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完全なる設計図

 タワーマンションの四十二階、眼下に広がる夜景を見下ろすリビングには、チクタクという時計の秒針の音だけが冷ややかに響いていた。


「朔太郎(さくたろう)、もう一度最初から。どうしてここで引き算の順序を間違えるの?」


 母、美奈子の声は穏やかだった。声を荒らげることは決してない。常に澄んだ発音で、まるでアナウンサーのように整然と言葉を紡ぐ。だが、その静けさこそが、五歳になる息子の朔太郎にとっては、逃げ場のない檻のように感じられた。


 勉強机の上には、名門私立・帝都初等部の過去問をベースにした「知能適性思考力ワーク」のプリントが積み上げられている。

 朔太郎の小さな指は、鉛筆を握りしめたまま強張っていた。筆圧が弱まり、白い紙の上に薄い黒鉛の線が頼りなく揺れる。


「……ごめんなさい、お母さん」

「謝る必要はないのよ、朔太郎。原因を分析して、正しく修正すればいいだけ。あなたのスペックなら、このレベルの図形認識は三秒で処理できるはずなの。もう一回、深呼吸して」


 美奈子は細い指先で、タブレット端末の画面をスワイプした。

 そこには、朔太郎がこの世に生を受けた日に発行された『個体遺伝子仕様証明書(スペックシート)』のデータが常駐している。


【登録個体名:朔太郎】

【遺伝子設計プロトコル:フル・オーダーメイド(両親DNAハイブリッド)】

【知能指数予測値(IQ):145〜155(上位0.1%帯域補正)】

【特定才能パラメータ:論理数学的知能[Rank: S]/言語理解力[Rank: S]/集中持続性[Rank: A+]】

【外見補正:黄金比骨格補正、肌質メラニン制御、低アレルゲン体質付与】


 美奈子と夫の慎太郎は、共に一流のキャリアを歩んできた。外資系投資銀行に勤める慎太郎と、大手IT企業の開発ディレクターを務める美奈子。代々続く名家としての血筋と格式を誇る慎太郎の家系において、跡継ぎである長男に「太郎」の名を継がせることは絶対条件だった。二人が子どもを望んだとき、街角の公認生体受取端末『クレイドル』で「フル・オーダーメイド」を選択したのは、極めて合理的で必然的な投資だった。


 通常の即時受取(バンク胚マッチング)を選べば、どんな才能が眠っているか分からない「ブラックボックス」を抱え込むことになる。ましてや、不確定要素の塊である自然妊娠など論外だった。

 二人は二ヶ月以上の培養期間を待ち、自分たちの優秀な遺伝子をベースに、最高峰の追加課金オプションをこれでもかと盛り込んだ。知能、集中力、論理的思考、健康美。提示された数百万円のオプション費用など、名門の看板を背負う息子の将来の期待値に比べれば些細な初期投資に過ぎなかった。


 無菌ポッドから引き取ったその日から、美奈子の「最適化育成プログラム」は始まった。


 普通の親のように、ガラガラを振ったり、他愛のない赤ちゃん言葉で話しかけたりはしなかった。ベッドメリーの代わりに多言語の音素を聞かせる特殊音響スピーカーを設置し、視覚刺激には原色の知育幾何学カードを用いた。

 一歳半でタブレット端末によるプログラミングパズルを与え、二歳を迎える頃にはネイティブ講師による英語と中国語のバイリンガル・レッスンを毎日スケジュールに組み込んだ。


「朔太郎は特別だから。慎太郎さんの優秀な血と、私の血、そして科学の粋を集めて生まれた完璧な跡継ぎなんだから」


 それが、美奈子のかける日常の呪文だった。

 朔太郎もまた、期待に応えようと必死だった。二歳の頃にはアルファベットと数字をマスターし、三歳で簡単な絵本を音読して見せた。幼児教室の知能テストでは常に最上位クラス。教室の講師たちも「さすがクレイドルのプレミアム設計ですね」と美奈子を賞賛した。


 けれど――四歳を過ぎ、小学校受験の本格的なペーパー指導が始まった頃から、歯車がわずかに、けれど確実に軋み始めた。


「……わかんない」


 ぽつりと、朔太郎の口から小さな声が漏れた。

 プリントに描かれたサイコロの展開図。頭の中でそれを立体に組み立て、反対側の面のドットの数を答える問題。

 普段なら解けるはずの問いだった。だが、美奈子の冷徹な視線が頭上から注がれていると思うだけで、朔太郎の脳内は真っ白になり、サイコロの面がバラバラに散らばって見えなくなる。


