第二話 俺の悪口を売る店に、弟子からの預かり物があった
百年眠った翌朝、俺は寝坊した。
用務室の窓を叩く音で目を開けると、鎧戸の隙間にフェルカの顔があった。枕元には開いたままの『暮らしの魔法覚え書』。俺の頬には、その端が当たっていたらしい。体を起こした途端、紙が一枚くっついてきたので慌てて押さえた。
「朝ご飯を置いておきます。管理所へ行くんでしょう? ドゥーグさん、用事を先に済ませないと、夕方まで戻ってこなくなりますよ」
「もうそんな時間か。悪い、すぐ出る」
昨夜は、あの伝言を何度も読み返した。
文字が消えても、同じように罫線へ魔力を通せば再び浮かんだ。それが記録であって、どこかにいるローディアと話せる仕掛けではないと分かっていたのに、俺は灯りが尽きるまで本を閉じられなかった。
誰が俺を眠らせたのか。ローディアはなぜ起こせなかったのか。そもそも、この本が彼女の伝言を載せていると知っている者は、ほかにいるのか。
問いを並べても、本は同じ言葉を返すだけだった。
それで明け方、腹が減ったと思ったところまでは覚えている。次に気がつくと、皿の上の卵がすっかり冷えていた。
窓を開けた俺へ、フェルカが小さな鏡を差し出した。左頬に、罫線の跡がくっきりついている。
「そこまで熱心に読んでくださるなら、貸した甲斐があります。ただ、学校の本なので、顔に持っていかないでください」
「借りた分は全部返す。この辺りで、昔から教科書を売ってる店を知らないか」
「セッツ書房でしょうね。教科書を扱う店は他にもありますが、百年前の版まで並べているのはあそこだけです。欲しい本があるんですか?」
昨夜の伝言をそのまま話すべきか、一瞬迷った。フェルカには世話になった。だからといって、寝床を貸した男が百年前の本人を名乗り、魔法院には行くなという手紙を見せてきたら、朝食どころではないだろう。
俺は鏡を返し、机の本を見た。
「この著者のことを調べたい。ほかに何を書いたのかとか、その後、どこで暮らしたのかとか」
「ゼン先生なら、教員養成所でも習いますよ。生活魔法の指導法をまとめた方です。本の巻末に著者紹介は?」
「載っていなかった。目次も奥付も見た」
先生、と呼ばれている。
分かっていたはずなのに、胸の奥がくすぐったくなった。十七歳の彼女が工房へ持ち込んだ帳簿には、文字の練習が混じっていた。あの頃の手の動きを思い出しながら、俺は本を外套の内側へしまった。
フェルカは少し考え、書房へ行くなら午後にしてほしいと言った。午前中は学校へ来る保護者に対応するが、それが終わったら教材の注文に行く予定なのだという。
「場所を教えるより、ご一緒したほうが早そうです。イゼルさん、昨日は旧い橋の方向へ歩こうとしていましたし」
「道が変わりすぎてる」
「町なので、たまに変わります」
百年分だ、と言いかけて卵を口へ入れた。彼女は頬の線をもう一度見て笑い、それから校舎へ戻っていった。
*
管理所では、最初に椅子を勧められた。
次に湯の入った杯が出て、その次に白紙が二十枚ほど積まれた。ドゥーグは俺の前に削った鉛筆を置き、向かいの椅子へ腰を下ろす。顎には剃り残しがあり、昨日と同じ作業服を着ていた。
「礼を言う。下町に水は出なかった。流木を止めた連中が二人、手を擦り剥いたが、医者が帰してくれた。あんたの怪我は?」
「歩くと痛いくらいだ。手も、鉛筆なら持てる」
「なら、あれを書いてくれ。角度を変えたところだ」
川の英雄として褒められる時間は、思ったより短かった。
俺が最初の一枚に紋を描くと、ドゥーグは黙って見ていた。二枚目に補助線を足したところで、彼の眉が動く。三枚目へ移ろうとすると、まだ一枚目のここが分からない、と戻された。
彼が指しているのは、線と線の間に俺が何も描かなかった場所だった。
「そこは、水が来る側から押してやる」
