第一話 俺を嫌いな先生と、俺の魔法が好きな子供たち
不定期投稿です。
俺が死んだことになっていると知ったのは、自分の悪口を暗唱すると飴がもらえる授業を見つけたときだった。
石塀の向こうに、子供が十二人。古い楡の木の下に長机を並べ、膝に分厚い本を載せている。木漏れ日の揺れる黒板には、見覚えのある名前が白墨で大きく書かれていた。
イゼル・クオル。
俺の名前だ。ただし、その下にある「後世への責任を欠いた魔法創作者」という肩書には、まったく見覚えがなかった。
「では、クオル式自動給水術の欠点を説明できる人」
黒板の隣に立つ女性が振り返った。栗色の髪を頭の後ろで巻き、袖を肘まで折っている。教師らしい黒の上着は着ていたが、片方の袖口に白墨がつき、靴には乾いた泥がこびりついていた。机の端に置かれた飴の瓶へ視線を向けながら、前列の男の子が勢いよく手を上げる。
「水を出すことしか考えてなくて、止める人の気持ちを考えてなかった!」
「それはあなたの感想。教科書の言葉で答えてください」
「目的達成後の停止条件が、利用者の判断に任されていた」
「正解。最初の答えも、あながち間違いではありませんけどね」
教師は笑って、男の子の手に琥珀色の飴を一粒落とした。
俺は石塀に置いた指に力を込めた。止める人の気持ちくらい考えていた。桶がいっぱいになったら触れば止まるのだから、取っ手の横に停止紋をつけてある。そもそも自動給水術は、水汲みで腰を悪くした洗濯屋のおばあさんに頼まれて作ったものだ。彼女は便利だと喜んでくれたし、謝礼の干し杏までくれた。
「止める紋は、最初からついていただろう」
口に出ていた。
十二人の子供と一人の教師が、揃ってこちらを見る。俺はようやく、森から出てきたばかりの格好を思い出した。外套には枯れ葉が刺さり、頬は枝で擦れている。朝から何も食べていない腹が、その静けさを狙って鳴った。
教師は瓶の蓋を閉めた。飴を隠す仕草に、少し傷ついた。
「何か御用でしょうか」
「通りがかった者だ。その術式を知っている。取っ手の停止紋を指で押せば、水は止まるはずだ」
「はい。触れられる場所に、意識のある利用者がいれば」
彼女は黒板の桶の絵に、小さな人間を描き加えた。次に、その人間を横に寝かせる。
「水汲み中に倒れたら? 子供が面白がって起動して、止め方を忘れたら? 今の給水具は水位と連続稼働時間でも止まります。その改良が必要だった理由を、今日は学んでいます」
口を開きかけて、閉じた。
たしかに、考えていなかった。
洗濯屋のおばあさんは止め方を知っていた。教えたその場で三度も試して、上手に使っていた。けれど、おばあさんの隣にいた孫が、俺の説明を同じように聞いていたかどうかは思い出せない。
「……それは、いい改良だな」
「ありがとうございます。私がしたわけではありませんが」
教師はそこで俺の足元を見た。踵の擦り切れた靴から、石塀へ視線が戻る。
「見学でしたら門からどうぞ。塀に体重をかけないでください。先月から傾いているんです。あと、ここは学校ですから、刃物は入口の箱に」
追い払われると思っていたので、俺は少し面食らった。腰の小刀を鞘ごと外し、言われた通り門へ回る。内側には木箱と水桶があり、その桶には停止紋のついた給水具が取り付けられていた。俺が考えた線の周囲に、知らない細かな紋が増えている。
それを眺めていると、先ほど飴をもらった男の子が、席から身を乗り出してきた。
「おじさん、クオルの仲間?」
「知り合いではある。それと、二十八だ」
「先生より四つも上じゃん」
「年齢の話は授業の後にしましょう」
教師の声には、よく通る芯があった。男の子が首を引っ込めると、彼女は空いている椅子を俺に勧め、机の上の本を一冊差し出した。
『初等魔法と暮らし 第六版』。表紙の下には、王暦六一三年刊、とある。
俺は親指でその数字を擦った。印刷は滲まなかった。眠る前、工房の壁に掛けた暦は王暦五一三年のものだった。
目が覚めたときから、何かがおかしかった。
三日だけ体を休ませるつもりだった休眠槽は、内側から押した途端、蓋の留め金が崩れ落ちた。工房の天井を木の根が破り、窓のあった場所には土が詰まっていた。玄関を掘り返して外へ出ると、隣家へ続く道も、葡萄の棚も、毎朝うるさかった鍛冶屋もなくなっていた。