「わからない、じゃないのよ。朔太郎、あなたの前頭葉パラメータは空間把握に特化して調整されているの。仕様書を見てごらんなさい」

 美奈子は朔太郎の目の前にタブレットを突きつけた。

 画面には、青いグラフで美しく描かれたレーダーチャートが光っている。

「ほら、ここの数値が『S』でしょう? お父様もお母様も、数字や構造の把握で誰にも負けたことはないの。その二人のDNAを完璧に最適化して組み込んだのが、あなたなのよ。解けないはずがないの。解けないのは、あなたの努力と集中が足りないからよ」


「……ぼく、集中、してるよ」

「集中している子の鉛筆の動きじゃないわ。もう三分も同じページで止まっている。今日のノルマが終わらなければ、睡眠時間が削られて成長ホルモンの分泌リズムが狂ってしまうのよ? それがどれだけ脳の発達に損失をもたらすか、前に教えたわよね」


 朔太郎の喉の奥がきゅうと縮こまった。

 胸が苦しい。胃のあたりがキリキリと痛み、冷たい汗が背中を伝う。

 鉛筆を握る指先が震え、カチカチと机を小さく叩いた。


「指を動かさないで。無駄なチック運動は思考のノイズになるわ」

「……はい」


 朔太郎は涙を必死にこらえた。泣けば「感情制御パラメータの乱れ」として、さらに説教が長引くことを知っていたからだ。


 深夜、仕事から帰宅した慎太郎が、リビングに入ってきた。高級スーツのネクタイを緩めながら、机の上に広げられたプリントを一瞥する。

「美奈子、進捗はどうだ?」

「予定より一時間遅れているわ。今日の立体図形、正答率が七割を切っているの。ケアレスミスが目立つわね」

 慎太郎は眉をひそめ、朔太郎の頭を無造作に撫でた。その手つきは、我が子を慈しむというより、調子の悪い精密機械の天板を確かめるかのように事務的だった。


「朔太郎。帝都初等部の倍率は今年、過去最高になる見込みだ。ペーパーで満点を取るのは前提条件なんだよ。我が家の名に泥を塗るような結果は許されない。合格者の大半は、同じようにクレイドルの特注パラメータを持った子どもたちだ。生まれ持ったアドバンテージがあるのに、実行力で負けてどうするんだ」

「……うん」

「仕様書通りのパフォーマンスを発揮しなさい。君にはそれができる能力が、最初からインストールされているんだから」


 最初から、インストールされている。

 その言葉を聞くたびに、朔太郎の心は鉛のように重くなった。


 できるのが当たり前。

 解けても褒められない。それは「仕様書の通りに動いただけ」だから。

 そして、解けなければ「不良品」「努力不足」「期待の裏切り」と見なされる。


 朔太郎の世界には、「頑張ったね」という言葉は存在しなかった。

 あるのは「仕様通りの達成」か、「想定外のエラー」の二択だけだった。


 秋が深まり、受験本番まであと一ヶ月に迫ったある土曜日。大手進学塾による最後の大規模公開模試が行われた。

 試験会場となった私立小学校の門の前には、仕立ての良い紺色のスーツに身を包んだ両親と、お行儀よく手を繋いだ幼児たちが長蛇の列を作っていた。

 どの親の表情にも、異様な緊張と選民思想が滲み出ている。彼らの多くが、朔太郎と同じように街角の無人ブースで高額な課金を施され、選び抜かれた「特注の命」だった。


「朔太郎、リラックスして、いつも通り処理しなさい」

 会場に入る直前、美奈子は朔太郎の襟元を正しながら、耳元で囁いた。

「あなたのIQは百五十。ここにいる誰よりも高い設計値よ。自分を信じるんじゃないの。あなたの身体に組み込まれた、最高峰の遺伝子を信じなさい」


 朔太郎は何も言えず、ただ小さく頷いて、試験室へと向かう列に足を踏み入れた。


 試験室には、等間隔に並べられた小さな机と椅子。

 試験監督の合図とともに、問題用紙が配られた。


『初め』のブザーが鳴る。

 ペラリと紙をめくる音が、部屋中に一斉に響き渡った。


 朔太郎は鉛筆を握った。

 大問の一。仲間外れの絵を選ぶ問題。簡単だ。一秒で解ける。

 大問の二。しりとり迷路。これも大丈夫。

 だが――大問の三、重さの推理問題に入ったときだった。


 シーソーの図が三つ並んでいる。ウサギとタヌキ、タヌキとキツネ、キツネとクマ。どれが一番重いかを推理する問題。

 その瞬間、朔太郎の視界がぐにゃりと歪んだ。


(……あれ?)