「どこへ」
「この線の裏へ。流れを掴めば分かる」
言ってから、自分で嫌な予感がした。
ドゥーグは引き出しを開け、使い込まれた手引きを取り出した。何枚も折り込まれた付箋を避け、あるページを開いて俺へ向ける。
『クオル式の説明に現れる「分かるまでやる」を、作業手順と見なしてはならない。』
俺はしばらくそこを見つめ、それから鉛筆を持ち直した。
「小さい水槽を借りられるか。実際に動かして、見えるようにする」
ドゥーグが初めて笑った。
「それなら、うちの若いのも呼んでいいか」
窓際へ洗い桶を運び、底に紋を描いた薄板を沈めた。俺が指をかざすと、桶の中に小さな水の坂ができた。ここまでは、集まった作業員たちも頷いていた。そこから坂の横腹を開き、水の流れを折り返すと、一人が思わず袖を濡らした。
水は桶の縁より高く回り、細い輪になって戻ってきた。散らせば床が濡れるので、俺は最後の一滴まで輪に繋いでおいた。窓の光を通した水が、作業員たちの頬へ揺れる模様を落とす。
ドゥーグが椅子から立った。
「その曲がり目に、紋がないぞ」
「最初から全部描いてあるわけじゃない。水がどちらへ動いてるかを受け取って、そこで曲げる。昨日は柱を通して、それをやった」
「あんたが離れたら?」
「曲がり目がなくなる」
俺は水を戻し、もう一枚の薄板へ紋を描いた。今度は向きを変える位置を固定する。桶の中でしか使えないが、俺が手を離しても流れは同じ形を保った。
若い作業員が口を開いたまま薄板を見ていた。ドゥーグは俺に二つ目の桶を渡し、再現できる条件を一緒に確かめ始めた。
結局、図面の説明が終わるまで一刻近くかかった。描いた紋を持ち帰る作業員は、一枚ずつ番号を振っていた。ドゥーグは試験用の板を棚へ置き、実際の揚水門に追加するかどうかは改めて検討すると言った。
「あの調整環を作ったのは、誰なんだ」
帰り際、俺が尋ねると、彼は棚から別の記録を取り出した。基礎を考えた人物のほかに、何人もの設計者が載っている。ドゥーグはその中の、二十七年前の日付を叩いた。
「この代の改修に、若い頃の俺も入ってる。水位を拾う浮きが冬に凍るんで、置き場所を変えた」
「あそこか。よかったぞ。昨日、流れを戻すときも、変な揺れが出なかった」
彼は返事をせず、帳面の端を指で撫でた。作業員の一人がこちらを見て、何か言おうとしたが、所長に追い払われて戻っていく。
礼金は銀貨三枚だった。今の物価が分からずに眺めていると、ドゥーグが近くの宿を紹介してくれた。食事をつけて十泊ほどはできる額だという。身元について役場へ出す事情書も、救助に協力した人物として管理所から添える、と言ってくれた。
ただし、それで正式な証明になるわけではない。俺は後日、窓口で説明する必要がある。
財布へ銀貨をしまった途端、急に足元が落ち着いた。今夜の寝床を借りられる。明日の朝も食べられる。世界の仕組みを百年分知らなくても、まずその二つが決まるだけで、息の仕方が変わるものらしい。
ペトリの家の窯は、火を落とした状態で待っていた。
裏口から覗くと、女の子が昨日の紋を描いた紙を持って駆けてくる。俺は挨拶を返し、まず煙道の下にある掃除口を見せてもらった。開けると、煤に混じって崩れた煉瓦の欠片が落ちた。
煙道の曲がり角が欠けているらしい。煤を払えば少しは通るだろうが、壁を直さずに風だけ強くするのはよくない。俺がそう話すと、母親は窯を見てから、焼き上がっていない生地へ目を移した。
「今日の分、どうしようかしら。水門のことで待ってもらったばかりなのに」
俺には煉瓦を積み直す腕がない。頭の中では、窯に頼らず焼く方法がいくつも浮かんだが、菓子の焼け具合を知らない俺が、いきなり代わりを作るわけにもいかなかった。
そこで母親に、近所で窯を借りられる家がないか尋ねた。通りの向こうのパン屋なら、午前の焼き上がりが終わる頃だという。ただ、天板ごと生地を運ぶと崩れてしまう。
