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【CHAPTER-01】Metastable State:準安定状態(5)

エリアの隅に広げられた簡易作業台では、翔太と浩司が顔を突き合わせ、先ほど美和が聴き取ってみせた四箇所の欠陥座標を既存図面へ赤入れして整理する作業に没頭していた。図面を繰る乾いた紙の音と、鉛筆が走る硬質な音だけがコンクリートの空間に響く。完全に実務の手を離れ、手持ち無沙汰になった美和は、コンクリート壁や頭上の配管を見上げながら数歩歩いた後、フロアの中央で直立不動のまま腕を組んでいたジャックへと吸い寄せられるように歩み寄っていく。


カツ、カツ、と近づいてくる安全靴の小さな足音。キャノピー越しに接近する未確認機を警戒する戦闘機パイロットとしての防衛本能が作動し、ジャックは全身の筋肉を硬直させた。視線は正面の壁を捉えたまま微動だにさせないが、彼の生体ソナーは至近距離から放射される彼女の体温のゆらぎを、コンマ1秒の狂いもなく捕捉している。


ジャックの斜め前、わずか50センチの至近距離で、美和の足が止まった。背後の作業台をチラリと確認した美和は、小さな両手を揃えて口元に当て、内緒話をする子どものように身を乗り出す。そしてジャックを見上げ、こっそりと弾む声を耳元へ届かせた。


「……キャンベル中尉さん」


ピクリ、とジャックの眉根が跳ねる。直後、口元に当てられた小さな指の隙間から、決定的な弾頭が放たれた。


「……昨日のキャンディ、おいしかったでしょ?」


わずかな沈黙。返答を完全に喪失したジャックの頸動脈を、猛烈な勢いで血流が駆け抜けていく。至近距離から放射される彼女の体温のゆらぎと、耳元をくすぐるその声。まるで至近弾の熱風を浴びたかのように、反撃のプロトコルを起動する余地すらなく、彼の冷徹な理性的防壁は音もなく焼き尽くされていく。


(――不可だ。至近距離からの秘匿通信を直ちに遮断しろ)


だが、脳内OSが例外処理の連続によって極限の演算負荷に達する一方で、冷徹な知性は、彼女の問いかけが孕む致命的な論理矛盾を瞬時に突きつけた。


――昨日のキャンディ、おいしかったでしょ?


食べていない。昨夕、彼は散々迷った挙げ句、「代謝によるエビデンスの滅失を防ぐ」という大真面目なヘリクツを立てて、執務室のデスク最上段の引き出しの奥深くに厳重保管してしまったのだ。今この瞬間も、あのセロファンは、暗闇の中で未開封のまま完全な質量を保ち続けている。しかし、目の前で「おいしかったでしょ?」と確信に満ちた瞳で自分を見上げ、こちらの肯定的な応答を無邪気に待っている彼女に対し、「引き出しの奥に隔離保管したため、味覚データのサンプリングは未履行である」などと、言えるはずがなかった。そんな真実を開示すれば、「未認可糖分の代謝を回避し、執務デスクの奥へ隔離している」という己の説明不能な執着と論理破綻を白日の下に晒すことになる。海軍士官としての、何より男としてのプライドがそれを許さない。だが、虚偽申告を行うこともまた、厳格な規律を叩き込まれた身には許されぬ行為だった。真実を告げれば自己の防衛システムは完全に爆発四散する。


コンマ数秒の間隙で繰り広げられた極限の演算の果てに、ジャックは彫像のように硬直したまま、アイスブルーの瞳を微かに伏せ、喉の奥から極めて低く掠れた声を出力した。


「…………ああ」


[STATUS: AFFIRMATIVE]

(肯定)


虚偽申告のプロトコルが、彼の人生で初めて正式に承認された瞬間だった。


(――執務室へ帰投次第、直ちに引き出しの個体を口腔内へ投入、代謝しなければならない)


今夜、あの一粒を自らの胃袋へ消滅させなければ、彼女に告げた肯定の言動との間に致命的な論理矛盾が恒久的に残留してしまう。もはや「保管」という選択肢は消滅した。彼女への虚偽を物理的事実へと上書きするためだけに、あの未認可糖分を口にすることを余儀なくされたのだ。


一方、その掠れた肯定の響きを受け取った瞬間、美和は口元から手を離し、ぱっと表情を輝かせる。怖そうに見える士官さんが、ちゃんと昨日のキャンディを口にしてくれた。その事実がたまらなく嬉しくて、胸の奥がじんわりと温かくなる。満面の笑みをほころばせ、嬉しそうに小さく飛び跳ねながら、無邪気な追撃が投下された。


「よかったぁ……また持ってきますね!」


追い打ちのように予告された次弾装填。美和の甘い声色と向日葵のように眩しい笑顔を見つめ返しながら、ジャックは喉の奥で息を殺し、跳ね上がりそうになる心拍数をただ無表情の奥へ抑え込んでいた。


「よし、みー! こっちの図面チェック終わったぞ、片付け手伝え!」


作業台から浩司の野太い声が飛び、美和は「はーい!」と元気よく返事をしてパタパタと駆け戻っていった。


取り残されたジャックがようやく肺腑の熱い空気を吐き出す頃には、冬の短い陽は早くも西の空へと傾き、第155棟の灰色の外壁に長い影を落としている。四箇所の欠陥座標を反映した図面の整理・赤入れ作業はすべて滞りなく完了し、現場は阿部工務店チームの撤収の刻限を迎えていた。


