正義の羊膜
「命は製品ではありません! 愛と痛みのなかで迎えるべき奇跡です!」
拡声器を通した甲高い叫びが、夕暮れの駅前広場に反響していた。
通勤客が行き交う人混みの片隅、巨大な横断幕を掲げた一団がいる。白地に赤い手形をあしらったロゴマークの下には、毛筆体で大きくスローガンが刻まれていた。
【子どもを守る市民連帯――アムニオンの会】
「皆さん、立ち止まって耳を傾けてください!」
メガホンを握りしめ、喉を震わせて演説しているのは、団体の共同代表を務める佐久間志乃だった。四十代半ば、化粧気のない肌に、芯の強さを感じさせる鋭い眼差し。彼女はかつて、世間から「野蛮で危険な行為」と罵倒され、孤立無援の中で自らの胎内から娘を自然分娩で産み落とした「自然派の闘士」だった。
「街角のあの白い機械を見てください! 国と巨大製薬会社が作り上げた、命の冒涜装置です! 金を積めばパラメータをいじり、思い通りにならなければ裏の業者へ売り払う。そんな親たちが今、この国を蝕んでいます! 痛みを分かち合わずして、どうして本当の母になれるというのですか!?」
配られるチラシには、過激な文言が並んでいる。
『クレイドルの即時撤廃を』
『人工子宮個体の規制強化』
『未認証自然出産の権利保護』。
チラシを受け取る通行人はごくわずかだった。大半の人間は「また狂信的な自然派のデモか」「時代遅れのカルト集団が」と眉をひそめ、足早に通り過ぎていく。
その冷ややかな人波の後ろで、もう一人の共同代表である長谷川苑子は、段ボール箱からチラシを補充しながら、所在なげに俯いていた。
苑子は、志乃とは出自が違っていた。
彼女は十二年前、クレイドルで「理想の娘」を購入した親だった。
だが、どれだけ高額なオプションを盛っても、夜泣きや癇癪に苛まれる日々に耐えられず、産後うつに陥った。ある夜、娘の首に手をかけそうになった恐怖に震え上がり、自らのエゴを激しく悔いた。自分は手軽さに騙され、命を玩具のように買ってしまった――その罪悪感と贖罪の念から、苑子はこの団体へ身を投じたのだった。
「志乃さん、そろそろ引き揚げませんか。警察の巡回ドローンが警告を出しています」
苑子が小声で耳打ちすると、志乃はギラリとした瞳で振り返った。
「何を弱気になっているの、苑子さん。来週には、あの倉橋樹の初公判があるのよ。私たちの主張がどれほど正しかったか、社会に思い知らせる最大のチャンスじゃない!」
倉橋樹。十七歳。
クレイドルの製造個体でありながら、下校途中の無辜の市民をナイフで無差別に襲撃した少年。
世間が「機械のバグ」「メーカーの製造物責任」と騒ぎ立てる中、アムニオンの会はいち早くこの事件に飛びつき、機関紙やネット配信で大々的にアジテーションを仕掛けていた。
『見よ、機械製の人形が起こした惨劇を!』
『母の腹を通らぬ個体には、共感と魂が宿らない決定的な証拠!』
苑子は胸の奥に、チクチクとした痛みを覚えていた。
「……でも志乃さん、彼の事件は、ご両親の接し方にも深刻な問題があったと報道されています。まるで彼を実験動物のように……」
「関係ないわ!」
志乃はピシャリと言い放った。
「親の愛が歪むのも、あの機械が命を『モノ』として売り買いさせているからよ! 根本的な悪はクレイドルにある。あの子の事件を徹底的に糾弾して、世論を味方につけなきゃいけないの。それが、すべての子どもたちを救うことになるんだから!」
志乃の言葉は、澱みなく、正しく、そして恐ろしいほどに純粋だった。
自分の正義を一片も疑わない人間の瞳。
苑子はそれ以上、言葉を継ぐことができなかった。
デモ活動が終わり、夜の帳が下りた午後九時。
二人は機材を片付け、薄暗い裏路地を通って駅へ向かっていた。
冷たい秋雨が、パラパラとアスファルトを濡らし始めている。
その時だった。
路地の奥、メディカルモールの角に設置された『クレイドル』のブース前で、けたたましい警告ブザーが鳴り響いた。
『ピーーーッ、ピーーーッ、エラーコード:E-0402。規定外生体。チップ未登録。処理を中断します』
二人がハッと足を止める。
自販機ブースの脇、雨除けの庇の下にある銀色のハッチ――「公的育児委託ゲート(リサイクルポスト)」。
一度は完全に閉じたはずの分厚い金属扉が、ガタガタと激しい音を立てて再び上方へと跳ね上がった。
内部の搬送ベルトへ送られることなく、エラー判定によって吐き出されたトレイ。
その冷たい金属板の上に、ぽつんと転がされていたのは――何一つ身に着けていない、生まれたばかりの赤ん坊だった。
「嘘……でしょ……」
苑子は息を呑んだ。
産着も、タオルも、毛布すらない。
羊水とわずかな血にまみれた剥き出しの肌は、吹き込む冷たい秋風に晒され、赤紫色に変色していた。臍の緒は刃物で無理やり引きちぎられたように不揃いで、小さな胸が激しく、弱々しく波打っている。