残っていたのは、裏山の輪郭だけだった。
それでも、大きな地滑りの後なのかもしれないと思っていた。外の年月を記録する休眠槽の計器が壊れていたので、三日以上眠った可能性は考えたが、百年という数字は考える場所にすら置いていなかった。
「あの、具合が悪いんですか」
教師が身を屈める。俺は本を握りすぎていたらしい。表紙の角が折れかけていることに気づき、慌てて指を緩めた。
「今年は、六一三年なのか」
「そうです。今日は麦刈り月の九日。……どちらからいらしたんです?」
「北の森から。この辺りに、クオルの工房があっただろう」
子供たちがざわついた。後ろの席の女の子が、隣の子の袖を引いて何か囁く。教師の顔からは、さっきまでの軽い警戒とは別の表情が覗いた。
「旧址は森の立入制限区域にあります。崩落の危険があるので、入ってはいけない場所です。そこで転ばれたなら、医師を呼びますが」
「怪我はしていない。昔のことを、少し知りたくなっただけだ」
嘘はつかなかった。今の俺には、それ以上うまい説明ができない。
彼女はなお何か言いたそうだったが、子供が一人、椅子の脚で地面を掻き始めたので教壇に戻った。俺は開かれた教科書へ目を落とす。そこには木版の肖像画が載っていた。目つきの悪い、頬のこけた男。油断すると人を生贄にしそうな顔だったが、左眉の傷だけは俺と同じ位置にある。
その横に、生没年が記されていた。
出生不詳。王暦五一三年、失踪。没年同年と推定。
俺の人生は、わずか二行で片づけられていた。
顔見知りの誰が生きているかを尋ねようとして、相手の名前を一つも言えなかった。百年。机に置いた手は以前と変わらないのに、その数字の向こうに誰かの顔を置くと、急に息が詰まった。
遠くで鐘が鳴った。教師が本を閉じ、子供たちが昼食の包みを開け始めた。俺だけが、帰る時刻を聞き逃したように椅子へ座っていた。
*
差し出された黒パンには、薄く切ったチーズが挟まっていた。
教師は自分の分を半分に割ったのだと言い、俺の隣に腰掛けた。子供たちは木陰で食べている。授業のときより幾分静かで、咀嚼する音や、包み紙の擦れる音がよく聞こえた。
「フェルカ・トーリです。この町の初等教師をしています。あなたは?」
「イゼル」
「ご家族が歴史好きだったんですね」
そういう名前になったのか。俺はパンに齧りついて返事を遅らせた。チーズは酸っぱく、パンは顎が疲れるほど硬かった。それがやけにありがたかった。百年経っても、腹に入るものは腹に入る。
「この町はタルネで間違いないんだよな」
「町の名前は変わっていませんよ。昔は村だったそうですけど。親類を訪ねてこられたんですか」
「知っている家が、もうなかった」
フェルカはパンを持った手を少し下げた。こちらの事情を勝手に決めつける慰めは言わなかった。代わりに、町の役場には古い住民台帳があると教えてくれた。火事で失われた年もあるが、家の場所くらいなら調べられるかもしれない、と。
俺は礼を言い、本をもう一度開いた。
見出しを拾うだけで気が滅入った。『浮遊荷車と制動軽視』『暖房紋に見る出力優先の弊害』『魔法創作における命名の責任』。最後の項目には、「よく乾く風」と名づけた乾燥術が挙げられている。
「名前まで悪く言う必要があるか?」
「よく乾く風、ですよ。適正距離も、対象も、出力も名前から分からないでしょう。髪を乾かそうとして眉毛まで焦がした記録があります」
「麦用だ。穂に残った水分を飛ばすために作った」
「では、麦用とつけてくださればよかったのに」
それもそうだった。
しかし、ここまで欠点ばかり並べられると、反論できない項目にまで腹が立つ。俺はページをめくり、製粉術のところでようやく指を止めた。歯車を使わず、臼の内側に沿って穀粒を回す術だ。石工と丸二晩議論して、粉に石屑が入らない流れを考えた。その結果、村の製粉代が半分になった。
解説の最初の一文は、こうだった。
『クオルは粉塵の回収に頓着せず、利用環境の改善を後世に押しつけた。』
「一言くらい褒めてから始めてもいいと思う」
フェルカは肩を揺らした。笑われたことより、笑うと少し幼く見えることのほうが意外だった。
