整列した温室
職員室の窓際、冷めたコーヒーの入ったマグカップを手に、佐々木は夕暮れの校庭を見下ろしていた。
教員生活二十五年。公立中学校のベテラン数学教師であり、三年二組の担任を務める佐々木の視界には、部活動を終えて下校していく生徒たちの姿が映っていた。
乱れのない、美しい列。
大声でふざけ合う生徒もいなければ、ゴミをポイ捨てする生徒もいない。下校時刻のチャイムが鳴ると、全員が時計を見たかのように同時に鞄を持ち、静かに昇降口へと向かう。
「……佐々木先生、またそんな難しい顔をして、どうしたんですか?」
隣の席から、学年主任の吉岡がタブレットを片手に笑いかけてきた。吉岡は三十代半ば、自身も第一子を『クレイドル』の適性配給で迎えた世代だ。
「いえ、生徒たちが、昔に比べたら手がかからなくなったなと思いましてね」
「そうなんですね。今は授業中に立ち歩く子もほとんどいないし、宿題の提出率はほぼ百パーセント。全国統一テストの平均点も、年々右肩上がりと言います。教師の残業も激減したでしょう。昔の先生たちがよく言っていた『生徒指導の苦労』なんて、今や都市伝説みたいなものですね」
「……ええ、そうですね」
佐々木は曖昧に相槌を打った。否定はできない。事実、学級経営は驚くほど平穏だった。
現在、佐々木の受け持つクラスの三十五名中、二十九名――実におよそ八割強が『クレイドル』出身の生徒たちだった。
彼らは総じて優秀だった。
反社会的衝動や注意散漫といった「リスク要因」を遺伝子段階でスクリーニングされ、情緒安定性と学習意欲を底上げされた子どもたち。感情が暴発することもなく、ルールを教えれば寸分の狂いもなく遵守する。
いじめの件数はゼロ。校内暴力もゼロ。かつて職員室を悩ませていた不登校や非行の嵐は、完全に過去のものとなっていた。
だが、佐々木の胸の奥には、年を追うごとに冷たい違和感が澱のように溜まり続けていた。
職員室のパソコンを開き、生徒たちの面談記録に目を通す。
進路希望調査の欄には、整然としたフォントで、極めて堅実な選択肢が並んでいる。公務員、医療生体技師、大手IT企業の管理職、行政コンサルタント。
「宇宙飛行士になりたい」
「プロのミュージシャンになりたい」
「世界中を放浪したい」
――かつての子どもたちが無邪気に書き殴っていたような、無謀で熱を帯びた夢は一つとして存在しない。
彼らは自分のスペックを冷徹に理解していた。
親から開示された遺伝子パラメータと現在の偏差値を照らし合わせ、最もリスクが少なく、最も投資対効果の高い「最適解」のレールを自ら選んでいく。
失敗を恐れるのではない。そもそも「失敗するような選択肢」が、彼らの思考ルーチンから最初から消去されているのだ。
「佐々木先生、ちょっとよろしいですか」
養護教諭が困り果てた顔で職員室に入ってきた。
「また、自然児の生徒の件なんですけれど……」
佐々木は小さく息を吐いた。
手がかからなくなった学校において、今、職員室で話題に上る「問題」は、ほぼ例外なく残り二割の――未認証自然妊娠で生まれた生徒たちのことだった。
先週は、自然児の男子生徒が、些細な口論から感情を爆発させて教室のロッカーを蹴り飛ばした。
昨日は、別の自然児の女子生徒が、激しい生理痛と貧血で保健室に行き、定期試験を受けられなかった。
そして今日も、アレルギーの発作を起こした自然児が、救急車で搬送されたばかりだった。
「周りの子たちがみんな平穏だからこそ、あの子たちの『ムラ』が目立ってしまうんですよね」
吉岡が眉をひそめ、タブレットの画面を指先ではじく。
「感情の起伏が激しすぎるし、体調管理もできない。やっぱり、遺伝子スクリーニングを通していない自然個体は、集団生活におけるリスクファクターですよ。保護者からも『自然出産の子と同じクラスだと、授業の進行が遅れる』なんてクレームが入ってきていますし」