「それなら、運ぶほうを俺にやらせてくれ」
天板を載せた木箱の底へ、薄い風の層を重ねた。浮かせるほどではない。持ち手から伝わる歩く振動を、木箱の底で小さく逃がすだけだ。母親が試しに箱を傾けると、天板は水平を保ったまま、箱の中でゆっくり滑った。
ペトリが覗き込み、目を丸くした。
「お菓子が、船に乗ってるみたい」
「ひっくり返すと駄目だけどな。窯が直るまで、これで運ぼう」
箱を置くと術が解けるようにして、二度試してからパン屋へ向かった。借りる窯の話は母親同士ですぐ決まり、俺は天板を運び込む係になった。
パン屋の主人は、揺れない箱を見て、配達にも使えないかと言った。俺は思わず頷きかけ、荷車に積んだことはないから試してからだ、と答えた。昨日の俺なら、その場で車輪へ紋を描いていたかもしれない。
帰り際、ペトリが俺の袖を引いた。
「お母さん、今日、咳しないで焼けるね」
俺はパン屋の奥を見た。母親が焼き加減を相談しながら、天板を窯へ入れている。あの家の窯を直したわけではない。それでも、女の子が心配していた一日を変えることはできた。
そうだな、と返事をすると、ペトリは俺の手を握りかけ、包帯を見て袖を握り直した。
*
セッツ書房は、橋を渡った先の細い坂にあった。
軒に吊るされた看板には、開いた本と、その上へ落ちる木の実が描かれている。俺はそれを見て足を止めた。知っている看板だった。昔は雑貨屋で、紙も針も灯油も同じ棚に置いていたはずだ。
ただし、建物は違う。二階が増え、間口が隣の家一軒分まで広がっている。入口の柱に残る古い釘穴だけが、記憶の中の店と重なった。
「どうしました?」
「ここ、昔は塩も売ってなかったか」
「私は見たことがありません。聞いてみたらどうですか。ムルガさん、お店の昔話は好きですよ」
フェルカが扉を押すと、鈴が三度鳴った。
店内には紙と糊と、乾かした柑橘の皮の匂いがした。棚は天井近くまであり、手前には新しい教科書、奥には色の抜けた背表紙が並んでいる。机の上で分厚い本を押さえていた女性が、眼鏡の上から顔を上げた。
短い黒髪には白いものが混じり、右手の指に、糊の乾いた跡がついていた。
「学校は明日も休み?」
「校舎の点検が終われば再開します。注文していた計算帳は届きました?」
「半分だけね。残りは橋の向こうで足止め。今日は川の話しか入ってこないよ」
ムルガという名の店主は、机の下から紐で括った冊子を出した。フェルカが数を確認している間に、俺は入口脇の平積みへ目を向けた。
赤い帯に、大きく名前が印刷されている。
『クオルの失敗から学ぶ よく分かる生活魔法』。
その隣は『クオル式で困ったときの百問百答』。さらに隣には、『なぜクオルは説明を省いたのか』という薄い本が置かれていた。
「三冊もあるのか」
「奥もありますよ」とフェルカが言った。
慰めのつもりでないことは分かった。
俺は一番薄い本を開いた。序文に、『彼が説明を省いた動機については、研究者の間でも意見が分かれる』とある。動けば分かると思っていた、と著者へ教えてやりたかった。秘密でも何でもない。面倒なところを後回しにしただけだ。
「それ、評判はいいけど、魔法を覚えたい人には勧めないね」
ムルガが声をかけてきた。
「読むとクオルに詳しくなった気分にはなる。紋は一つも描けるようにならない。あんた、どっちが欲しいの?」
「できれば、本人の話を聞いて書いた本が欲しい」
「本人が生きているうちに書かれた本ってこと? それなら値段が違うよ。うちで読んでいく分には構わないけど」
俺は外套から『暮らしの魔法覚え書』を出した。ムルガの視線が、表紙を見てわずかに止まる。
「ローディア・ゼンについて調べてる。この本に、ここの店へ来るよう書いてあった」
