……今の、わざと?」
「何が」
「高さと深さ。ずっと変えてたよね」
「見えたか」
「見えたんじゃなくて、気持ち悪かった。打つたびに、タイミングがずれていく感じ」
遊汰は、ラケットのグリップを握り直した。
(言葉にできないのに、感覚で全部拾ってる。やっぱり本物の天才だ)
このゲームを、遊汰はキープした。1対3。
だが、流れが変わったのはそこまでだった。
結果は、1対6。
最後のポイントは、蓮のフォアが遊汰の足元を抜けていった。
「ゲームセット。六対一」
蓮の宣告で、試合が終わった。
遊汰はネットに歩み寄り、手を差し出した。
「ありがとう。今日は、君のほうが上だった」
蓮が、目を丸くした。
「……そういうの、普通言わないよ」
「そうか?」
「悔しがるでしょ、フツー。れいなに笑われるとか、先輩に言い訳するとか」
「事実だから」
遊汰は、少し笑った。
「でも、次は取りに行く」
蓮は、しばらく黙って遊汰の手を見ていた。それから、ゆっくりと握り返す。
「明日も、打とう」
「ああ」
「それと、さっきの球。なんであんなふうに打てるのか、教えてよ。俺、感覚で打ってるだけで、説明できないんだ」
遊汰は、はっとした。
(教える。言葉にする。それは、三十三歳の自分が、十年かけて磨いてきたものだ)
「いいよ。ただし、条件がある」
「条件?」
「君のフォアの感覚も、俺に教えてくれ。言葉にならなくてもいい。一緒に探そう」
蓮は、少しだけ目を細めた。
「……面白いね、君」
フェンスの外から、れいなが手を叩く音が聞こえた。青木は何も言わず、ただ、遊汰を見つめていた。
そして、青木が口を開く。
「遊汰。今夜、職員室に来い」
「え、はい」
「渡したいものがある。……お前に会わせたい人間の、連絡先だ」




