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【CHAPTER-01】Metastable State:準安定状態(6)

執務室へ帰投するなり、ジャックは現場用のフリースジャケットを脱ぐ手順すら省き、寸分の狂いもない軌道で自席のスチールチェアへと腰を下ろした。背後で遅れて入室してきたオーリーとアーティーが、書類を棚へ戻しながら何やら目配せを交わしている気配がある。だが、今のジャックの索敵レーダーは、二人の士官たちの観察眼を完全に後景へとパージしていた。


呼吸を整える。心拍数は正常範囲より8bpm高い。ジャックは左手を滑らかに伸ばし、対向席や背後からの視線を自らの体躯で遮りながら、デスク最上段の引き出しを音もなく引き開けた。周囲に悟られないよう最小限の開口にとどめつつ、最奥へ指先が滑り込むだけのクリアランスを確保する。薄暗い最上段の引き出しの最奥。整然と並べられたクリップやスケールの陰に、それはあった。果実の点描模様が無秩序に散布された防護セロファンに包まれた、一粒の未認可糖分。


昨夕、彼はエビデンスの保全を名目にこれを封印した。けれど日中、現場のあの至近距離において、口元に小さな手を当てた美和から「昨日のキャンディ、おいしかったでしょ?」と問われ、彼は「ああ」と肯定を出力し、虚偽申告を成立させてしまったのだ。


(――虚偽申告は軍規に対する明白な瑕疵である。本固形物の速やかな代謝・消化を実行し、日中の肯定ログを事後的に物理的確定事実へと上書きする)


誰に対する弁明かも定かではない強引な軍事ロジックを脳内で高速展開し、迷いを断ち切るように、ジャックの長い指先がセロファンをつまみ上げた。カサリ、と極小の摩擦音が静寂な執務室に響く。指先をミリ単位で動かし、丁寧に両端のひねりを解いていく。露わになったのは、微かにいちごの甘い香気を放つ、三角形の淡いピンク色のキャンディだった。生じかけたコンマ数秒の躊躇を静かな呼気の制御でねじ伏せ、彼はそれを迷わず口腔内へと投入した。


カリ、と硬質な糖質が前歯に触れる。


直後、ジャックの味覚センサーを、未知の衝撃波にも似た激烈な刺激が直撃した。喉の奥で息が詰まる。甘い。あまりにも、甘すぎる。日頃口にするものといえばブラックコーヒー、クラブソーダ、あるいは数理的に熱量計算された高タンパク・低GIのサプリメントフードのみ。そんな彼の味蕾にとって、民生用の市販糖分が放つ甘さは、生体受容体の許容量を瞬時に飽和させる致命的な過負荷に等しかった。


だが、衝撃はそれだけにとどまらなかった。わずかに前歯で噛みしめた瞬間、外殻のハードキャンディが小気味よいクラックを立てて破断し、内側から幾重にも折り重ねられたミルクの多層構造がサクサクと軽快に崩れてゆく。キャンディの概念を覆す独特の破断音とともに、濃厚なミルクのコクといちごの甘酸っぱい香気が、口腔内の全域へ一気に展開された。


(――均一な固形糖分ではない。外殻のハードシェルに対し、内部コアは微細な薄膜が幾重にも積層された多層構造か。わずかな咬合力で容易に破断し、溶解速度と香気拡散を強制的に加速させる設計だ。……高度な構造力学に基づいているとでもいうのか)


噛み砕いて早期代謝を完了させるべきか、それとも自然融解するまで耐え抜くべきか。口蓋の奥でキャンディが微小な破断を繰り返すたび、ジャックの脳内HUDは激しいノイズを撒き散らし、赤色の警告アラートを乱発させていた。


「……中尉」


不意に、斜め後方から落ちてきた声にジャックの背筋が凍りつく。マグカップを手にして給湯スペースから戻ってきたオーリーが、ジャックの斜め後ろに立ち止まり、その肩越しにモニターを覗き込みながら、眼鏡の奥のヘーゼルの瞳を愉悦で三日月型に細めていた。


