終わりなきガチャ
スマートフォンの液晶画面が、薄暗い寝室で冷たく発光していた。
白壁で統一されたデザイナーズマンションの一室。家具の配置から間接照明の角度に至るまで、徹底的に「映え」を計算し尽くした空間の片隅で、沙織はベッドに腰掛け、爪先を苛立たしげにシーツへ食い込ませていた。
「……ぎゃあ、ふぇええええん……っ! ぎゃああああ!」
ベビーベッドの中から、甲高い泣き声が途切れなく響き渡る。
すでに二時間。耳栓を貫いて鼓膜を削るその金切り声に、沙織の神経は限界まで逆撫でされていた。
ベッドの中を冷ややかに見下ろす。
そこに横たわっているのは、生後八ヶ月になる女児――「ノア」と名付けたはずの赤ん坊だった。
顔を真っ赤にして涙と鼻水を撒き散らし、手足をバタつかせるその姿を見ても、沙織の胸には一片の愛おしさも湧き上がらなかった。
あるのは、ただ底知れない失望と、吐き気をもよおすような嫌悪感だけだった。
「……またハズレ」
乾いた呟きが、沙織の唇から零れ落ちる。
画面をタップし、SNSのプロフィール画面を開く。
フォロワー数三十万人を誇る沙織のアカウントには、完璧に整えられたインテリアと、洗練されたファッションの写真が並んでいる。かつては、そこに「天使のような我が子」を添えることで、完璧なライフスタイルを完成させるはずだった。
公認生体受取端末――通称『クレイドル』。
金さえ払えば、誰でも理想の子どもを手に入れられる時代。
投資家の夫は海外を飛び回っており、月のほとんどを一人で過ごす沙織にとって、子どもは孤独を埋めるためのアクセサリーであり、自己顕示欲を満たすための最高のピースになるはずだった。
だが、現実は沙織の思い描いたシナリオ通りにはいかなかった。
この子は、四人目だった。
一人目の男児は、生後半年を過ぎたあたりから夜泣きがひどくなり、どんなにあやしても沙織の抱っこを嫌がって暴れた。「情緒安定性」のパラメータを高めに設定していたはずなのに、仕様書と違う挙動を見せるその子に耐えられなくなった。
二人目の女児は、一歳を過ぎた頃に鼻の形が少しずつ横に広がり、沙織の理想とする「ハーフのような彫りの深いドール顔」から外れていった。成長に伴う骨格の自然な変化だったが、沙織にとっては耐えがたい「外見の劣化」だった。
三人目の男児は、歩き始めるのが遅く、知育トイのパズルを前にしてただボーッと涎を垂らすばかりだった。発達検査のスコアが平均値だと知った日、沙織はその子を抱きしめるのをやめた。
国が定めたルールでは、クレイドルの利用は「一年に一度、一人まで」と厳格に制限されている。
だが、それは表向きの法に過ぎない。
金とコネさえあれば、法の抜け穴などいくらでもあった。裏ルートにアクセスすれば、他人の名義を使って端末の制限を解除する闇コードが手に入るし、不要になった子どもを「無かったこと」にして処理してくれる民間回収業者もいくらでも存在した。
行政の「公的育児委託ゲート(リサイクルポスト)」に子どもを放り込めば、警察や児童福祉機関のデータベースに親の履歴が残り、今後の端末利用に制限がかかるリスクがある。
だから沙織は、いつも裏の「クリーニング業者」を使っていた。
高額な手数料を払えば、真夜中にやってきて、子どもの個体識別チップを特殊なジャマーで無効化し、人身売買スラムか非合法の労働育成施設へと運び去ってくれる。
「最初から、もっと課金しておけばよかったんだわ」
沙織は泣き続けるノアから視線を逸らし、スマートフォンの画面に視線を落とした。
画面には、裏ネットで手に入れた『クレイドル・カスタムシミュレーター』の非公式アプリが開かれている。
課金項目をスクロールする。
【色素配合:プラチナブロンド(メラニン極小)】
【虹彩調整:スカイブルー(遺伝子プール・北欧規格)】
【骨格設計:極小頭蓋・黄金比鼻腔】
【神経伝達:夜泣き誘発遺伝子ノックアウト(サイレント・スリープ処置)】
【知能補正:特定領域ギフテッド事前書き込み】
指先を滑らせるだけで、画面の中の3Dモデルが自在に姿を変えていく。
陶器のように滑らかな白い肌。人形のように大きな青い瞳。感情を乱さず、必要な時だけ愛らしく微笑む、完璧な我が子。
