【CHAPTER-01】Metastable State:準安定状態(4)
張り詰めた静寂の余韻が漂う中、オーリーは胸ポケットから取り出した眼鏡拭きでレンズを拭い、再び鼻梁へと掛け直す。ヘーゼルの瞳に宿るのは、未踏の物理現象を前にした純粋な工学的探求心そのものだった。その視線は、冷え切った壁の前で所在なげに指先を絡めている小柄な女性へと真っ直ぐに向けられている。
「……Ms. Abe、一つ伺ってもいいですか?」
オーリーが投げた問いかけに、美和はピクッと肩を揺らし、恐縮したように小首を傾げた。
「は、はい! 何でしょうか、サリバン少尉さん」
相手が日本人であることに配慮してか、オーリーはたどたどしい日本語で話し始めたものの、技術者としてのもどかしさに耐えかねたように、すぐに早口の英語へと切り替えて問いを重ねる。さっきの四箇所はどれも驚異的な的中率だったこと。推論にわずかな誤差はあれど、位置と応力の特定一致率は89.5%に達し、何より平均18秒というスピードは異常であること。海軍の非破壊検査機器ですら、プローブを選定して波形解析ソフトを走らせなければ検出できない内部空隙や剪断応力を、一体どうやって聴いているのか。
「壁の中で泣いているとか、鉄の骨が苦しがっているとか、その……あなたにはどう知覚されているんですか?」
早口の英語を、翔太が平易な日本語へと淀みなく要約して美和へ手渡す。それは、現場に居合わせた士官たち全員の胸にある、純然たる疑問そのものだった。アーティーが手帳を閉じた指先を止めて静かに耳を澄ませる傍ら、ジャックは彫像のようなポーカーフェイスを崩さぬまま、全神経の受信帯域を彼女の唇一点へと絞り込んでいた。
「どうやって、と言われると……」
美和は困ったように眉尻を下げ、ヘルメットの鍔の下から瞳を戸惑いがちに泳がせた。
「小さい頃から、おばあちゃんとお話ししながら覚えたから、わたしにとっては当たり前で……」
"……Grandmother?"
(……おばあちゃん?)
美和の言葉を翔太が訳した直後、オーリーが思わず呟く。美和は現場の埃っぽいコンクリート壁を慈しむように見つめ、幼い日の記憶を手繰り寄せるように両手を胸の前で重ねた。
「はい。わたしがちっちゃい頃、作業場に遊びに行くと、おばあちゃんがいつも教えてくれたんです。『この木はぽかぽかしてて温かいね』とか、『この石はカチッと座りたがってるよ』って」
どこか懐かしい昔の作業場を思い起こすように、翔太がわずかに目元を緩める。兄の見守る穏やかな空気にすっかり気を許したように、美和は横から一生懸命に言葉を紡ぎ続けた。
「建物の材料って、みんな生きてるんです。無理な力がかかると息苦しそうに我慢するし、接着が剥がれそうになると泣き出したり。……音というか、お話ししてるみたいに、頭の中にその子の響きがそのまま入ってくるんです」
それは、幼少期に祖母との温かな言葉遊びを通じて培われた感性の苗床であり、阿部家の血脈に流れる職人の直観だった。目に見えるひび割れとなって現れる前の、コンクリートや鉄の奥底で生まれる微かな軋み。機材の測定結果を待つまでもなく、建物の小さな痛みの震えを、彼女は理屈ではなく、生き物と触れ合うような純粋な感性で捉えていたのだ。
「……なるほど。共感覚に近い知覚、いや、天性の生体音響センサーというわけですか。それにしても、妹の拾った感覚を兄が一人で工学データへと復元するとは……外部の人間を一切寄せ付けない、随分と排他的で閉鎖的なシステムですね」
オーリーは両手を軽く広げ、半ば呆れ、半ば脱帽したように苦笑いを漏らした。だが、その言葉を拾った浩司は、鼻先で短く息を吐き捨てただけだった。
"Same as your unit."
