雨宿りの箱
体育座りをした膝の隙間に、冷えた顔を埋める。
プリーツスカートの下、オーバーサイズのパーカーでも隠しきれなくなった下腹部のふくらみを、十六歳の美咲は両手で強く、痛いほどに押し潰した。
「……っ、う」
波のように押し寄せる激痛に、奥歯を噛み締める。
場所は、使われなくなった市民プールの更衣室の片隅。錆びついたロッカーと、湿ったコンクリートの匂い。雨がトタン屋根を叩く轟音だけが、美咲の漏らす呻き声をかき消してくれていた。
始まりは、ほんの少しの背伸びと、無知だった。
マッチングアプリで出会った修人と付き合い始めて半年。「大丈夫だから」という言葉を信じた。性教育の授業では『クレイドル』による安全な生殖プログラムばかりが教えられ、前時代的な避妊や生身の性行為のリスクなんて、教科書の隅に小さく書かれていただけだった。
生理が止まり、胸が張り、身体が変わっていく恐怖に耐えかねて修人に打ち明けた日のことを、美咲は今でも鮮明に覚えている。
放課後のファミレスのボックス席。スマホの画面を見つめたまま、修人は凍りついた顔で言った。
『……嘘だろ? 自然妊娠なんて、今どきありえないって。バレたら俺、進学取り消されるよ。何かの間違いじゃないの?』
『間違いじゃないよ……お腹、張ってて……どうしよう、修人くん』
『どうしようって言われてもさ! クレイドル以外の妊娠なんて、社会的にアウトじゃん。「野蛮な性感染症リスク個体」ってネットで叩かれて終わりだよ! ……俺、知らないからな。お前が勝手にやったんだろ』
翌日から、修人と連絡が取れなくなった。通話はブロックされ、メッセージは二度と届かなくなった。
親に言えるはずもなかった。
大手生殖バイオ企業に勤める父と、「クレイドルの安全性を信じる会」の役員をしている母。二人は日頃から、ネットのニュースを見ながら眉をひそめていた。
『未認証の自然妊娠なんて、衝動を抑えられない底辺の人間のすることよ。恥ずかしくないのかしら』
そんな両親に「生身の男の子と関係を持って、お腹に子どもができました」と言えば、自分の居場所が消滅することくらい、美咲にも痛いほど分かっていた。
ネットで検索しても、出てくるのは冷酷な言葉ばかりだった。
『自然妊娠の受け入れ病院一覧(現在新規受付停止中)』
『未認証妊娠に対する罰則規定の強化について』
『生体カプセル外での無認可胎児発育は、児童福祉法違反の疑い』
相談できる場所など、この街のどこにもなかった。
頼れる大人も、駆け込める病院も、すべてが「無菌で合理的」なシステムの外側へと美咲を締め出していた。
大きくなるお腹をオーバーサイズのパーカで誤魔化し続けた数ヶ月。
そして今日、放課後の激しい腹痛とともに破水し、美咲はこの薄暗い廃墟へと逃げ込んできたのだった。
「あ……ああああっ! 痛い、痛い……!」
コンクリートの冷たい床に爪を立てる。
引き裂かれるような激痛。骨が軋み、身体の内側から何かが強引に押し出されていく。
母が痛みに耐えて子を産むことを「崇高な愛」と呼ぶ時代は終わった。今、美咲が味わっているのは、ただの孤独な暴力だった。助けてくれる医師も、手を握ってくれるパートナーも、麻酔も、何もない。
声を出せば誰かに見つかる。見つかれば警察に突き出され、犯罪者の烙印を押される。
美咲は濡れたタオルを口に咥え、血が滲むほど噛み締めながら、ただ一人でいきみ続けた。
どれほどの時間が流れただろうか。
外の豪雨が一段と強まった頃、ずるり、と温かい塊が美咲の股の間から滑り落ちた。
「……っ、は、あ……っ」
荒い呼吸を繰り返しながら、美咲は震える手でそれを手繰り寄せた。
血と羊水にまみれた、小さな、小さな赤ん坊。
赤ん坊が、小さく「ふぎゃあ」と声を上げた。
美咲は心臓が止まるかと思った。
「お願い……泣かないで……静かにして……!」
胸元にかき抱き、自分の着ていた上着で包み込む。
柔らかな布越しに伝わってくるのは、驚くほど確かな、生きている体温だった。
こんなに暗くて、汚れた場所で。
誰からも祝福されず、誰からも望まれずに、それでもこの子は、必死に息を吸って胸を上下させている。
「……ごめんね」
美咲の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「ごめんね……私、こんなんで……何も、してあげられない……」
抱きしめていたい。この温もりを手放したくない。
けれど、家に連れて帰ることはできない。育てるお金もない。学校も、未来も、すべてが終わってしまう。
この子を抱えて生きていく道は、この清潔で完璧な世界には一本も用意されていなかった。
美咲は、制服のポケットからスマートフォンを取り出した。
地図アプリを開く。
徒歩十分の場所にある、駅前メディカルモールの裏手。
――『公認生体受取端末』。
その脇に設置された、小さな無人ハッチ。
行政が「公的育児委託ゲート」と呼び、街の人々が「リサイクルポスト」と囁く、命の受け皿。
(あそこなら……)
美咲の頭に、すがるような思考が浮かんだ。