「書いてあった? どこに」
問いは短かったが、その声から商売の調子が抜けていた。
俺は著者名のページを開いた。フェルカも横から覗く。小指を罫線の端へ置こうとすると、ムルガの手が本の上を覆った。
「店先で光らせないで。……先生、悪いけど、扉の札を休憩中にしてくれる?」
フェルカが俺を見た。俺にも説明できなかったので、ただ本を閉じた。彼女は一度頷き、入口へ戻った。ムルガは窓の内側の布を引き、店の奥へ俺たちを手招きした。
棚の間を抜けると、修繕のための作業台と、小さな印刷機があった。卓上に木版が伏せてあり、壁には紙を挟んだ紐が何本も渡されている。ムルガはその紐を一つ脇へ寄せ、丸椅子を三脚引き出した。
「まず言っておくけど、その本が学校にあることは知ってる。うちから貸し出した本だからね。隠し紋を見つけた人は、あんたが初めて」
「中の文章も知ってるのか」
「祖父が書き留めた控えを読んだ。本人には読めなかったそうだよ。ゼンさんが預けるとき、書き写させてくれた」
ムルガは作業台の引き出しから、小さな帳面を出した。色の違う紙が継ぎ足され、糸も何度か替えられている。開かれたページには、祖父の代から引き継いだ預かり物の一覧があった。
彼女は一覧を見せたまま、俺へ問いかけた。
「合言葉を」
フェルカが息を吸ったのが聞こえた。俺は膝に本を置き、昨日と同じ言葉を口にした。
「それ、あなたがいなくなったら誰が直すの」
ムルガは目を閉じ、鼻から長く息を吐いた。それから帳面の一行へ指を置く。
「合ってる。こんなこと、本当にあるんだね」
彼女の指先は少し震えていた。
*
預かり物は、小さな茶箱だった。
運んできたムルガが、机へ置く前に底を布で拭いた。箱の四隅は真鍮で補強され、蓋には三つの傷がある。俺はその傷を見て、手を伸ばすのをためらった。
刃物を浮かせて木を削れるか試したとき、誤ってつけたものだった。ローディアに見つかる前に埋めようとして、色の違う木粉を使い、余計に目立たせた。彼女は直せとは言わず、箱の裏に俺の名前を書いた。
ムルガが持ち上げると、その文字がまだ残っていた。
『イゼルに貸さないこと。』
百年後に自分へ渡される箱としては、ずいぶんな扱いだった。
「うちの祖父は、ここで版を彫る仕事をしていた。その頃の預かり物。母から店を継いだときには、私も荷物の一つとしか思っていなかったけどね」
ムルガはそう言って、手書きの受領控えを並べた。王暦五三九年。眠ってから二十六年後。ローディアは、そのとき四十三歳だったはずだ。
俺が思い出す彼女より、今の俺より、年上だった。
控えには茶箱一個、解封用の小版一枚、それから保管費を賄うための再版契約の写し、とある。『暮らしの魔法覚え書』の売上の一部を、受取人が現れるまでの保管費に充てる取り決めだった。
「俺の悪口で、俺の荷物を預かってたのか」
「悪口の本じゃないよ。あれはうちの定番商品。最近は学校向けの新しい本が多いけど、古い道具を使う人は今も買っていく。表現が分かりやすいってね」
フェルカが横で頷いていた。
茶箱の蓋には細かな木目が浮いている。金具に鍵穴はなかった。その代わり、蓋の端に細い溝があり、小版を差し込むようになっていた。
ムルガは指ほどの大きさの版を出し、俺の前へ置いた。表面には、文字の途中だけを切り取ったような線が彫られている。
「預かったとき、ゼンさんはこう言ったそうだ。言葉を知ってるだけの人には、箱を渡さなくていい。これに墨をつけずに印刷できる人なら、渡していいって」
俺は小版を拾った。
木の手触りを確かめた瞬間、覚えのある魔法の作り方が指へ戻ってきた。線の欠け方に癖がある。途中まで彫ってから、あとで続けるつもりで止めたように見えるが、欠けた部分まで含めて一つの紋だった。
ローディアは、俺のやり方をよく見ていた。
「紙を一枚、もらってもいいか」