「魔法史の教科書なら褒めていますよ。こっちは生活の授業ですから。怪我をしないための本で、偉い人の機嫌を取っても仕方ないでしょう」
「偉い人も傷つくんだぞ」
「百年前の人の心配より、目の前の子供です」
もっともな言葉だった。だが彼女は、俺の前から本を取り上げることはしなかった。読み終わったら返してください、と言い、食べ残したパンを包む。
そのとき、後列にいた小柄な女の子が近寄ってきた。木の実を入れた袋と、折り畳んだ紙を胸に抱いている。丸い額の下で眉を寄せ、何か重大な決断をした顔だった。
「先生、おじさんにこれ見せてもいい?」
「私の答えが気に入らなかった?」
「おじさん、クオルの知り合いって言ったから。昔の魔法、詳しそう」
女の子は俺の顔を窺い、紙を広げた。余白の少ない帳簿の裏に、歪んだ術式が何度も描かれている。ところどころ、消した跡で紙が毛羽立っていた。
小さな風を、一方向へ流す紋だった。ただ、流れの向きを決める箇所が閉じていて、起動すると内側で空気が回るだけになっている。
「台所の煙を外へ出したいの。うちのお母さん、焼き菓子の注文が増えると、夜ずっと咳するから」
女の子はそこまで一息に言い、俺が紙を見るのをじっと待った。フェルカが横から補った。
「ペトリのお宅は窯の煙道に問題があります。火を使う場所で風向きを変えるのは危険なので、まず窯職人に見てもらうよう話したところです」
「職人さん、収穫祭が終わるまで来られないんだって。お母さん、窓開けてるから平気だって言うけど、冬も開けるのかなって」
俺は指を紙へ伸ばしかけ、止めた。この輪を開けば風は流れる。もう一本線を引けば、煙を掴んで窓へ運ぶくらい造作もない。
だが、窯を見ていない。風が強すぎれば火を煽るし、別の部屋から空気を吸い込んで、そちらの火まで変えてしまうかもしれない。
さっき黒板に描かれた、桶の横で倒れている人間が頭をよぎった。
「窯は、あとで見に行っていいか」
ペトリの顔が明るくなりかけたので、俺は紙の端を軽く叩いた。
「直せるかどうかは、見てからだ。その前に、ここで試せるものを作ろう。煙じゃなくて、これを動かす」
俺はパン屑を一粒、机へ置いた。フェルカがこちらを見る。火を使わず、風も卓上に留めると説明すると、彼女は道具箱から白墨の短い欠片を出してくれた。
紙には書き込まず、机の端に輪を描く。閉じていた箇所を少し開け、さらに輪の外へ短い線を一本足す。
「この隙間が出口だ。外へ出した空気を戻す道も作ると、周りの空気をむやみに吸わずに済む。指を離すと止まるようにしておく。押してみるか?」
ペトリは唇を結び、慎重に指を置いた。パン屑が震え、小さく跳ねて、輪の内側を走り始める。速度は歩く蟻より少し速いくらいだった。
女の子が笑った。驚きが先に口を開かせて、それから声が追いかけてきたような笑い方だった。飴の男の子がそれを聞きつけ、ほかの子供も寄ってくる。
「お母さんに見せたい。これ、私が描いても動く?」
「同じ形なら動く。けど、指で押すところは抜かすなよ。止まらなくなる」
「そこは、クオルも忘れたんだよね」
俺が黙ると、フェルカが横を向いた。笑いを隠しきれていなかった。
やがてペトリは自分の紙へ紋を描き直し、三度目でパン屑を動かした。俺の手を離れた魔法が、俺の知らない小さな指の下で働いている。その光景を見ているうちに、胸にあった冷たいものが少しだけ溶けた。
知っている人がいなくても、作ったものまでは消えていなかった。
*
昼休みの終わりを告げる鐘より早く、川の方で金属の裂ける音がした。
机が震えた。楡の葉から鳥が飛び立ち、子供たちの頭上を横切る。俺は反射的にペトリの肩を抱いて机から離した。直後、地面の下を何か大きなものが転がるような響きが通り過ぎた。
町の低い屋根越しに、水煙が立っていた。
「全員、鞄は置いて。上の広場へ行きます。二人ずつ手を繋いで、走らない」
フェルカはもう門へ向かっていた。声を張りながら、入口の木札を裏返す。赤い面には『避難先 北広場』と書かれている。俺は小刀を腰に戻し、川を見た。
