第5話 見本の足
「お前、何者だ」
小野寺の声は低かった。倉庫を改装したインドアコートに、ボールの音が止んだ静けさが落ちる。
遊汰は、ラケットのグリップを握り直した。
嘘をつくのは簡単だ。けれど、この男には通用しない気がした。
「……全部は、言えません」
「ほう」
「でも、テニスに関して嘘はつきません。本気でプロを目指しています。それだけは本当です」
小野寺は、しばらく黙って遊汰を見ていた。やがて、鼻でふっと笑う。
「いいだろう。言えないことがあるのは、誰でも同じだ」
「いいんですか」
「俺が知りたいのは、お前の過去じゃない。お前の足だ」
小野寺は、遊汰の足元を顎で指した。
「さっきの動き、気づいたか。お前の足運びは、見本としては完璧だ。一歩目も二歩目も、教科書に載せたいくらい綺麗だ」
「……はい」
「だが、それは見せるための足だ。生徒に『こう動くんだ』と見せるための足。試合で、相手に追われて動く足じゃない」
遊汰は、胸を衝かれた。
三十三歳の自分は、毎日、見本を見せてきた。きれいに、正しく、無駄なく。けれど、本気で追い込まれた試合で、自分の足がどう動くかは、長いこと確かめていなかった。
「綺麗に動こうとするな。生き残るために動け。まずは、そこからだ」
「はい!」
小野寺が最初に持ち出したのは、ラケットでもボールでもなく、色のついたコーンだった。
コートの中央に、赤、青、黄、白の四つを置く。
「俺が色を呼ぶ。呼ばれた色に、最短で触って戻れ。打つ必要はない」
「それだけですか」
「それだけだ。ただし、考えるな。頭で動こうとした瞬間、お前の負けだ」
「……はい」
「青」
遊汰は、一歩目を切った。コーンに触れ、中央に戻る。
「白」
「黄」
「赤」
呼ばれる間隔が、少しずつ短くなる。三十秒を過ぎたあたりで、遊汰の呼吸が乱れた。
「止まったな」
小野寺が、ぴたりと声を止めた。
「息を止めてた。お前、動く前に、必ず一回、息を止める癖がある」
(青木コーチにも、同じことを言われた)
「頭が『次はどっちだ』と考えると、身体が固まる。固まった身体は、一歩目が遅れる。それを、お前は毎回、無意識にやっている」
「どうすれば」
「息を吐け。動く前に、ふっと吐く。吐いた分だけ、身体は勝手に動く」
小野寺は、自分の腹を軽く叩いた。
「頭を黙らせろ。目だけ開けておけ。それだけでいい」
遊汰は、目を閉じて、一度だけ深く息を吐いた。
(頭を、黙らせる)
静けさ。インドアコートの空調の音だけが、遠くに聞こえる。
「……青」
目を開けた瞬間に、小野寺の声が来た。
遊汰の足が、考える前に動いていた。
気づいたときには、青いコーンに手が触れていた。戻る。次の声。「赤」。また動く。
「そうだ」
小野寺の声が、わずかに笑った。
「今の足だ。覚えとけ」
遊汰は、荒い息のまま、自分の足を見下ろした。
重くない。むしろ、少し軽い。
(これが、試合の足か)
三十三歳のコーチ人生では、一度も辿り着けなかった感覚だった。
一時間後。
遊汰は、コートの隅に座り込んで、ペットボトルの水を一気に喉へ流し込んでいた。
「ふん。三ヶ月とは言ったが、思ったより早く伸びそうだな」
小野寺は、満足そうに腕を組んでいる。
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い。最後に、確認したいことがある」
「確認?」
「お前の『身体』が、どこまで通用するか。見てみたい」
小野寺は、コートの入口に目を向けた。
「おい、入ってこい」
扉が、ゆっくり開く。
入ってきたのは、遊汰より頭一つ半は大きな少年だった。
百八十五センチはあるだろう。長い腕。長い脚。ラケットバッグを肩にかけたまま、無表情にこちらを見下ろしている。
「柴崎大地だ。中学三年。去年の全国ジュニアで、ベスト8に入った」
「……全国」
「こいつと、一セット打て」
小野寺は、あっさりと言った。
「遊汰。お前の武器はスライスだ。体格では勝てない。だから、技術と足で勝つしかない。……それを、今ここで見せてみろ」
柴崎が、一歩前に出た。
近くで見ると、その大きさがはっきり分かる。上から落ちてくる視線は、静かで、重い。
「あんたが、青木さんの言ってた奴?」
「……ああ」
「ふうん」
柴崎は、遊汰の頭のてっぺんから足元まで眺めた。
「小さいな」
三度目の、その言葉だった。
遊汰は、ゆっくりと立ち上がった。
「そうだな。小さい」
そして、笑って付け加えた。
「だから、足を止めないんだ」
柴崎の眉が、ぴくりと動く。
小野寺が、にやりと口の端を上げた。
「条件は一つ。一ゲームも取れなかったら、今日で終わりだ。お前を教える価値はない」
「え」
「やるか、遊汰」
遊汰は、ラケットを握り直した。
息を、ふっと吐く。
「やります」