ムルガが小さな白紙を出した。俺は小版をその上へ置き、指を添えた。木の中に残っている魔力の通り道を探す。細い線がいくつも交差しているが、墨を拾う場所には繋がっていない。
拾うのは、紙の影だった。
日の当たる紙を少し凹ませると、その縁に影ができる。凹ませる向きと深さを変えれば、見る角度によって文字が浮く。薬屋で使う薬包が湿って墨を滲ませるので、俺が試しに作ったやり方だった。ただ、俺の作った版では一文字ずつしか押せず、手間がかかりすぎて使われなかった。
その不便な仕組みを、彼女は蓋を開けるために使ったのだ。
俺は欠けた線の先へ魔力を渡した。紙が微かに鳴り、版の下から淡い文字が浮く。ムルガが灯りを傾けた。
『無事に着いた?』
短い言葉だった。
俺はしばらく、その問いに頷くことさえできなかった。
「……着いた。ずいぶん遅くなったけど」
小版を溝へ差し込むと、蓋の中で軽い音がした。金具が外れ、長く閉じられていた箱の匂いが流れ出す。
中には、油紙で包まれた手紙と、薄い帳面と、片方だけの手袋が入っていた。
右手用の、灰色の革手袋だった。
フェルカが、俺の包帯へ目を落とした。
「偶然、ですよね」
「昔から、右だけよく穴を開けた」
俺は手袋を持ち上げた。親指の付け根が二重に縫われていた。ローディアが繕ったものなのか、誰かに頼んだものなのかは分からない。革は古く硬くなっていて、すぐ使える状態ではなかったが、指の長さは俺の手に合っていた。
ムルガは何か言いかけ、やめた。代わりに湯を淹れに立った。フェルカも席を外そうとしたので、俺は引き止めた。
「いてくれないか。今、俺一人でこれを読んだら、都合のいいところしか頭に入れない気がする」
彼女は俺を見て、それから静かに椅子を戻した。
*
手紙は、俺の体調を尋ねる言葉から始まっていた。
目眩はないか。息苦しくないか。ちゃんと食べたか。どれも答えを送り返せない問いだったが、一つずつ、今の自分に当てはめながら読んだ。
今は大丈夫だ。飯も食べた。怪我はしたが、それは休眠槽のせいではない。
そう答えてから、次の段落へ目を移す。
『あなたの休眠槽が開かなかった日、私は外側の点検窓から制御紋を調べた。三日で目覚める指定は、そのまま残っていた。けれど、三日を数えるための外の時刻が、槽へ届かなくなっていた』
俺は机の端へ指を置いた。
休眠槽は、体を長く休ませるために作った。内側の時間を遅くし、外側の時間が指定したところまで進んだら、元へ戻す。だから三日間入っても、体にとっては短い眠りで済む。
自分で遅くした時間を使って日数を数えたら、いつまで経っても目が覚めない。そのため、外から時刻を伝える紋を別につけてあった。
そこを切られたのだとしたら、仕組みは働き続ける。目覚める時刻が来たと、判断できなくなるだけだ。
フェルカが手紙と俺の顔を見比べた。
「三日を、百年に書き換えたということではないんですね」
「少なくとも、この手紙ではそうだ。日数を数えるほうを止めた。どのくらい眠らせるつもりだったかは、まだ分からない」
昨日、俺は計器が壊れているのを見て、外の年月が分からないと思った。だが、時間が届かなかったなら、壊れる前の計器にも正しい年月は残っていなかったかもしれない。
文字を追う目が速くなった。ローディアは、外側の回路を七回調べ直したと書いていた。だが、時刻を送る紋は、見える範囲では壊れていなかった。
『槽の周囲を解体する許可を求めたところ、魔法院の調査員が来た。あなたの休眠槽は危険な遺物として管理され、私は近づけなくなった。強引に蓋を開けようとしていれば、あなたの体を傷つけたかもしれない。でも、何もしなかったことを正しかったとも思えない』
行の端で、墨が少し濃くなっている。そこだけペンを止めたのだろうか。分からないことまで想像して、胸が詰まった。