タルネ川は村の真ん中を流れていた。俺がいた頃は木橋が一本かかっているだけで、大雨のたびに村長が橋桁の下へ潜っていたはずだ。今は屋根の間から三本の高い柱が見える。柱の頂にある青い結晶が、順番を間違えたように明滅していた。
あの組み方を、俺は知っている。
「川に、流れを持ち上げる仕掛けがあるのか」
「揚水門です。南の畑へ水を送っています。そちらには行かないでください、下町は水門より低いので」
フェルカは子供たちの手を確かめながら答えた。俺の視線が川から離れないのを見て、彼女の眉が険しくなる。
「イゼルさん。古い魔法に詳しくても、町の設備は別です。管理所の人が対応します」
そのとおりだと思った。俺は百年前の作り方を知っているだけで、今の設備を見ていない。知らないところへ手を突っ込む危うさを、ついさっき子供相手に説いたばかりだ。
だから最初は、子供たちを広場へ連れていくつもりだった。
だが、二度目の衝撃で川の向こうの屋根から瓦が滑り落ちた。三本の柱の間に、白く濁った水が盛り上がる。まるで透明な袋に川を詰め込んでいるようだった。持ち上げられた水の下から、さらに水が押し寄せている。
流れが、逃げ場を失っていた。
「放水路が塞がってる」
俺は声に出した。仕掛けの全体は知らなくても、水の重みは分かる。あの量が一度に落ちれば、低い家々がどうなるかも。
フェルカが息を呑んだ。彼女の視線は、川の向こうへ続く細い道に向いていた。
「……午後の授業の前に、窯の火を落とすって」
ペトリが小さな声で言った。女の子の指が、俺の外套を掴んだ。
フェルカはしゃがみ、彼女と目を合わせた。
「お母さんは私が呼びに行く。あなたは広場で待っていて。ベンノさんのところまで、この列を離れずに行けるね」
頷いたのを確かめると、フェルカは年長の子へ先導を頼み、門の外にいた隣家の老人を呼んだ。人数と避難先を引き継ぐ間にも、川の結晶は嫌な音を立て続けている。
俺は彼女が立ち上がるのを待った。
「俺も川へ行く。管理所で話を聞く。勝手には触らない」
フェルカは短く息を吐き、小走りになった。俺も並んで坂を下る。石畳の継ぎ目から水が染み出し、足元を細く流れていた。
川べりに着いて初めて、俺は自分の作った魔法が百年間でどれだけ大きくなったかを知った。
昔の揚水術は、谷底の水を畑一枚へ汲み上げるものだった。水に上向きの力を与え、決められた高さまで運んだら離す。それだけの紋を三枚、川の流れに合わせて並べた。
目の前の揚水門では、同じ骨格が川幅いっぱいに広がっていた。青銅の管が柱から柱へ渡され、紋の外周には見たことのない調整環が重なっている。高い位置で分けられた水は南へ延びる水路を流れ、畑だけでなく、製紙所や染物場へも送られているようだった。
その分岐の一つに、大きな樹木が突き刺さっていた。根を抱えた幹が格子を押し潰し、折れた枝が水路を塞いでいる。
上流から来た水は先へ進めず、揚水門の中で膨れ上がっていた。魔法で支えられた川の表面が、三階建ての倉庫の軒にまで届いている。
「そこ、離れてくれ! 足場が落ちる!」
油染みのある作業服の男が叫んだ。右腕に管理所の腕章をつけ、二人の作業員と大きな輪を回している。しかし輪は半周ほどで引っかかり、それ以上動かなかった。
「南町の避難は?」とフェルカが尋ねた。
「鐘は鳴らした! 下の家は呼んで回ってるが、橋が使えん。北岸は学校に頼めるか!」
フェルカは頷き、俺へ「ここにいてください」と言い残して、川沿いの家へ走った。俺は作業服の男に近づき、動かない輪と、その下へ続く管を見る。
「どこを閉じようとしてる?」
「下流へ逃がす水門だ。開けようとしてるんだよ。流木に引かれて制御管が曲がった。紋は無事だが、開放側へ切り替わらん」
「上流の取水を止めるほうは」
「もう閉めさせてる。ただ、ここまで来た水は消えん。あんた、魔法技師か?」
俺は頷き、川を覗いた。男の説明は正しかった。取水が止まっても、今ここにある水を安全に下ろさなければならない。持ち上げる術を一度に切れば、それは水門の開放ではなく、頭上から池を落とすことになる。
調整環の一つに刻まれた線が、俺の目を引いた。水の高さを測り、過剰に持ち上げる力を抑える仕組みだ。俺の時代にはなかった、いい紋だった。ほかにも、結晶を替えるときだけ荷重を隣の柱へ預ける線がある。
