第1話 あと一球
閉館後のインドアオムニコートは、驚くほど静かだった。
天井の照明が落ちかけ、非常灯の緑がぼんやりと床を染めている。砂入り人工芝にボールが沈む、ふっという鈍い音だけが響いていた。
「……よし」
遊汰は、ネット際のカゴから黄色いボールを一つ取った。三十三歳。このスクールでコーチを始めて、もう五年になる。
バックハンドのスライスを、クロスへ。膝を抜き、ラケットを高く構え、前へ運ぶように振る。低く滑ったボールは、コートの隅へ吸い込まれた。
「今のは、いい」
誰もいないコートで、一人つぶやく。
ふと、夕方の言葉が胸に浮かんだ。
『コーチって、試合には出ないんですか?』
小学生の生徒だった。悪気のない、まっすぐな目だった。
『コーチ、あんなに上手いのに』
遊汰は笑って「コーチは教える側だからな」と答えた。ちゃんと笑えていたと思う。
けれど、夜になっても、その言葉は抜けなかった。
(上手いのに、か)
プロになりたかった。十六歳の頃から、ずっとそうだった。それなのに「自分は本当にやっていけるのか」という声に負け続け、いつの間にか教える側の椅子に座っていた。
足を動かせ。考え続けろ。生徒には毎日そう言っている。
一番止まっていたのは、自分だった。
「……あと一球だけ」
カゴの最後の一球を手に取る。
トスを上げる必要はない。壁に向かって、ただ打つだけだ。スライスをもう一度、丁寧に。
ボールを落とし、踏み込み、振り抜いた。
そのとき、天井の照明が、ぱちんと音を立てて消えた。
「遊汰ー! 起きなさい、遅刻するわよー!」
階下から響く母の声で、目が覚めた。
(……母さん?)
聞き覚えのある声だった。ただ、ここ十年はほとんど聞いていない、張りのある声だ。
天井を見上げる。見慣れない、いや、見慣れすぎた白い天井。壁には色あせたテニス雑誌のポスターが貼ってある。
「うそだろ」
起き上がった瞬間、身体の軽さに驚いた。腰が痛くない。膝も、肩も、どこも重くない。
洗面所の鏡の前で、遊汰は固まった。
そこにいたのは、頬の丸い、あどけなさの残る少年だった。
「……俺か、これ」
頬をつねる。痛い。壁のカレンダーは、十七年前の四月を指していた。
制服のかかったハンガーには、校章が光っている。私立紅陵学園高校。
背筋に冷たいものが走り、遊汰は柱の傷に背中をつけた。母が毎年つけてくれた、身長の記録だ。
頭の上に手を当てて確かめる。
「……百六十五、か」
そうだった。この身長は、この先も大して伸びない。最後まで「小さい」と言われ続けた。
けれど、遊汰の口元は、気づけば少し笑っていた。
(身体は十六歳。頭には、三十三歳までの経験が全部ある)
三十三歳の自分がやり残したこと。それをもう一度やり直せる。
「やるしかないだろ。今度こそ」
朝練のために、紅陵学園のテニスコートに着いたのは、七時前だった。
ハードコートが六面。フェンスの向こうでは、すでに数人の部員がアップを始めている。懐かしい、乾いた土の匂いがした。
「おはよう、遊汰」
声をかけてきたのは、ポニーテールの少女だった。
「あ、れいな」
「え、今、名前呼び捨て? いつもは『平本』って呼んでたのに」
平本れいな。女子部の同級生で、確か数年後には同じ国際大会の会場で顔を合わせる相手だった。
「悪い、寝ぼけてた」
「ふーん。あ、でも珍しいね、遊汰が一番乗りじゃないの。もう誰か来てるよ、ほら」
れいなが顎で示した先、コートの端で、一人の少年がボールを打っていた。
細身で背が高く、無駄のないフォーム。
乾いた音が、静かな朝に響く。ラケットの面に当たった瞬間、ボールはすっと伸びてコートの深くに突き刺さった。
遊汰は、息をのんだ。
(……覚えてる)
鷹宮蓮。
同学年の天才だ。今の時点で、すでに別格の感覚を持っている。遊汰が三十三歳になるまで、その名前をテレビや雑誌で見かけるたびに、胸の奥がちくりと痛んだ相手だった。
蓮がこちらに気づいて、ラケットを止める。
「……誰? ああ、同じクラスの」
「遊汰だ。遊汰、よろしく」
「ふうん」
興味なさげな返事だった。それでも、蓮の視線は遊汰のラケットバッグの上で一瞬止まった。
「おい、お前たち。ぼさっとしてないで、アップだ」
低い声が飛んだ。
フェンスの脇に、ジャージ姿の男が立っていた。四十代前半、日に焼けた顔に鋭い目つき。元実業団選手で、紅陵学園テニス部の顧問、青木空だ。
「青木コーチ、おはようございます」
「……お前、今日は早いな」
青木が目を細めた。それから、ふと何かを思いついたように、カゴを抱え上げる。
「そうだ。遊汰、お前、ちょっと来い。今日の朝練、球出ししてやる」
「え、俺ですか?」
「ああ。普段は後ろでぼんやりしてるお前が、今朝は目つきが違う。何があったか知らんが、打ってみろ」
遊汰はラケットを握った。懐かしい重さだ。
青木が、ゆるいボールを送ってくる。バックハンド側。ちょうどいい高さだ。
(身体は軽い。でも、感覚が少しずれてる)
踏み込む。膝を抜く。高く構えたラケットを、前へ運ぶように。
スライスが、低く、静かに伸びた。ネットすれすれを抜け、ベースライン手前で小さく沈み、コートの隅で止まるように弾んだ。
青木のラケットを持つ手が、止まった。
「……お前」
蓮も、打つ手を止めてこちらを見ている。
「今の球、誰に教わった?」
青木の声は、低く、掠れていた。
遊汰は答えに詰まった。三十三歳で学んだ、とは言えない。
青木の目が、獲物を見つけたように光る。
「もう一球、打ってみろ」