魔法院が、俺を眠らせたのか。そう言いたくなる記述だった。けれど手紙には、ローディア自身が書いた留保もあった。調査員が来る前に、異変は起きていた。魔法院の判断が何を根拠にしたものか、当時の彼女には分からなかった。
誰かの悪意を決めつければ、話は簡単になる。俺を百年眠らせた悪党がいて、そいつを探せばよい。
だが、簡単な話を求めているのは俺のほうだった。
『王都へ行くなと書いたのは、今の魔法院の全員を疑えという意味ではない。私が預けた調査記録は戻らず、面会を申し込んだ相手には会えなかった。あなたが同じ窓口で名乗れば、また何も分からないまま囲われるかもしれない。先に、手元へ残したものを読んで』
箱の帳面へ、俺は手を伸ばした。
しかし最初のページを開くより先に、手紙の最後にある一文が目に入った。
『それから、あなたの留守番をするために生きていたわけじゃないから、勝手にかわいそうだと思わないで』
俺は動きを止めた。
その下には、手紙を書いた頃の彼女の暮らしが綴られていた。教える仕事をしていること。自分の工房を持ったこと。弟子が二人いて、その片方が説明を聞かずに道具へ触るので、毎日昔の俺を思い出すこと。
仕事の愚痴に紛れて、庭に植えた果樹が初めて実をつけた、と書いてあった。
彼女は、俺が知らない場所で暮らしていた。俺がいなくても誰かと出会い、腹を立て、何かを楽しみにしていた。
『話したいことは山ほどある。あなたに聞かせたら悔しがりそうな発明もした。でも、まずは食べて、寝て、着替えて。それが済んだら帳面を開いて。手袋は、また素手で何か触ったときのため。両手分が欲しければ、次は自分で買うこと』
読み終えて、俺は口元を押さえた。
笑いたかったのか、それ以外の何かを堪えていたのか、自分でもよく分からなかった。手紙の最後には、日付と署名がある。五三九年、雨待ち月。何日も前から考えていたような文章なのに、末尾だけは走り書きになっていた。
そのとき彼女には、俺のほかに用事があったのだろう。
それが、たまらなくありがたかった。
湯を持って戻ったムルガが、杯を俺の前へ置いた。俺が礼を言うまで、彼女は手紙へ視線を向けなかった。
「その人が、この箱を預けたあと、どうなったか知ってるか」
俺が尋ねると、ムルガは首を横に振った。
「会ったことはない。祖父の帳面には、何年かに一度、手紙が来たとある。最後は五四八年。その後は返事が途絶えたけど、亡くなったという知らせもない」
五四八年。五十二歳。
昨日までは、十七歳だった。その姿しか知らなかった俺の中で、彼女の人生が少しずつ先へ進んでいく。今が六一三年であることも、もちろん分かっていた。だから、生きていると簡単には言えなかった。
それでも、何も知らないまま墓の場所を尋ねるのはやめた。
*
フェルカは、湯が冷めるまで待ってくれた。
ムルガが預かり帳面の控えを作りに席を立つと、彼女は膝に置いていた両手をほどき、作業台の上へ置いた。
「イゼルさん。私は、あなたが昨日見せた魔法を説明できません。今の箱の開け方も知りません。でも、それだけで百年前の人だと信じるのは、さすがに難しいです」
俺は頷いた。そう言ってもらえて、かえって助かった。
「俺が最初に会った相手だったら、たぶん医者を呼ぶ」
「昨日は呼ぼうと思いました。今も、別の意味では診てもらったほうがいいと思っています。……ただ、あなたは、この手紙を書いた人を知っているんですね」
俺は手紙の下にある署名を見た。
「知ってる。十七歳までのローディアを。どうして俺が教科書に載ってるのかも、昨日まで知らなかった」
隠し続ける言葉は、もうなかった。
俺は名を告げた。イゼル・クオル。北の森の工房に住み、三日だけ休むつもりで眠った。目覚めたのは昨日で、誰かに会いたくて町へ降りた。
自分の人生を言葉にすると、嘘みたいに短かった。