駐車場に停められた社用車のハイエースの前で、翔太が図面ケースを抱え、直立する士官三名へと軽く頭を下げる。


「本日の現調データは社に持ち帰って再度BIMへ反映させます。明日の予定箇所のスキャンスケジュールは、朝イチでそちらの端末へ送信しておきますので」

「了解した。受信次第、こちらで承認ラインを通しておく」


アーティーが手帳を胸ポケットへ収めながら、スマートに応じた。その背後、ハイエースの冷え切ったスライドドアに手をかけていた美和が、ふと動きを止める。車に乗り込もうとしていたはずの小さな身体が、くるりと爪先を翻した。作業用ヘルメットを脱いだやわらかな黒髪を夕暮れの冷たい風に揺らしながら、彼女は直立する三人の士官へ向けて満面の笑顔を咲かせる。そして、胸の高さで小さな両手をパタパタと花びらのように振ると、甘く弾むようなトーンで声を響かせたのだ。


「キャンベル中尉さん、ミラー大尉さん、サリバン少尉さん。今日もありがとうございました。また明日ね!」


言い終えるが早いか、美和の身体は作業着の襟元ごと背後から無造作に釣り上げられた。「あっ……」と小さく声を漏らす間もなく、悪さをした仔犬のように首根っこを掴まれ、彼女の爪先が宙に浮く。浩司はその巨躯を旋回させて美和を瞬時に自らの背後へ隠し、士官たちとの射線を強引に遮断すると、ハイエースの後部座席へそのまま押し込んだ。


「誰が『また明日ね!』だ! 近所の公園のノリであいつらに手を振るんじゃねえ! むやみやたらに愛嬌を振り撒くな!」

「だって……! 名前覚えたから、仲良しになったかなって……!」

「なるか! 相手は外国の軍隊だ! いいから大人しく座ってろ!」


バチン! と勢いよく閉められるスライドドア。スモークガラスの向こうから、美和が窓にペタッと額をくっつけ、なおも名残惜しそうに小さく指先を振っているのが透けて見えた。唸りを上げて発進したハイエースは、検問所を抜けて夕暮れの幹線道路へと走り去っていく。


車輪の摩擦音が完全に途絶え、現場に潮風の冷たい静寂が戻った瞬間。口元を両手で覆っていたオーリーの肩が、激しく震え出した。喉の奥で必死に殺していた呼気が、堪えきれずに低く吹き零れる。隣に立つアーティーもまた、整った眉間を微かに緩め、静かに肩を揺らしていた。


「……ダメだ、耐えられない……! 『また明日ね!』って……あんな全力の両手バイバイ、ベースの中で見せられたの生まれて初めてですよ……!」


オーリーは腹を抱えて笑い、眼鏡の奥のヘーゼルの瞳を涙で滲ませた。


「しかもお兄さんのあの迎撃! 妹が手を振ったコンマ数秒で割り込んできて、仔犬みたいに首根っこ掴んで放り込んでましたね。アメフトのオフェンスライン顔負けの反応速度じゃないですか」

「……ああ。全くもって規格外だね」


アーティーは手帳をポケットの上から軽く叩き、知的で冷徹な顔立ちに極上の苦笑を浮かべる。


「情報部の周りには計算高くて油断のならない人間ならいくらでもいるが……あそこまで一切の防諜装甲を持たない対象は、私の観測史上初めてだよ」

「ですよね。計算も何もないから余計に防ぎようがないんです。あんな直撃弾をゼロ距離で投げ込まれたら、どんな頑丈な装甲でもひとたまりもありませんよ」


オーリーはそう言いながら、あえて視線をスッと真横、彫像のように直立不動のまま固まっているジャックへと向けた。


「……ねえ、キャンベル中尉?」


ジャックは返答しなかった。微動だにしない。呼吸音すら聞こえない。しかし、その視線はハイエースが走り去った道路の消失点へ向けられたまま完全にロックオンしており、引き結ばれた薄い唇と強張った顎のラインだけが、彼が受けた衝撃の質量を物語っていた。


子どもが友達に手を振るような、たったそれだけの無邪気なバイバイ。相手との距離をミリ単位で測り合う洗練された世界しか知らなかった男には、そのあまりに無防備な直撃を受け流す術がなかった。規律も階級も置き去りにした純粋な親愛が、彼の冷徹な世界を根底から揺るがしている。


「……中尉? 聞いてます?」


オーリーが意地の悪い笑みを浮かべて覗き込んでくる。ジャックは強引に胸郭を動かし、氷のように冷たい、しかし微かに掠れた士官トーンで短く言い放った。


"Belay that."

(不要な雑談を中止しろ)


「……サリバン少尉、ミラー大尉。明日のスキャン準備のため、直ちに執務室へ帰投する」


早口にそれだけを通告すると、ジャックは軍靴をミリ単位の精度で翻し、大股でスタスタと歩き出した。その歩行速度は、通常時の巡航速度を明らかに超過している。


「おや、逃げましたね」


オーリーが愉悦を隠さず呟く。


「執務室に戻って、真っ先に何をするつもりだろうね」


アーティーはダークブラウンの双眸を眇め、明らかに巡航速度を超えて遠ざかる親友の後ろ姿を愉悦とともに見届けながら、ゆったりとした歩調でその後を追う。


冷え切った横須賀の夕暮れの中、ジャックの脳内プロセッサでは、たった一つの緊急命令が激しく点滅を繰り返していた。


(――至急、自席へ帰投し、昨夜隔離保管した未認可糖分を口腔内へ投入、代謝せよ。……虚偽申告を、直ちに物理的事実へと上書きしなければならない)

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