かすがいの糸
ダイニングテーブルの上には、冷めきったグラタンと、床に散らばったパズルのピースが放置されていた。
チクタクと規則正しく時を刻む壁掛け時計の音だけが、息が詰まるほど重苦しいリビングに響いている。
「……もう、疲れたよ」
頭を抱え、掠れた声で呟いたのは慶太だった。デザイン事務所で働く慶太は、普段なら物静かで温厚な性格だ。だが今、その眉間には深い縦ジワが刻まれ、血走った目が虚空を彷徨っている。
向かいのキッチンカウンターに背を向け、腕を組んだまま硬直しているのは、パートナーの隼人だ。大手旅行代理店に勤める隼人は、几帳面で何事も計画通りに進めたい質だった。その唇は一文字に結ばれ、怒りと失望を押し殺すように小刻みに震えている。
寝室からは、激しく泣きじゃくる三歳の娘――ひまりの金切り声が、まだ微かに漏れ聞こえていた。
「どうしてあんなに頑ななんだ。スプーンの持ち方を直そうとしただけじゃないか。それをいきなり皿ごと床に投げつけるなんて、普通じゃないよ」
隼人が背を向けたまま、氷のように冷たい声で言った。
「普通じゃないって言うなよ。ひまりはまだ三歳だぞ。眠かったり、うまく伝えられなかったりしただけだろ」
「三歳だからって何でも許されるわけじゃない。感情のコントロールが効かなすぎるんだ。……やっぱり、慶太の短気なところがそのまま出てるんだよ。普段は大人しいふりをして、追い詰められると全部放り出す、お前の悪い癖にそっくりだ」
慶太の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
「僕のせいにするのか? じゃあ言わせてもらうけど、あの頑固さは誰の遺伝子なんだよ! 融通が利かなくて、自分の思い通りにならないと部屋に閉じこもるあの態度は、隼人そのものじゃないか!」
「お互いの遺伝子のせいにするのはやめよう」と、かつて誓い合ったはずだった。
だが今、二人の口から零れ落ちるのは、互いを最も深く傷つけるナイフのような言葉ばかりだった。
同性婚が法制化され、同性カップルにも異性夫婦と全く同じ法的権利が認められるようになったのは、数年前のことだ。
そして時を同じくして普及した公認生体受取端末――『クレイドル』。
男性同士のカップルであっても、二人の細胞から抽出した遺伝子情報を掛け合わせ、代理母を介することなく、完全に二人の血を引いた実子を授かることができる。
それはかつて、どれほど願っても叶わなかったはずの、夢のような奇跡だった。
あの日、深夜のブースへ二人で足を運び、震える手で申請パネルを操作したときの高揚感を、慶太は今でも鮮明に覚えている。
『両親DNA均等配合(五対五)』を選択し、二人の細胞スキャンを終えたとき、二人は人目も憚らず抱き合って泣いた。
「僕たちの家族ができるんだ」「二人の子どもなんだ」と。
二ヶ月半の培養期間を経て、ハッチから白いおくるみに包まれて現れたひまりを抱き上げた瞬間、世界は祝福に満ちていた。慶太のくっきりとした二重まぶたと、隼人の通った鼻筋を綺麗に受け継いだ小さな天使。
二人は誓ったのだ。誰よりもこの子を愛し、最高の家庭を築こう、と。
だが、現実は冷酷だった。
成長するにつれて、ひまりは「ただ無垢で可愛い天使」ではなく、一人の我の強い人間になっていった。
一歳半を過ぎた頃からの激しいイヤイヤ期。思い通りにならないと床に突っ伏して叫び続ける癇癪。偏食、夜泣き、保育園からの度重なるトラブル報告。
手がかかるたび、二人の心に少しずつ黒い澱が溜まっていった。
「……あの時、情緒安定オプションの課金をケチったからだ」