フェルカは俺の左眉を見た。それから鞄を開け、いつも使っている教科書を取り出した。例の肖像画が載ったページを開く。
「この人より、少し顔色はいいですね」
「少しどころじゃないだろう。この絵、頬が削れすぎてる」
「眉の傷は、同じところにあります」
「魔法じゃないぞ。棚から落ちた鍋の角だ」
彼女はそこで、堪えきれずに笑った。笑ってから、ごめんなさい、と小さく言った。
俺も笑った。昨日から初めて、自分の名前を言って笑えた気がした。
「全部分かったことにはできません。でも、事情を知っている人がいないまま役場へ行くより、私も一緒に行ったほうがよさそうです。書類に百年前の住所を書いたら、窓口の人が困りますから」
「偽の住所を書くつもりはない」
「それで困るんですよ」
彼女は教科書を閉じかけ、何かに気づいたように目を伏せた。
「昨日、あなたの前で、ずいぶんひどいことを言いましたね」
「止める人の気持ちを考えなかったのは、確かだ。あれは訂正しなくていい。ただ、製粉のところは、一行くらい褒める文章を足してほしい」
「そこは私の裁量では……」
フェルカは言いかけて、首を振った。
「でも、授業で話す順番は変えられます。どうしてその魔法を作ったのか、先に教えてもいいですね。昨日、洗濯屋さんの話をしてくださればよかったのに」
「言い返すのに忙しかった」
彼女はもう一度笑い、今度は謝らなかった。
ムルガが戻ってきて、机へ新しい紙を置いた。預かり物を渡したことを記録するための受領書だった。彼女は署名欄を指しながら、俺が名乗ったことは奥で聞こえた、と言った。
「祖父が生きてたら、質問攻めにしただろうね。私は帳面に名前が残ればいい。あとは、本を破いたり、店の棚を勝手に浮かせたりしないでくれたら」
「なぜ棚を浮かせる話になる」
「ゼンさんの注意書きにある。高いところの本を取りたくなったら、必ず梯子を渡すことって」
茶箱の控えの端に、本当にそう書いてあった。
俺は反論を諦め、受領書へ名前を書いた。ムルガは署名と古い控えを見比べ、何度か瞬きをしたが、それ以上は何も尋ねなかった。
箱の中の帳面は、表紙から半分ほどが普通の研究記録だった。
給水具の改良、乾燥術の出力の抑え方、道具を複数人で使うときの切り替え。俺の癖を知っている人間が、俺のいない場所で困り、直した記録。ところどころに、考えたがうまくいかなかった案も残っている。
俺はそこへ釘づけになりかけたが、フェルカに声をかけられて後半へ進んだ。
あるページから、日付の間隔が大きく空いていた。調査に行った場所、面会を断られた人の役職、古い資料の保管先。名前を断定できないところには、丁寧に疑問符がつけられている。
最後の数枚は、別の紙を貼り込んであった。
刷られた冊子の切り抜きだった。
『クオル式遠隔時刻伝達術』
その題を見た瞬間、俺は紙の端を押さえた。
休眠槽へ時刻を送っていた術と、同じ骨格だった。ただし、図の下に描かれたのは休眠槽ではない。尖った屋根と鐘を備えた、高い塔だった。
フェルカが図を覗き込み、眉を寄せる。
「これ、時鐘の塔ですね。遠くの町と鐘を合わせる、古い方式です」
「まだ使ってるのか」
「全部の町ではありませんけど。街道の駅や、古い大きな町では残っています。教科書には、クオルが時刻を揃えようとして、逆に鐘をばらばらに鳴らしたと書いてあって……」
彼女の声が、途中から小さくなった。
俺は続きを促し、図の三つの線を指で追った。これなら覚えている。遠くにある基準の鐘から、一定の間隔で知らせを受け取る。離れていても同じ時刻を数えられるようにするため、紋に固有の組み合わせを与えていた。
休眠槽には、工房の時計から知らせを送っていた。その組み合わせは、俺が自分で決めた。他人と共有したことはない。