画面の上部には、ソシャゲのガチャ画面そっくりのバナーが踊っていた。
『プレミアム・ロイヤル・ジェネティクス――最高峰の奇跡を、あなたの手元へ』
沙織の乾いた瞳が、ギラリと妖しい光を宿した。
これだ。
このオプションの組み合わせなら、絶対に失敗しない。
夜泣きもしない。見た目も完璧。誰に見せても羨望の眼差しを向けられる、究極のトロフィーチャイルド。
「……今度こそ、SSR(最高レア)を引く」
ベッドの上のノアが、激しく咳き込みながら吐瀉物をシーツの上に吐き出した。
酸っぱい匂いが寝室に立ち込める。
沙織は眉をひそめ、汚れたシーツを見つめた。
拭いてやろうとも、抱き起こしてやろうとも思わなかった。
ただ、ハイブランドのシーツが汚れたことに対する苛立ちだけが、胃の底からせり上がってくる。
沙織は通話アプリを立ち上げ、裏アドレス帳の暗号化された番号をタップした。
コール音が二回鳴り、低く濁った男の声が応対する。
『……毎度。回収ですか、それとも新規のバイパスコードですか』
「両方よ。今すぐ来て」
『場所はいつものところで?』
「ええ。タワーパーキング裏。一時間後に来て。……それと、新しい端末の解放コード、最上位のプレミアム回線のやつを準備しておいて」
『毎度あり。手数料はビット決済で、基本料金プラス即日対応の特急料金になりますが』
「お金ならいくらでもあるわ。早くして」
通話を切り、沙織はクローゼットから黒い大型のボストンバッグを取り出した。
旅行用の、厚手のナイロンバッグだ。
ベッドへ近づく。
ノアは力尽きたのか、吐瀉物に汚れたシーツの上で、ヒクヒクと弱々しくしゃくりあげていた。
充血した小さな目が、沙織を見上げる。
小さな手が、何かを求めるように宙を彷徨い、沙織のシルクの部屋着の裾にかすかに触れた。
「……触らないで」
沙織は冷たくその手を払いのけた。
ノアの身体を抱き上げる。
かつて一人目の赤ん坊を抱いたときには、わずかに感じたはずの「命の重み」も「温もり」も、今の沙織には何も感じられなかった。
ただの、少し重みのある生温かい荷物。
思い通りに動かない、壊れた家電製品。
沙織はノアを、着替えもさせずオムツも替えないまま、無造作にボストンバッグの中へと押し込んだ。
狭く暗い空間に閉じ込められたことに気づいたのか、ノアが再び「ぎゃあ」と声を上げようとする。
沙織は素早くファスナーを引き、泣き声を布の奥へと閉じ込めた。
ジッパーの隙間から漏れる微かな振動を、沙織は片手で乱暴に抑え込む。
「静かにしなさいよ。次の子が来るんだから」
時計の針は深夜三時を指していた。
ロングコートを羽織り、マスクとサングラスで顔を隠した沙織は、黒いボストンバッグを肩にかけて部屋を出た。
エレベーターの中、手元のバッグがモゾモゾと動く。
足元を見ることもなく、沙織はスマートフォンの画面で暗号資産の送金手続きを済ませていた。
数千万円単位の残高から、手数料が引かれていく。
痛くも痒くもなかった。夫が海外の口座から無尽蔵に振り込んでくる金だ。使い道など、この「ガチャ」の他にありはしなかった。
タワーマンションの裏手、監視カメラの死角になっている搬送用パーキング。
冷たい海風が吹き抜ける闇の中に、ナンバープレートを泥で汚した黒いワンボックスカーがアイドリング音を響かせて停まっていた。
スライドドアが開き、作業着を着た痩せた男が降りてくる。
男は沙織の顔を見ることもなく、差し出されたボストンバッグを受け取ると、その重さを確かめるように軽く上下させた。
「状態は?」
「健康よ。病歴もないわ」
「了解。チップの追跡遮断はこっちで済ませます。足はつきませんよ」
男はバッグを車の後部座席へと放り込んだ。
そこには、同じような形状のバッグや段ボール箱が、無造作に幾つも積み上げられていた。中から、微かな子どものすすり泣きや、金属的な擦れる音が漏れ聞こえていたが、男も沙織も、その音に耳を傾けることはなかった。
男はスマートフォンをかざし、沙織の端末に一つのQRコードを転送した。
「これが裏回線のワンタイムパスです。臨海副都心エリアの第三端末、あそこなら今夜、規制解除プロトコルが通るように細工してあります」
「……助かるわ」