「……ふぎゃあ……っ、ふぇ、ええ……っ!」
凍えるような大気の中、赤ん坊が必死に手足をバタつかせ、助けを求めるように泣き叫んでいた。
誰かが産み落とし、ハッチへ押し込んだのだ。育てられない理由があったのか、それとも精神的に追い詰められていたのか。
だが、この国のセーフティネットたる自販機は、皮下チップを持たない「規格外の命」をゴミ箱にすら入れず、無情にも吐き戻した。
「これ……未認証の自然出産児よ!」
志乃が駆け寄り、鋭い声を上げた。
「なんてこと……! 誰かが密かに産み落として、ここに捨てていったんだわ! でも機械はチップのない自然児を受け付けない……なんて非人道的なシステムなの!」
志乃は即座にポケットからスマートフォンを取り出し、動画撮影モードを起動した。
レンズを、震えながら泣く裸の赤ん坊と、赤く点滅するエラー画面へと向ける。
「撮って、苑子さん! これよ! これこそが、クレイドル社会が生み出した究極の地獄絵図よ! 規格外の命を吐き出す冷酷な国家システム! すぐにSNSで生配信して、緊急声明を出すわ! 『クレイドルに拒絶された未認証児、放置された生命』――これで一気に世論を味方につけられる!」
志乃の顔は紅潮し、その声には興奮が混じっていた。
巨大な悪を告発するための、決定的な証拠を手に入れた闘士の顔。
だが、苑子の視界には、スマートフォンの画面など映っていなかった。
「……ぎゃあ……っ、ふ……」
赤ん坊の声が、急激に掠れて小さくなっていく。
低体温症だ。この冷たい金属トレイの上で濡れたまま放置されれば、あと数分も持たずに小さな心臓は止まってしまう。
小さな、爪もまだ透き通るような指先が、寒さに震えながら空を掴もうとしていた。
「志乃さん、やめて!」
苑子は叫び、志乃の手からスマートフォンを払い落とした。
画面がアスファルトに叩きつけられ、カシャンと鈍い音を立ててヒビが入る。
「な、何をするの! 大事な証拠を――」
「証拠じゃないッ!!」
苑子の喉から、自分でも驚くほどの怒号が飛び出した。
苑子は自らのダウンコートを開き、膝を濡れた地面についた。
冷たいトレイから、氷のように冷え切った赤ん坊の身体を素手で抱き上げる。
自分のニットの胸元を大きく広げ、剥き出しの温かい肌に、凍える赤ん坊を直接密着させた。
「ひっ……!」
焼けるような冷たさが、苑子の皮膚を突き刺した。
苑子はダウンコートをその上から巻きつけ、自分の体温をすべて注ぎ込むように、強く、強く抱きしめた。
「息をしてる……! この子は今、ここで死にそうになってるの!
動画を撮って、告発して、自分たちの正しさを証明することが、子どもを守ることなの!?
自然妊娠だろうと、自販機製だろうと、そんなことどうでもいいじゃない!
今、この子が生きるか死ぬかなのよ!」
「苑子さん、あなた……!」
志乃は言葉を失い、目を見開いた。
「私たちは、もっと大きな構造と戦っているのよ! 一人の子どもを助けたって、システムを壊さなきゃ同じ悲劇が繰り返されるだけ――」
「構造なんて知らない!」
苑子は涙を流しながら、赤ん坊の冷たい背中を必死にさすり続けた。
「私たちが守りたいのは、『子ども』なの!? それとも自分たちの『正しさ』なの!?
私はね……自販機で娘を買って、愛せなくて、狂いそうになった! 自分がどれだけ愚かで、身勝手だったか、骨の髄まで思い知った!
だから分かるの……この子を捨てた子も、どれだけ追い詰められて、どれだけ絶望して、逃げ出すしかなかったのか……!
それを断罪して、ネットの晒し者にして、何が救いなのよ!」
雨足が強まり、二人の身体を容赦なく濡らしていく。
志乃は泥にまみれたスマートフォンを見つめ、それから、苑子の胸元で小さく震える赤ん坊を見つめた。
その強張っていた表情が、わずかに崩れた。
志乃の脳裏に、十数年前の記憶が蘇っていた。
誰からも祝福されず、世間から「異常者」と罵られながら、一人で陣痛に耐えて産んだ娘の、あの最初のぬくもり。
自分はいつから、命の体温ではなく、掲げるプラカードの文字ばかりを見るようになってしまったのか。
「……救急車を」
志乃の口から、低く掠れた声が漏れた。
「今すぐ小児救急を呼びましょう。一刻を争うわ」
苑子は顔を上げ、志乃を見た。
志乃はもはや活動家の顔ではなかった。ただの一人の、傷だらけの母親の顔をして、震える手で赤ん坊の小さな頭に、自分のマフラーをそっと巻きつけていた。
「……この子を、死なせるわけにはいかないでしょう」
「……ええ!」
苑子は震える指で端末を操作し、緊急回線へと繋いだ。
雨の降る薄暗い路地裏。
二人の女性は、傘も差さず、ただ一つの小さな命を挟むようにして身を寄せ合い、交互にその背中をさすり続けた。