ある夜、疲れ果てた隼人がポツリと漏らしたその一言が、決定的な亀裂の始まりだった。
クレイドルの申請画面には、無数の追加パラメータが存在していた。「ストレス耐性」「穏やかな気質」「情緒の安定性」。
百万円を超える高額なオプション費用に躊躇した慶太が、「僕たちの遺伝子だけで十分だよ。自然なままの個性を愛そう」と主張し、隼人もそれに同意したはずだった。
しかし、思い通りにいかない育児の現実に直面したとき、その選択は「ケチった後悔」へと反転した。
「あの時、ちゃんと専門のアルゴリズムで気質調整を施しておけば、こんなに苦しむことはなかったんだ」
「何それ……じゃあ、ひまりのこの性格は『設計ミス』だって言いたいわけ?」
「そうは言ってない! ただ、防げたはずの苦労を背負い込んでいると言ってるんだ!」
設計できたはずの命だからこそ、「なぜもっと完璧に作らなかったのか」「どっちの遺伝子に問題があったのか」という不毛な犯人探しが止まらない。
かつて二人を繋ぐ希望の光だったひまりの存在は、いつしかお互いの欠点を映し出し、責め立てるための鏡へと成り果てていた。
会話は事務連絡だけになり、家庭内別居のような冷え切った日々が続いていた。
――そして、運命の歯車が狂ったのは、木枯らしが吹き荒れる真冬の夜だった。
時計の針が深夜一時を回った頃。
リビングで冷たい沈黙に耐えかね、慶太がソファから立ち上がろうとしたその時、寝室からドスンという鈍い物音が響いた。
「……ひまり?」
顔を見合わせる。いつもの夜泣きとは違う、どこか異様な気配だった。
二人は慌てて寝室のドアを開けた。
「ひまりっ!?」
ベッドの脇のフローリングに、ひまりがパジャマ姿のまま倒れ込んでいた。
小さな肩が、不自然なほど激しく上下している。
慶太が駆け寄り、抱き起こした瞬間、手のひらに伝わってきたのは、焼けるような熱気だった。
「熱い……! 隼人、ひまりの身体が燃えるみたいに熱い!」
「嘘だろ……体温計、どこだ!?」
隼人が洗面所へ走り、非接触型の体温計を持って飛び込んできた。ひまりの額にかざす。
ピピッという無機質な電子音とともに表示された数値は――『四十度二分』。
「四十度超えてる……! ひまり、ひまり、分かるか!?」
隼人が名前を呼ぶが、ひまりの瞳は焦点を結ばず、虚ろに天井を彷徨っていた。乾いた唇から、ヒュー、ヒューと苦しげな喘鳴が漏れている。
手足がピクピクと小さく痙攣し始めた。
熱性痙攣だ。
知識としては知っていたが、目の前で愛する我が子が白目を剥き、震えている光景は、二人の理性を一瞬で消し去った。
「救急車だ! 早く!」
「だめだ、夜間の救急センター、冬の感染症で回線がパンクしてる……! 繋がらない!」
スマートフォンを耳に当てた隼人の手が、激しく震えていた。
「僕の車で行こう! 総合病院の夜間小児救急なら、直接行けば診てくれるはずだ!」
慶太はひまりを厚手の毛布でくるみ、胸元に強く抱きしめた。
階段を駆け下り、凍てつく夜気の中へ飛び出す。
車のエンジンをかけ、夜の街をサイレンを鳴らすような勢いで疾走する隼人。後部座席で、慶太はひまりの小さな手を必死に握りしめていた。
「ひまり、大丈夫だからね。お父さんたちここにいるからね……!」
握りしめた小さな手は、驚くほど熱く、そして弱々しかった。
生まれたばかりのあの日、自販機の冷たいハッチから抱き上げたときの、あの「羽のように軽い温もり」がフラッシュバックする。
あの時、胸を満たしていたのは何だった?
遺伝子の比率か? 課金したパラメータの数値か?