(あそこに置いておけば、国が回収してくれる。誰かお金持ちの、優しい大人が引き取ってくれるかもしれない。自販機に来る人たちは、みんな赤ちゃんが欲しくてたまらない人たちだから……私なんかが育てるより、ずっと幸せになれるはず……)
自分を納得させるための、ひどく都合のいい言い訳。
それが卑劣な育児放棄であることも、置き去りにされた子どもの多くが「規格外の労働力育成枠」に回されるという暗い噂も、今の美咲の耳には届かなかった。
そう思い込まなければ、今すぐ自分の命ごと投げ出してしまいそうだったからだ。
雨足は衰えを知らなかった。
美咲はふらつく足で立ち上がった。下腹部の激痛に出血が混じり、視界がチカチカと明滅する。
上着でしっかりと包んだ赤ん坊を、雨に濡れないよう胸元の内側に抱き込み、美咲は土砂降りの夜の街へと踏み出した。
街灯の光が、濡れたアスファルトに反射してギラギラと揺れている。
雨水が髪を伝い、体温を奪っていく。
胸元の赤ん坊は、美咲の心音を聞いているのか、ぐずることもなく、ただ小さな吐息を漏らしながら美咲の指先を頼りなく握っていた。
(温かい……)
歩きながら、美咲の胸が張り裂けそうになる。
この小さな手。この柔らかな頬。
私が産んだんだ。誰が何と言おうと、私のお腹の中で育って、この世に出てきてくれた私の赤ちゃん。
「……捨てたくないよ……」
本音が喉から零れ落ち、雨の音に消える。
けれど、立ち止まることはできなかった。
やがて、駅前の暗がりの中に、見慣れた青白い光が見えてきた。
四角い無機質なキューブ――『クレイドル』のブース。
その正面入口の脇、雨除けの庇の下に、銀色の小さなハッチがひっそりと口を開けていた。
壁面には、無機質な明朝体で印字されている。
【公的育児委託ゲート:困難を抱える保護者のための匿名預け入れ窓口】
ハッチの前には、誰かが置いたのか、濡れた段ボール箱が一つ転がっていた。
美咲は震える足でハッチへ近づいた。
センサーが反応し、プシューと低いエアの抜ける音とともに、金属の扉が上へとスライドする。
中は、無菌のクッションが敷かれた、小さな直方体の空間だった。ほんのりと温かい光が灯っている。
ここに置けば、扉が閉まり、二度と開かない。
私の赤ん坊は「回収対象」となり、私の人生からは永遠に消え去る。
美咲は胸元から、上着に包まれた赤ん坊を取り出した。
雨除けの庇の下で、街灯の光が赤ん坊の顔を照らす。
目を細め、ちゅぱちゅぱと小さな唇を動かしている。
「……元気でね」
美咲は涙でぐしゃぐしゃになった顔を近づけ、赤ん坊の冷えかけた額に、最初で最後のキスを落とした。
「ごめんね……名前もつけてあげられなくて、ごめんね。……どうか、優しい人に育ててもらってね。私より、ずっといいお父さんとお母さんに……」
美咲は息を詰め、ハッチの中のクッションの上へ、そっと赤ん坊を横たえた。
手を離そうとしたその瞬間。
ぎゅっ、と。
赤ん坊の小さな指が、美咲の濡れた制服の袖口を掴んだ。
離さないように。行かないでと訴えるように。
「っ……あ……!」
美咲の喉から、押し殺した悲鳴が漏れた。
引き戻したい。抱きしめて、このままどこか遠くへ逃げ出したい。
けれど、美咲の背後で、パトロール中の清掃ドローンの電子音が響いた。
ビクッと身体を強張らせた美咲は、目を閉じ、自らの手でその小さな指を一本ずつ、無理やり引き剥がした。
「……さよなら」
ハッチの脇にある、緑色に点滅する「完了」ボタンを押し込む。
ウィーン、と冷徹な機械音が鳴り、分厚い金属の扉がゆっくりと降りてきた。
隙間が狭まっていく。
最後に聞こえたのは、母親の温もりを奪われた赤ん坊の、火がついたような高い産声だった。
カチャリ。
重いロックが掛かり、緑のランプが赤い「処理中」の表示へと切り替わる。
もう、二度と開かない。
美咲はその場にへたり込み、濡れたコンクリートに両手をついた。
泥水がスカートを汚していく。
胸の奥に、ぽっかりと、底の抜けたような巨大な穴が空いていた。
痛かった。お腹の傷よりも、凍える雨よりも、自分の魂をその場に切り落としてきたかのように、心が引き裂かれて痛かった。
立ち上がらなければ。
証拠を消して、家に帰って、何事もなかったかのように服を洗濯機に入れなければ。
明日も学校へ行き、授業を受け、陸のいない教室で、普通の人間のふりをして笑わなければならない。
美咲は壁に手をつき、血の気の引いた足で、夜の闇の中へと歩き出した。
振り返ることはできなかった。
振り返れば、あの金属の扉を爪が剥がれるまで叩き続けてしまうと分かっていたからだ。
背後では、雨に濡れる『クレイドル』のブースが、今夜も変わらず青白い光を放ち続けている。
その光は、子を望む裕福な大人たちを温かく招き入れる救いの灯火であり、
居場所を奪われた少女と赤ん坊を冷たく飲み込む、無慈悲な世界の断頭台だった。
街の誰もその悲鳴に気づかないまま、激しい雨だけが、コンクリートの上に残されたわずかな血の跡を、綺麗に洗い流していった。