「吉岡先生」
佐々木は静かに口を挟んだ。
「彼らが問題を起こしているというより……この環境が、彼らの凸凹を許容できなくなっているだけではないですか」
吉岡は不思議そうに目をしばたたかせた。
「許容、ですか? ですが佐々木先生、社会全体が最適化を求めているんです。傷つかず、争わず、効率的に成果を出す。クレイドルの技術は、人類が何千年もの間解決できなかった『貧困と犯罪の遺伝的連鎖』を断ち切ったんですよ。現に、少年犯罪の発生率は劇的に下がっている」
その言葉に、佐々木は反論できなかった。
確かにそうだ。学校が荒れ、暴力が横行し、多くの子どもが理不尽に傷ついていた時代を佐々木は知っている。それに比べれば、今の学校は清潔で、安全で、誰もが公平に教育を受けられる理想郷に見える。
クレイドルの普及を「悪」だと断じることはできない。
不妊に苦しむ親を救い、遺伝病の苦痛をなくし、穏やかな社会秩序をもたらした。その恩恵を否定するのは、単なる前時代的な懐古主義に過ぎないだろう。
だが――。
放課後の教室を見回りに向かった佐々木は、廊下の途中で足を止めた。
三年二組の教室。
夕日が差し込む部屋の片隅で、数人の生徒が机を囲んで談笑していた。
クレイドル製の子どもたち。
その横顔を眺めながら、佐々木はふと、背筋に冷たいものが走るのを覚えた。
誰ひとり、眉をひそめていない。
誰ひとり、声を荒らげていない。
同じような形の小さな鼻、整った歯並び、穏やかで破綻のない笑顔。
それはまるで、同じ規格の種を蒔き、日照時間と温度を厳密に管理した温室で咲き誇る、均一なペチュニアの花壇のようだった。
傷ひとつない花びらは美しい。けれど、そこには「偶然の歪み」も「予期せぬ色彩」も存在しない。
彼らは、怒り狂った経験があるのだろうか。
喉が千切れるほど誰かを憎み叫んだり、理性を失うほど誰かを愛したり、自分の無力さに絶望して夜通し枕を濡らしたことがあるのだろうか。
感情の振れ幅をあらかじめ安全域の内側にトリミングされた彼らは、これから先、理不尽な天災や、計算通りにいかない他者と出会ったとき、一体どうやって立ち向かうのだろう。
この完璧な平穏は、いつまで続くのだろうか。
もしも、この無菌室の中で、誰にも言えない痛みを抱え込んでしまった子がいたら。
規格通りの笑顔の裏で、息ができなくなるほど苦しんでいる子がいたとしたら――周りの誰も、その声に気づけないのではないか。
「……先生?」
教室の中から、生徒の一人が佐々木に気づいて声をかけてきた。
学年トップの成績を維持し、生徒会長も務めている穏やかな少年だ。
「どうしたんですか、そんなところで立ち止まって」
「いや……なんでもないよ」
佐々木は努めて柔らかい笑みを浮かべた。
「今日もみんな、仲が良いね」
「はい。僕たちのクラスは平和ですから」
少年は屈託のない、完璧に調律された笑顔で答えた。
「トラブルを起こす理由なんて、どこにもありませんからね」
その迷いのない瞳を見つめながら、佐々木の胸を、言いようのない寒気が吹き抜けていった。
この子たちは、どんな大人になっていくのだろう。
エラーを排除し、痛みを遠ざけ、規格外の異物を静かに排除しながら、整然とした街を整然と歩いていくのだろうか。
そして、その均一な平穏の底で、誰にも見つけてもらえない孤独な魂が生まれたとき、一体誰がその手を握ってやれるのだろう。
窓の外では、街を覆う夜の帳の向こうで、公認生体受取端末の青白い光が、街角ごとに点々と灯り始めていた。
人類が選び取った、完璧で無菌の未来。
その歩みを止める術は、もはやこの世界のどこにも存在しない。