(あんたらの部隊と同じだ)
白ヘルメットの下から覗く野性味のある眼光が、冷ややかな光を帯びて士官たちを正面から見据える。腕を組み、分厚い胸板で美和への射線を完全に遮断したまま、続く言葉は士官たちに理解させる気すらない低く濁った日本語だった。
「作戦暗号だのUFCコードだの並べ立てて、部外者を締め出すのがあんたらのやり方だ。こっちも同じだ。姫の言葉をただの擬音だと笑う奴に、この建物の芯は触らせねえ。こいつの感覚を数値に直せる辞書を持ってるのは、壁や木と喋り始めた頃から、ずっとその言葉を守ってきた俺だけだからな」
一切の躊躇もない、絶対的な独占の宣言。妹の特異な感覚を笑わせず、外界の冷徹な工学と接続する唯一のインターフェースとして立ち続けてきた兄の、狂気にも似た自負と矜持だった。
「他人に説明したところで理解できんし、あんたらのハイテク測定器よりうちの姫の耳の方が百倍速くて正確だ」
そう吐き捨てて浩司が顎をしゃくると、美和は兄の背中の影から控えめに顔を出し、「えへへ」と照れ笑いを浮かべた。疑う余地など微塵もない、無条件の信頼。二人の間に張り巡らされた見えない防壁は、いかなる軍事機密ネットワークよりも強固で、排他的だった。
その光景を後方で腕を組んで眺めていたアーティーが、喉の奥で満足そうに低く笑いながら、情報士官特有の艶やかな視線を浩司へと滑らせる。
「手厳しいな。だが、一理ある。高度に特化した閉鎖的プロトコルほど、外敵に対する防壁としては強固だ。……羨ましいチームワークだよ、Mr. Abe」
皮肉混じりの賞賛を投げかけるアーティーの横で、ジャックはただ直立の姿勢をミリ単位で硬化させていた。感情の一片すら読み取らせないポーカーフェイスを維持したまま、アイスブルーの視線だけが、阿部家の閉じた輪を冷徹に射抜いている。
その言葉を裏付けるように、長男の翔太が図面をめくりながら淡々と指示を飛ばした。
「浩司、みーが指摘した四箇所の補強詳細図を、公式スキャンデータの出力を待たずに夕方までに先行して引き直せ。数値は後から必ず一致する。手戻りの時間はゼロにするぞ。……キャンベル中尉、先行作図に着手して異論はありませんね?」
翔太は機械の算出を待つまでもなく、妹と弟の連携を唯一の真実として現場を動かしていた。胸の奥で吹き荒れる激しい嵐を押し殺し、問いかけられたジャックは静かに息を吸い込んで、平然とした士官のトーンで応じた。
「……異論はない。実測データに基づき、是正手順の着手を承認する」
彼女のオノマトペを、当初は非論理的な言語ノイズとして切り捨てようとしていた己の傲慢さ。だが現実に突きつけられたのは、最新鋭の軍用センサーを遥かに凌駕する生体ソナーの圧倒的な実効性だった。そして何より、ジャックの冷徹な理性を苛んだのは猛烈な疎外感だった。
美和が呟き、浩司が翻訳し、翔太が決定を下す。その間、わずか数秒。阿部家の三人が織りなす『家族という艦隊』の完璧な暗号通信プロトコルの前に、アナポリスを次席で出たエリート士官の自分が、一歩も中へ立ち入れない完全な部外者として締め出されている。彼女の耳だけが受信しているあの微細な音響シグナルを真に理解し、その周波数に同期する権利を、自分は一ミリも持っていないのだという現実。それは、高空を飛翔するF/A-18Eの密閉されたコックピットで、自機だけが戦術データリンクから完全に切り離されたかのような、冷徹な孤独だった。
無意識のうちに胸ポケットから官給品ボールペンを引き抜くと、親指でカチリとノック部を押し込んでいた。
「あの……キャンベル中尉さん?」
不意に、至近距離から甘く柔らかい声が鼓膜を打った。ジャックが視線を落とすと、美和がヘルメットを両手で押さえながら、恐る恐る彼を見上げていた。
「わたし……変なこと言って困らせちゃいましたか……?」
不安そうに揺れる瞳。その澄んだ光を前に、ジャックはかつて古典物理の決定論で組み上げられていた自らの世界が、足元から音を立てて砕け散っていくのを覚えた。
(――困らせているのではない。私の決定論の方程式をもってしても、目の前の未知の変数に対する解を導き出せないだけだ)
思考の深部に生じた揺らぎを力づくで抑え込み、ジャックは無機質な士官の声音で、淡々と事実のみを返した。
「……Negative(否)。貴女の音響知性は、当工区の構造欠陥を回避する上で極めて有効なパラメータであると評価する」
「……! よ、よかったぁ……!」
美和の顔に、ぱあっと満開の向日葵のような笑顔が咲き誇る。相手から決して視線を逸らさないという、アナポリスで骨の髄まで叩き込まれた規律が、その無垢な光を前にあっけなく揺らいだ。直視に耐えかねたように、ジャックはわずかに視線を天井の配管へと逸らしていた。
(――兄という中間復調器を介さなければ、彼女の周波数を捉えることすら叶わないというのか)
自身が今日まで誇ってきたあの絶対的な均衡は、最初から微小な外乱一つで揺らぐ、見せかけの局所安定に過ぎなかったのではないか。そんな冷ややかな疑念が、音もなく理性の深奥を侵食していく。
他人のフィルターを通した間接的なデータではなく、自分自身の目で、自分自身の座標系で、あの観測不能な特異点を捉え直したい。解けない変数に乱される側から、自らが直接観測する側へ。
冷徹な『Iceman』の心奥で、新たなプロトコルが音もなく立ち上がっていた。