ワンボックスカーは、煙のような排気ガスを残して闇の中へと走り去っていった。
走り去るテールランプを見送りながら、沙織の胸に去来したのは、罪悪感でも後悔でもなかった。
ただ、重たいゴミを処分し終えた後のような、ひどく乾いた解放感だけだった。
「さあ……今度こそ」
沙織は踵を返し、人通りのない臨海エリアの遊歩道を足早に歩き始めた。
吹き付ける潮風がコートを揺らす。
暗闇の向こう、埋め立て地の倉庫街の外れに、青白い光を放つ四角いブースが見えていた。
厚生労働省の認可ステーション。
だが今夜、あそこは沙織にとって、世界でたった一つのカジノのルーレットだった。
ブースの前に立ち、スライドドアをくぐる。
密閉された空間。無機質な消毒液の匂い。
正面のタッチパネルに、男から送られてきたQRコードをかざす。
ピピッ――という電子音とともに、画面のインターフェースが赤く明滅し、通常モードから非合法の管理者モードへと書き換わった。
年一回の制限ロックが解除され、画面には眩いばかりのオプション一覧が展開される。
沙織の指先が、狂気じみた速さで画面を叩いていく。
プラチナブロンド。
サファイアブルーの瞳。
陶器のような白磁の肌。
夜泣き抑制コード、追加。
知能指数調整、上限最大値。
「これ……これも追加。あ、この目の形の補正も……」
画面の右上に表示された課金総額が、跳ね上がっていく。
五百万、八百万、一千二百万。
確定ボタンの上に、震える指を重ねる。
心臓が激しく脈打っていた。
頭の奥が痺れるような快感が、背筋を駆け上がる。
このボタンを押せば、今度こそ、私の人生を完璧にしてくれる「最高の一体」が手に入る。
失敗したら?
また、やり直せばいい。
気に入らなければ、また捨てればいい。
金ならある。自販機はいつだって、街角で待っているのだから。
『購入プロトコルを確定します。よろしいですか?』
合成音声が、機械的に問いかけてくる。
「ええ、早くして」
沙織は迷うことなく、確定のアイコンを押し込んだ。
ゴゴゴ……と、壁の奥から重いモーター音が響き始める。
内部の培養ポッドから、レールの上を滑って「それ」が運ばれてくる音。
シューッという白い滅菌スチームがハッチの隙間から噴き出し、冷たい金属の扉がゆっくりと上方へせり上がっていく。
スチームの向こう側。
保温シートの上に、透き通るような白い肌をした、金色の柔らかな産毛を持つ赤ん坊が横たわっていた。
泣いていなかった。
神経調整の成果か、その子はただ静かに、ガラス玉のように澄んだ青い瞳をパチパチと瞬かせ、沙織を見つめていた。
「……あ」
沙織の口元が、歓喜に歪んだ。
完璧だ。
人形のようだった。傷ひとつない、汚れひとつない、私のための最高傑作。
ハッチの中に両手を差し入れ、その小さな身体を持ち上げる。
三十七度の体温が、手のひらに伝わってくる。
だが、沙織の心には、その温もりは届かない。
沙織が見ているのは、赤ん坊の命ではなく、明日この子を抱いて撮影する写真の構図であり、SNSに寄せられるであろう無数の「いいね!」の数字だけだった。
「可愛い……私の、完璧な赤ちゃん……」
沙織は赤ん坊を抱きしめた。
けれど、腕の中の赤ん坊は、抱きしめ返してはくれない。
ただ冷たい青い瞳で、母の顔を虚ろに映しているだけだった。
ふと、沙織の脳裏を、黒い疑念がかすめた。
――もし、この子が大きくなって、言うことを聞かなかったら?
――もし、この完璧な青い瞳の奥に、私の気に入らない性格が芽生えたら?
――もし、この子が「失敗作」だったら……?
ぞくりと、背筋に冷たいものが走る。
腕の中の温もりを抱きしめながら、沙織の指先は、すでにコートのポケットの中のスマートフォンを探していた。
いつでも次のコードを呼び出せるように。
いつでも次の「引き直し」ができるように。
ブースを出ると、東の空が白み始めていた。
だが、その光は街を温めることなく、ただ白々とコンクリートを照らすだけだった。
青白く光り続ける自販機のブースを背に、沙織は歩き出す。
満たされることのない飢餓感を抱えたまま。
命をすり潰し、魂を削りながら回し続ける、終わりなきガチャの底なし沼のなかへ、さらに深く、深く沈んでいく足音だけが、朝の静寂に響いていた。