「ずいぶんと真剣な顔でモニターを睨んでいらっしゃいますが、さっきからスクリーンセーバー、解除されていませんよ」


言われて視線を走らせると、そこには幾何学模様がのん気に漂い続けていた。キーボードに置かれた彼の指先は、キャンディの衝撃で完全に停止していたのだ。


「……サリバン少尉」


ジャックはキャンディを頬の裏側へ退避させ、なんとか平坦な士官トーンを絞り出した。しかし、その声は普段の冷徹な響きとは異なり、微かに甘美な粘度を帯びて掠れていた。


「……糖分の補給は、脳内プロセッサの処理速度を維持するための合理的な生理行動だ。いかなる規律違反にも該当しない」

「ええ、もちろん。中尉が何か召し上がっているかなんて、一言も言ってませんよ」


オーリーは肩をすくめ、吹き出しそうになる口元をマグカップの縁で隠した。


「……ただ、このあたり一帯にずいぶん甘酸っぱくて美味しそうな匂いが漂っているな、とは思いましたけどね」


その横で、手帳に本日の日誌を書き留めていたアーティーが、万年筆を走らせたまま感情の読めない整った低音を落とした。


「キャンベル中尉。明日の朝、阿部工務店が現場入りした際……誰かさんに『キャンディを食べた』という実績報告でもあげる必要があるのかな?」

「ミラー大尉……!」


ジャックはアイスブルーの眼光を鋭く尖らせ、涼しい顔でからかってくる二人の士官を睨みつけた。だが、赤く染まり始めた耳の先と、甘い香りを放つ口元では、戦闘機パイロットの放つ威圧感など1ミリも成立していなかった。


カリ、と最後に残った小さな破片を前歯で噛み砕く。喉を滑り落ちていく濃厚な甘みと、胸の奥で暴れる得体の知れない熱量。口腔内における未認可糖分の代謝・消滅プロセスは、これをもって完全に完了したはずだった。だというのに、デスクの片隅にはまだ、確かな物理的実体が取り残されている。


ジャックは唾を飲み込み、手元へ視線を落とした。指先を伸ばすと、無秩序に皺の寄った極小のセロファンをそっとつまみ上げる。まるで精密機器のフィルムを展張するかのような、慎重極まりない指先のストローク。机上に広げ、人差し指の腹で丹念に皺を伸ばしていく。蛍光灯の青白い光に透けた白地のフィルムの上には、赤いいちごの果実模様が散りばめられ、その片隅に製造者名と思われる『サクマ』の文字。そしてそのすぐ傍らに、極小のフォントで無邪気な日本語が添えられていた。


『かわいいからあげる!』


文字配列をデコードした瞬間、ジャックの思考プロセッサが静かに停止した。


(――なんなのだ、この非論理的な補給事由は。軍の仕様書はおろか、いかなる工学的識別コードですらない。製造業者は、他者への無差別な贈与行動を心理学的に誘発させる目的で、あらかじめこのような情緒的パラメータを包装材へ刻印しているとでもいうのか)


本来であれば、内容物の代謝が完了した以上、この一次包装材はただの産業廃棄物としてゴミ箱へ投棄されるのが、軍事および工学における唯一の合理的な手順だった。しかし、ジャックの指先はゴミ箱へ向かう軌道を完全に拒絶していた。


彼は広げたセロファンを、元の端正な四角形へと正確に四つ折りに畳み込む。そして、再び自らの体幹を衝立にして最上段の引き出しを滑らかに引き開けると、クリップやスケールの最奥、光が届かない特等席の座標へ、その小さなフィルムを滑り込ませた。


カチリ。引き出しが静かに押し戻され、薄暗い内部の奥へ再び封印される。


(――一次包装材の分析・保全は、現場搬入物資のリスク査定における標準手順だ。私的な執着などでは……断じてない)


心拍数は依然として正常範囲に戻らない。ジャックは深々と椅子に身体を預け、誰にも見られないよう、片手で熱を帯びた目元をそっと覆った。


(――また持ってくる、と言っていた……)


脳裏に鮮烈に浮かび上がるのは、あの無防備な笑顔と、小さな指先の温もり。たった一粒、極小の甘い爆薬は、自らが保ち続けてきた冷徹な均衡の深奥で、あまりにも確実な効果を発揮している。崩れ去った均衡の残骸の上で、自らの全システムは既に、不可逆な相転移を遂げてしまっているのではないか。熱が冷却されれば元の平穏な基底状態へ回帰するという物理の定石すら、もはや通用しない領域へ踏み込んでしまったのではないかという逃れようのない自覚が、暗闇の中で静かに胸の奥へ沈殿していった。


――――――――――


※作中に登場する包装紙の文言は、実在の商品に印字されているものを使用しています。

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