そこを見つけたとき、やり方が浮かんだ。
「一本ずつ柱を休ませて、水を斜めに滑らせられる。下流の川床へ落とせば、岸には出ない」
「荷重移送か? 一本分を切るにも、この開放管を通すんだ。その管が潰れてる」
「切るんじゃない。水を持ち上げる向きを、少し曲げる」
男は俺を見た。訝るのは当然だ。どこの誰とも知れない男が、張り詰めた揚水門を前に、川を曲げると言っている。
俺は柱の根元に膝をついた。濡れた石に指を置き、小さな流れを掬う。指の間に薄い水の輪ができ、斜めに傾いたまま回り始めた。それを男の目の高さまで持ち上げる。
「基幹紋には、この角度を変える余地がある。今の調整環を外さずに使える。ただ、どの柱へ負荷が逃げるかは、俺には全部分からない。配管の図が欲しい」
男は水の輪を見て、俺の指を見て、それから腰に差していた筒を引き抜いた。
「所長のドゥーグだ。図はこれ。触る前に、必ず俺に言え」
俺は水を足元へ返し、差し出された図面を両手で押さえた。
*
図面の端には、修繕の日付と名前がびっしり書き込まれていた。
増設された水路。柱の交換。結晶の規格変更。青い線に赤い線が重なり、古い線は二本の斜線で消されている。俺の知っている魔法は、その下に残る骨組みでしかなかった。
ドゥーグは俺の指が止まるたびに説明した。第三柱の基礎だけ地盤が弱い。北岸への給水管は去年塞いだ。南の分水は昨日から収穫祭のため増量している。言葉を交わすごとに、目の前の仕掛けがようやく一つの姿になっていった。
「下流から順に傾ける。第三柱には寄せない。第一柱と第二柱で、水を細く削るように流す」
「流量を増やすのはこっちでやる。あんたは角度だけ持て。それなら高さの監視紋が生きる」
俺は頷いた。全部を自分で動かすより、ずっと確実だった。
問題は、柱の紋まで手が届かないことだった。川へ張り出した保守用の足場が、流木に打たれて半分落ちている。無事な部分にも膝の高さまで水が被り、時折、大きな枝が叩きつけていた。
水面に足を置く魔法なら使える。だが、揚水門に触れている間は両手が塞がる。流木を避け損ねれば、今度は俺が水路を詰まらせる番だ。
「命綱はあるか。腰だけじゃなく、胸まで取れるものがいい」
ドゥーグは作業員へ顎をしゃくった。すぐに革帯と縄が運ばれてきた。俺がそれを外套の上から締めていると、フェルカが戻ってきた。息を切らし、両手には煤がついている。
「北岸の家は全員出ました。ペトリのお母さんも上へ。南岸の人は東の坂へ向かっています。……何をしてるんですか、その格好」
「川の向きを変える。ドゥーグ所長と相談した」
フェルカは所長へ顔を向けた。男は苦い顔で頷く。
「こいつ、基幹紋を直接動かせるらしい。今は他に、間に合う手がない」
頭上で青銅管が鳴った。長く、低い音だった。管を支えている留め具が一つ抜け、石壁へぶつかって火花を散らす。フェルカは問いかけかけた言葉を飲み込んで、縄の結び目を見た。
「私は何をすれば?」
「下流を見る人が欲しい。岸へ水が乗りそうなら教えてくれ。それと、術を使い始めたら俺はあまり喋れない。引き上げる必要があったら、所長の指示で」
「分かりました。無茶ができそうな顔をしていますけど、縄があるから平気だとは思わないでくださいね」
自分がそんな顔をしていると知り、俺は少しだけ笑った。彼女は笑わず、俺の胸の革帯を引いて、緩みがないことを確かめた。
足場へ降りた途端、冷たい水が靴の中に入り込んだ。
膝にぶつかる流れは見た目より強かった。一歩進むたびに足を横へ持っていかれる。俺は水面の下に薄い支えを作り、その上へ足を載せた。水が自分の重さを受け止める感触は、よく張った布を踏んでいるのに似ている。
昔はこの魔法で川を渡って、橋番に怒られた。通行料を惜しんだわけではなかったのだが、橋番にとってはどちらでも同じだったらしい。あの赤ら顔の男が、もういない。そんなことが不意に頭を過ぎり、危うく足を滑らせた。
今は考えるな、と自分に言った。振り向けば、まだ生きている人間が縄を握っている。
第一柱の根元へ手を伸ばした。