違う。
ただ、息をして、この腕の中に存在してくれたこと。
それだけで、涙が出るほど満たされていたはずではなかったのか。
救急外来の処置室にひまりが運び込まれてから、二人は廊下の硬いベンチに並んで座り、ただ祈るように祈り続けた。
白い蛍光灯の下、誰も言葉を発しない。
二人の手のひらは、汗と寒さで冷え切っていた。
一時間後、自動ドアが開き医師が姿を現した。
「……突発性の高熱による痙攣です。インフルエンザのウイルス反応が出ています。点滴で解熱剤と抗ウイルス薬を投与し、痙攣は治まりました。今夜はこのまま入院して様子を見ましょう」
医師のその一言を聞いた瞬間、隼人の膝がガクリと折れ、床に崩れ落ちた。
両手で顔を覆い、しゃくりあげるように泣き始める隼人の肩を、慶太は強く抱き寄せた。
「よかった……よかったよ、隼人……」
「慶太……俺、俺さ……最低だ……」
隼人は涙で指を濡らしながら、途切れ途切れに絞り出した。
「ひまりが言うことを聞かないたびに、遺伝子のせいにして……思い通りにならないからって、オプションをケチったせいにして……。違うよな。そんなの、全部俺たちの傲慢だった。子どもが熱を出して、苦しんで……失いそうになって、やっと分かったよ。スペックなんて、どうでもよかったんだ。ただ、この子が生きていてくれれば……笑って、隣にいてくれれば、それだけでよかったんだよ……」
「僕も同じだよ」
慶太の目からも、温かい涙が溢れ出していた。
「僕も、隼人に甘えて、逃げてた。育児のしんどさを全部隼人のせいにして、ひまりの心と向き合おうとしてなかった。ごめん……本当にごめん」
二人は病院の薄暗い廊下で、固く、固く抱き合った。
お互いの肩に顔を埋め、声を押し殺して涙を流す。
冷え切っていた二人の心の間に、再び血が通い、温かな体温が戻っていくのを感じていた。
翌朝。
病室のカーテンの隙間から、柔らかい冬の朝光が差し込んでいた。
点滴の管を繋がれた小さなベッドの脇で、二人はパイプ椅子に腰掛けひまりの寝顔を見守っていた。
すー、すー、と穏やかな寝息。
額の熱さはすっかり引き、青白かった頬にはほんのりと赤みが差していた。
「……ん……」
小さく身じろぎをして、ひまりのまぶたがゆっくりと開いた。
黒目がちな瞳が、光を眩しそうに細めながら、左右を見回す。
そして、ベッドの両脇にいる二人の顔を捉えた。
「……パパ……、おとーさん……」
掠れた、けれど確かにいつもの、愛らしいひまりの声だった。
「ひまり……!」
慶太と隼人は、同時に身を乗り出した。
「わかるか? 苦しくない? 痛いところはない?」
隼人がひまりの前髪を優しく撫でる。その手つきには、もう苛立ちはなかった。ただただ、愛おしむような、無条件の愛情だけが宿っていた。
ひまりは、二人の泣き腫らした顔を不思議そうに見つめた後、ふにゃりと、花が咲くような笑顔を見せた。
そして、小さな両手を伸ばし、二人の手をそれぞれ、きゅっと握りしめたのだ。
「……パパ、おとーさん、だいすき」
その瞬間、慶太の胸の奥で、何かが音を立てて弾け飛んだ。
涙が視界を遮り、止まらなくなった。
隼人もまた、ひまりの手の甲に何度も口づけを落としながら、子どものようにしゃくりあげていた。
遺伝子のパレットをどう掛け合わせたかなんて、もう関係ない。
誰の血が何パーセント入っているか、どんな才能が設計されているか、そんなものはこの温もりの前では塵に等しかった。
夜泣きに怯え、癇癪に頭を抱え、熱に狼狽し、こうして手を握り合って夜を越える。
その不器用で、思い通りにならない時間の積み重ねこそが、自分たちを「親」にしていくのだ。
ひまりが癇癪を起こすのも、頑固なのも、それは機械のバグではなく、この子が自分の心を持って必死に生きている証だった。
「ひまり……」
慶太は涙でぐしゃぐしゃになった顔で、娘の小さく柔らかい手を頬に当てた。
「生まれてきてくれて、ありがとう。僕たちを……お父さんにしてくれて、本当に、ありがとう」
「うん!」
ひまりは無邪気に笑い、二人の手をぎゅっと握り返した。
病室の窓の外、遥か遠くの交差点には、今日も街を見下ろすように『クレイドル』の無機質なブースが佇んでいる。
誰かにとってはただの便利な自販機であり、誰かにとっては呪縛の箱。
けれど、そこから紡ぎ出された命が、どんな色に染まり、どんな家族になっていくのかを決めるのは、機械のコードではない。
共に涙を流し、共に手を握り合う、人と人との不完全で温かい時間だけだ。
二人の父親に挟まれて笑う少女の笑顔が、朝の光の中で、何よりも眩しく輝いていた。