ところが、冊子の図には、まったく同じ組み合わせが載っていた。
「これは、俺が公表した紋じゃない」
冊子の日付は五一四年。俺が眠った翌年だった。
余白に、ローディアの小さな文字が添えられていた。
『あなたの部屋の時計が、街道の塔へ繋がっている。偶然とは思えない。でも、どちらから繋いだのかは分からない。』
さらに下に、訪ねる予定の土地が一つ書かれていた。
ベルナト。タルネから西へ、荷馬車で一日半ほどの町。
俺はもう一度、図を見た。時刻の送り先を切り替える線が、冊子では塗り潰されている。印刷の汚れではなかった。そこだけ、初めから説明を欠いた形で版が作られていた。
その線の意味を、俺は知っている。
別の場所の時間を取り込むための、継ぎ目だった。
「ベルナトの塔について、分かることはあるか」
俺が尋ねると、ムルガが壁の暦へ目を向けた。フェルカもそれを見て、何かを思い出したように席を立つ。
店主が、積んであった刷り物の束から一枚を抜いた。街道沿いの町で配る、収穫祭の案内だった。裏面に、小さな記事が載っている。
『旧時鐘塔、解体決定。新鐘楼の完成に伴い、麦刈り月十二日より作業開始。』
今日は十日だった。
「塔を壊したら、どうなるんですか」
フェルカが尋ねた。
俺は、すぐには答えられなかった。今の塔に同じ紋が残っているのか、別の時計へ替えられているのか。現物を見なければ分からない。
だが、俺は昨日、目覚めた。
その直後に、古い塔が役目を終えようとしている。
「分からない。だから、壊す前に見たい」
俺は図面の紙を帳面へ戻した。百年前の誰かを探す話が、初めて目の前の道へ繋がった。明日では遅いかもしれない。一日半ほどなら、今日のうちに出る必要がある。
ムルガは俺が口を開くより先に、街道の荷運び組合の場所を教えてくれた。夕方に出る便が一つある。祭りの荷物を運ぶ車なので、足の置き場くらいしか余っていないかもしれないという。
「十分だ。場所を教えてくれて助かった」
「その前に、その本の扱いを決めて。学校から借りた物を、勝手に旅へ持ち出されちゃ困る」
俺は外套へしまおうとしていた『暮らしの魔法覚え書』を止めた。
ムルガは奥の棚から、同じ版の本を一冊抜き出した。表紙は少し傷んでいるが、ページは揃っている。これなら売れるよ、と言って示された値段を見て、俺は今日もらったばかりの財布を握り直した。
宿に何泊できるか、計算してしまった。
それでも、本を戻そうとは思わなかった。
「買う。これを持っていく」
銀貨を一枚出すと、釣りの銅貨が机に並んだ。自分の悪口が書かれた本を、自分の働いた金で買っている。百年前の俺に言ったら、何を馬鹿なことをと笑っただろう。
俺は本を開き、著者の名前を確かめた。この一冊に隠し紋はない。ただ、ローディアが人に教えるために書いた文章が、最初から最後まで印刷されている。
今の俺は、その全部を読みたかった。
フェルカが借りていた本を受け取り、新しく買った本に、紙の栞を一枚挟んでくれた。
「戻ったら、授業で話を聞かせてください。洗濯屋さんのことも、鐘のことも。子供たちに、欠点だけ教えるわけにはいかなくなりましたから」
俺は頷き、包帯の巻かれた手で本を抱えた。
「戻ってくる。今度は、三日と言って百年待たせたりしない」
言ってから、しまったと思った。フェルカの視線が教科書へ落ちる。そこに何が書いてあるか、開かなくても想像できた。
彼女は俺の顔を見て、少し困ったように笑った。
「日数は、約束しなくていいです。帰ってきたら、門から入ってください」
書房の扉を開けると、鈴が三度鳴った。午後の道は乾き始め、川の向こうから金槌の音が届いていた。
俺は昨日、森からこの町へ降りてきたときには、なかったものを抱えて坂を下りた。自分で買った本と、弟子の残した箱と、帰りを待つと言ってくれた人の言葉だった。