青銅の表面は冷たく、刻まれた紋の溝だけが指に熱を伝えてくる。百年前、俺はこの仕組みを『川の肩を借りる』と呼んでいた。手元の水を力任せに運ぶのではなく、上流から来る勢いを受け止め、少しずつ上向きに渡していく。俺一人の魔力で川を持ち上げる必要はない。必要なのは、流れを受け渡す場所を見失わないことだった。
左手で古い骨格を捉え、右手で新しい調整環の働きを確かめる。
誰かが、よく考えて作っていた。水位が下がりすぎれば揚水を止め、負荷が大きければ警鐘を鳴らす。俺がいなかった時間に、何人もの人間がこの魔法へ手を入れたのだ。その仕事を剥がさず、隙間に自分の指を差し込む。
「所長。第一を、ほんの少し」
背後で返事がした。補助の調整輪が回される。俺は流れを支える力を下流へ傾けた。
目の前に垂れ下がっていた水の壁が、ゆっくりと形を変えた。下側から細い舌が伸び、川床へ滑り込む。白い泡が弾け、凄まじい音が足元から響いた。俺は歯を食いしばる。考えた通りに流れ始めたが、考えるだけでは分からない重みが腕の内側に食い込んできた。
魔力が足りないわけではない。揺れが細かすぎる。枝が引っかかるたびに水圧が変わり、その変化が術式を伝って両手へ返ってくる。
「北岸、まだ余裕があります!」
フェルカの声が聞こえた。俺は第二柱への移送を少し増やすよう頼み、第一柱の角度を深くした。水の舌が太くなる。高く盛り上がっていた水面が、倉庫の軒からわずかに下がった。
そのとき、詰まっていた大木が動いた。
根の塊が格子を噛んだまま、幹だけが横へ振れた。残っていた足場が一枚剥がれ、俺の脛に当たる。痛みで息が止まり、左手が紋から浮いた。
水の壁が膨れた。
胸の縄が張る。俺は引き上げられかけた体を柱へ寄せ、左の掌を青銅へ押し戻した。指の皮が擦れたのが分かったが、手を離すわけにはいかなかった。
「イゼルさん!」
「まだ持てる。引くな!」
怒鳴ってから、そんな言い方では何も伝わらないと思い直した。持てると言っていた人間が、次の瞬間には持てなくなる。それを見分けるために、岸に人がいる。
「左足を打った。立てる。手は二本ともついてる!」
所長が了解、と叫んだ。縄の張りが少し緩む。
俺は水面の支えを広げ、足を踏み直した。大木の幹がまた揺れる。その先端に折れた青銅管が絡み、次に動けば柱の調整環まで引き剥がしかねなかった。
木を砕けば早い。頭のどこかで、慣れた答えが出た。だが砕いた枝は下流の狭い水路へ流れ、また詰まる。今度は目の届かない場所で。
俺は机の上を回ったパン屑を思い出した。
「所長、木を回す。下流側から見て右へ、幹を川と平行にする。引っかかった管は切れるか!」
「切断具を持ってこい! おい、先に固定だ、暴れるぞ!」
背後で人が走った。俺は揚水門を支えたまま、木の周囲だけに緩い渦を作る。白墨で描いた風の輪より、はるかに大きく、重く、従順でない。それでも、押す方向と戻す場所を決めればいいことは同じだった。
幹が軋んだ。管を切る硬い音が二度、三度と続いた。
切れた瞬間、木の先端が跳ね上がった。岸で誰かが叫ぶ。俺は慌てて回転を緩め、根の重みを水で包み込む。大木は半回転しかけたところで止まり、川の流れに鼻先を向けるように、ゆっくりと向きを揃えた。
塞がれていた隙間から水が噴き出した。
「開いたぞ! 下流、流量を見ろ!」
所長の指示が飛ぶ。俺は流れを曲げたまま、根が格子を離れるのを待った。急いではいけない。あと少しで終わると思うときが、一番手を雑にする。
やがて大木は、川の中へ沈むように降りた。下流の広い川床へ流れ出し、岸の作業員が投げた係留縄に引かれて、浅瀬で止まる。その頃には頭上の水も半分以下になっていた。
俺はそこで初めて、自分がひどく汗をかいていることに気づいた。冷たい川の中にいるのに、背中を汗が流れている。
「主水路が通った。こっちで下ろせる!」
所長の声を聞き、俺は指の力を少しずつ抜いた。自分が曲げていた流れを、元の制御へ返す。調整環が静かな青い光を帯び、水位に合わせて出力を落としていった。
うまく作ってある。思わず、そう呟いた。
最後の水が白く砕けて川床へ落ちたとき、岸から歓声が上がった。俺は振り返る余裕もなく、柱の根元へ座り込んだ。胸の縄を握る手が近づき、フェルカと作業員が両側から肩を支えてくれた。
「立てますか。いいえ、今は立たなくていいです。足、見せて」
