第2話 その打ち方、誰に習った?
「もう一球、打ってみろ」
青木の声に、遊汰は小さくうなずいた。
(落ち着け。同じ打ち方を、もう一度。それだけだ)
二球目も、バックハンド側だった。遊汰は膝を抜き、ラケットを高く構える。打点は身体の少し前。面を寝かせすぎず、ボールの下を撫でるように運ぶ。
低く滑った球が、再びコートの隅に沈んだ。
青木は黙ったまま、三球目、四球目と続けて送ってくる。深く、浅く、高く、低く。遊汰は一球ずつ、足を動かして追いかけた。
十球目を打ち終えたところで、青木がようやくカゴを下ろした。
「……打点が前だ。しかも、足が先に着いてる。高校一年でそれができる奴は、県内でもそういない」
「たまたまです」
「たまたまで十球全部は入らん」
青木の視線が刺さる。遊汰は目をそらさずに答えた。
「本を読んで、自分なりに考えました」
「本、ね」
青木は鼻を鳴らしたが、それ以上は追及しなかった。
「まあいい。ただ、気になることがある」
「なんですか」
「お前の振り方は、教科書どおりすぎる。今の高校生の打ち方じゃない。……綺麗すぎるんだ」
遊汰の背中に、冷たい汗が流れた。
(三十三歳のコーチが、生徒に教えてきた形そのものだ。十六歳の身体で、それをやってる)
「それと」と、青木が続けた。
「今日から、朝練はお前だけ別メニューにする。スライスの精度はいい。だが、土台がまだ追いついていない」
「土台、ですか」
「足腰だ。見ていて分かった。スライスを打つ前に、一瞬だけ息を止めている。身体が反応に追いついてない証拠だ」
図星だった。
遊汰は、自分の太ももを見た。三十三歳の頭は、動き方を知っている。だが、十六歳の身体はまだ、その動きを支える筋肉を持っていない。
「走れ。まずは、グラウンドを十周だ」
「はい!」
即答した遊汰に、青木が少し目を丸くした。
「……文句は言わないんだな」
「やりたいので」
青木は、ふっと口の端を上げた。
朝練が終わる頃には、遊汰の足は震えていた。
「大丈夫? 生まれたての子鹿みたいだよ」
水飲み場で、れいなが笑いながらタオルを投げてくる。
「十周は、さすがにきつい」
「でも、顔は楽しそうだよ」
「そうか?」
「うん。なんか、前より元気。前の遊汰は、練習してても、ずっとどこか遠慮してる感じだったから」
遊汰は、ペットボトルを握る手を止めた。
(遠慮、か)
十六歳の自分は、きっとそうだった。うまくなりたい。でも、自分なんかがどこまで行けるのか分からない。その迷いが、毎日の練習に薄い膜を張っていた。
「れいなは、プロを目指してるのか?」
「え、急に何」
「いや。気になっただけ」
れいなは一瞬きょとんとして、それから、真っ直ぐに答えた。
「目指してるよ。世界ランキングに載りたい。笑われるかもしれないけど」
「笑わない」
遊汰は、即座に言った。
「俺も、そのつもりだ」
れいなの目が、ぱっと見開かれる。
「……へえ。初めて聞いた」
「初めて言った」
「そっか」
れいなは少し照れたように笑い、拳を軽く突き出した。
「じゃあ、お互い頑張ろ。戦友ってことで」
遊汰も拳を合わせる。軽い音がして、朝の空気に溶けた。
昼休み。
教室の窓際で、遊汰はノートを開いていた。三十三歳までに学んだフォーム、配球、フィジカルの理論を、思い出せる限り書き出していく。
(まず、足。次に、土台。そしてスライスを軸にした組み立て)
「それ、何書いてんの」
頭の上から声が降ってきた。顔を上げると、蓮が立っていた。
「……テニスのメモだ」
「見せて」
「え」
蓮は、返事を待たずにノートを覗き込んだ。細い指が、ページの端をめくる。
「『打点:身体の前、高さは腰から胸。足は打つ前に着く』……『相手の重心を見る』……」
蓮の眉が、わずかに寄った。
「これ、全部言葉にしてるの?」
「ああ」
「俺、そういうの苦手なんだよね。打てば分かるから」
蓮は、悪びれもなく言った。
「でもさ、朝のスライス、あれ、変だった」
「変?」
「うまいんじゃなくて、迷ってない感じ。……何て言えばいいか分かんないけど」
蓮は首をかしげたまま、遊汰のノートをもう一度見下ろす。
「放課後、俺と打たない?」
唐突な誘いだった。
「いいのか」
「うん。気になるから」
そう言い残して、蓮は自分の席へ戻っていった。
遊汰は、ゆっくりとノートに視線を落とした。
(前世で、一度も口をきいたことのなかった男が、自分から誘ってきた)
胸の奥で、何かが静かに動き始めていた。
放課後。コートの隅で、蓮は一人、ボールを弾ませていた。
「来たね」
「ああ」
「ルールは簡単。一セットマッチ。ウォーミングアップ込みで」
「分かった」
二人はベースラインに立つ。
フェンスの外では、れいなが腕を組んで見ていた。少し離れたところには、青木の姿もある。
(天才との初対決か)
遊汰は、ラケットを握り直した。
蓮がトスを上げる。
乾いた音とともに、サーブが飛んできた。
速い。反応が一瞬、遅れる。ラケットの先をかすめた球が、後ろのフェンスにぶつかった。
「フィフティーン・ラブ」
蓮が、静かに告げた。
遊汰は、ゆっくりと息を吐いた。
(そうだ。今日は、俺より彼のほうが上だ)
悔しさよりも先に、不思議な静けさが来た。
けれど、次の瞬間。
蓮の口が、小さく動いた。
「……ねえ。君、前に俺とどこかで会ったことある?」
遊汰の心臓が、大きく跳ねた。