フェルカは言いながら、俺の濡れた裾を捲った。脛に大きな擦り傷ができていた。彼女は顔をしかめ、鞄から清潔な布を出す。
「勝手には触らない、と言ったんだけどな」
「相談してからでも、怪我はします。そっちの手も」
差し出した掌を見て、彼女はさらに眉を寄せた。しかし叱るより先に、傷へ水を流してくれた。
川は、何事もなかったような顔で流れ始めていた。濁りも枝もまだ多かったが、もう頭の上にはなかった。遠くの広場から、誰かの名前を呼ぶ声が聞こえる。その返事があり、また別の声が続いた。
俺はそれを聞きながら、石の上で両手を広げた。傷はひりひりしたが、指は動いた。
*
夕方、学校へ戻ったときには、俺の悪口がもう一つ増えていた。
黒板に『すぐに素手で触る』と書いてある。
フェルカは包帯を巻き終えた俺の手と黒板を見比べ、何も言わずに白墨を置いた。授業は明日まで休みになったが、迎えを待つ子供が数人残り、俺の周りへ椅子を寄せていた。
「あれもクオルの魔法なの?」
飴の男の子が尋ねた。名前はニムというらしい。昼に俺の年齢を大きな声で公表した件は、忘れることにした。
「元になったところはな。けど、今日動かしたのは大勢で作ったものだ。新しい紋がついていなかったら、もっと難しかった」
「おじさんが作ったわけじゃないのに、分かるんだ」
「古いところは、よく知ってる」
自分で作った、と言おうとして、やめた。
信じてもらえないからだけではなかった。目の前の川を、俺が作った魔法だと一言で括るのが、何となく嫌だったのだ。図面に残っていた数え切れない名前と、濡れた縄を握っていた手を思い出す。
ドゥーグ所長は、明日もう一度管理所に来てほしいと言った。礼金の話だけでなく、基幹紋の扱いについて聞きたいことがあるそうだ。俺も、あの調整環を誰が考えたのか知りたかったので、約束した。
校門からペトリと母親が入ってきた。母親は焼き菓子を詰めた籠を持ち、何度も頭を下げた。煙で喉を痛めているせいか、声は掠れていたが、笑ったときの目元が娘によく似ていた。
窯は明日、一緒に見ることになった。フェルカが窯職人へ紹介状を書き、俺はそれまで煙道の詰まりを調べるだけにすると約束した。母親は料金を気にしたが、管理所の礼金が入るなら、俺は今夜の食事を心配しなくてよい。
「お菓子でいい。これ、昔も食べたことがある気がする」
籠から立つ、焦がした蜂蜜の匂いに覚えがあった。母親は嬉しそうに、祖母から教わった焼き方だと言った。その祖母も、さらに自分の祖母から教わったのだそうだ。
俺は一つ受け取った。昔より薄く、端はさくさくしていた。知っている味だと思った途端、喉が詰まり、うまく飲み込めなくなった。
ペトリが心配そうに水を持ってきたので、甘すぎてびっくりした、と誤魔化した。女の子はそれを褒め言葉だと受け取ったらしく、得意そうに胸を張った。
「大きくなったら、私もクオルみたいに魔法を作る」
俺は水の杯を持ったまま、顔を上げた。
ペトリは俺ではなく、フェルカを見ていた。昼には止められた願いを、もう一度差し出すような目だった。フェルカはしばらく考え、それから女の子の紙を広げた。パン屑を動かした紋が、紙の端に残っている。
「お母さんを助けたくて作るのは、いいと思う。ただ、作った後で困ったことが起きたら、知らん顔せずに考え直して。誰かに言われると腹が立つこともあるでしょうけど」
最後のところで、こちらを見た気がした。
ペトリは真剣に頷き、紙を丁寧に畳んだ。母親と手を繋いで帰る背中を見送ってから、俺は黒板の隣の教科書を手に取った。
昼には悪口ばかりが目に入った。今読み返しても、言い方がきついことに変わりはない。それでも、線の一つ一つに、誰かが困り、誰かが考えた跡が見えた。
腹は立つ。だが、捨てられるよりはよかった。
「先生は、クオルが嫌いか」
フェルカは最後の椅子を机の下へ入れ、こちらを振り向いた。
「授業の準備をしていると、文句を言いたくなります。どうしてここまで思いつく人が、これを書き残してくれなかったんだろう、とか。学生の頃はもっと嫌いでした。試験範囲を何十ページも増やした人ですから」
「それは、すまなかった」
「あなたが謝ってどうするんです」
彼女は笑ったが、すぐに黒板へ目を向けた。
「でも、母の手が冬に荒れなくなったのは給水具のおかげです。私は子供の頃、母と水を汲みに行っていたので。悪いところを教えるのと、全部嫌うのは違いますよ」
俺は返事を探し、見つけられずに教科書を閉じた。礼を言えばおかしいし、胸を張るのはもっとおかしい。結局、いい本だな、とだけ言った。
フェルカはそれを聞いて、少し嬉しそうにした。
泊まる場所は、学校の古い用務室を借りることになった。役場で身元の相談をするまで一晩だけ、という条件だったが、雨風を凌げる寝床があるだけで十分だった。俺は掃除を手伝い、井戸の覆いにできた隙間を板で塞いだ。魔法を使おうとするとフェルカが包帯を見るので、釘を打つ係まで取り上げられ、結局、板を押さえるだけになった。
日が落ちる頃、彼女が薄い本を一冊、用務室へ持ってきた。
「古い版も読みたいとおっしゃっていたでしょう。教材庫にありました。今の教科書の元になった本だそうです」
茶色の表紙には『暮らしの魔法覚え書』とある。発行は王暦五一九年。俺が眠ってから六年後だった。
著者の名前を見て、胸の奥が強く縮んだ。
ローディア・ゼン。
工房へ通っていた、近所の薬屋の娘だった。弟子にしてくれと言われて、まず帳簿を読めるようになれと答えたら、翌月には俺の滞納していた材料代まで計算してきた。俺が最後に見たとき、彼女は十七歳だった。
あの子が本を書いた。
ページをめくると、最初の見出しは『イゼル・クオルの説明を信用しすぎてはいけない』だった。
「本人の前でも言ってたな、それ」
声が掠れた。フェルカがこちらを見たが、俺は本から目を上げられなかった。文章には覚えのある言い回しが残っていた。怒ると丁寧な言葉を使う癖も、失敗したことを三度言い直すしつこさも。
給水具の停止条件を追加したのは、ローディアだった。洗濯屋の孫が水を溢れさせたあと、彼女が紋を直していた。俺のいない工房に残った道具で、何日もかけて。
行間に小さな挿絵がある。取っ手の位置。手の小さい子供の押し方。使わないときに外しておく部品。読み進めるほどに、喉の奥が痛くなった。
「貸してくれて、ありがとう。大事に読む」
フェルカは頷いた。彼女が出ていったあと、俺は灯りを近づけ、もう一度、著者の名前に指を置いた。
その下に、細い飾り罫が引かれていた。
何でもない、印刷の飾りに見える。しかし俺は、その線を知っていた。ローディアが工房の薬棚につけていた、他人に読まれないようにするための隠し紋だった。
最初に作り方を教えたのは俺だ。日記を俺に読まれないために使うと言われ、教えた直後に後悔したものだった。
俺は包帯のない小指を、罫線の端へ当てた。魔力をほんの少し通す。
紙の繊維の間に、淡い文字が浮かび上がった。
『イゼル。これが読めるなら、まず最後まで黙って読んで』
息を止めたまま、次の行を追った。
『あなたの休眠槽は、三日で開くように組まれていた。計算も組み方も間違っていない。私は七回確かめた』
外で風が鳴り、窓の鎧戸が小さく揺れた。昼間の川音が、急に遠くなったように感じた。
文字は、まだ続いていた。
『だから、あなたがまだ起きてこないのは、あなたの失敗ではない。誰かが外から、目覚める日を書き換えた』
俺は本を机に置いた。置いたつもりだったが、底が木に当たって思いのほか大きな音を立てた。
百年眠ったのは、俺の術式が間違っていたからだと思っていた。教科書を読んで、そうなのだろうとますます思った。俺は肝心なところを詰めず、人に迷惑をかけ、今回もそれをやったのだと。
ローディアは、その一つだけを否定していた。
罫線の端で、最後の二行が光っている。
『私のことを探すなら、王都の魔法院へ行ってはいけない。先に、タルネの旧い教科書屋を訪ねて』
『合言葉は、あなたが一番嫌いだった、私のあの言葉』
俺は目を閉じた。
帳簿を抱えた十七歳の娘が、工房の入口に立っている。床を埋める図面を踏まないように足を運び、俺が得意げに見せた新しい魔法を眺めて、決まって同じことを言った。
「それ、あなたがいなくなったら誰が直すの」
声に出すと、紙の上の光が静かに消えた。
今度は、答えなくてはいけなかった。