 ウサギの絵の輪郭が、二重にブレて見える。

 耳の奥で、ドクドクと激しい心拍音が鳴り響き始めた。息が吸えない。胸を分厚い鉄板で押し潰されたような圧迫感が襲う。

(解かなきゃ……早く解かないと、お母さんのスケジュールが狂っちゃう。僕のIQは百五十なんだ。解けないはずがないのに……)


 焦れば焦るほど、頭の中の霧は濃くなっていった。

 シーソーの傾きが、右なのか左なのか判別できない。文字が意味を持った言葉として脳に入ってこない。

 鉛筆を持つ右手が激しく痙攣し、指先から感覚が消えていく。


 ポト、と白い問題用紙の上に、丸い染みが広がった。

 朔太郎は自分の頬に手を当てた。冷たい涙が、止めどなく溢れ出していた。

(どうして? なんでできないの? ぼくは、お父さんとお母さんのすごい血が入ってるのに。高いお金を払って、上手に作ってもらったはずなのに……)


「残り、五分です」

 試験監督の無機質な声が響いた。

 周りの子どもたちが、カリカリと軽快な音を立てて鉛筆を走らせている。

 その音が、朔太郎には無数の嘲笑のように聞こえた。

 お前はバグだ。お前はエラーだ。仕様書通りに動けない、役立たずの壊れた機械だ。


 朔太郎の手から、ポロリと鉛筆が転がり落ちた。

 拾おうと思ったが朔太郎は動けなくなった。

 頭を机に突っ伏し、小さく震える。

 頭のてっぺんから足の先まで、自分という存在が空っぽになっていく感覚。

 僕の中には、何もない。

 お父さんの遺伝子も、お母さんの期待も、自販機の高価なオプションも、全部僕を通り抜けて消えていく。

 僕は、朔太郎じゃない。ただの、出来損ないのプログラムだ――。


 試験終了後、タワーマンションのリビングの空気は、氷点下まで凍りついていた。

「……パニック発作?」

 美奈子の口から、信じられないものを見るような声が漏れた。

「試験の途中で過呼吸になったって……どういうことなの、朔太郎。あなたの気質パラメータには『ストレス耐性:高水準』『情緒安定度:最適化』が施されていたはずよ。数十万のオプションよ? どうして本番のプレッシャーごときに負けるの?」


 朔太郎はリビングの隅、絨毯の上に正座したまま、俯いて床の木目を見つめていた。

 もう涙も出なかった。ただ、自分の身体がひどく汚れて、壊れてしまったような感覚だけがあった。


「美奈子、クレイドルのサポートセンターに問い合わせた方がいいんじゃないか」

 傍らに立っていた慎太郎が、冷たい声で言った。

「初期不良の可能性がある。遺伝子シークエンスのエラーか、あるいは培養プロセスの段階で何らかのニューロン異常が生じたのかもしれない」


「そうね……そうよ。朔太郎自身に問題があるわけがないもの。私たちが選んだパラメータに欠陥があるはずがない。ハードウェアか、初期設定のバグだわ」


 二人の会話が、朔太郎の頭上を通り過ぎていく。

 初期不良。

 エラー。

 バグ。


 朔太郎は自分の小さな手のひらを見つめた。

 爪の形も、皮膚のきめ細やかさも、親の望み通りに美しく設計された手。

 でも、その皮膚の下を流れている血は、本当に僕のものなんだろうか。

 熱を出したときに冷やしてくれたおでこも、夜遅くまで問題を解き続けた指先も、全部「機械の設定」でしかなかったのだろうか。


「……ごめんなさい」

 朔太郎は掠れた声で、もう何度目になるか分からない言葉を口にした。

「僕が……壊れてて、ごめんなさい……」


 美奈子は朔太郎の謝罪に答えることなく、苛立ったように画面をタップし続けていた。

「明日の朝一番で、大学病院の生体メンテナンス外来を予約するわ。脳波と遺伝子発現パターンを再スキャンしてもらいましょう。まだ本番まで三週間ある。再調整すれば、間に合うかもしれない」


 朔太郎は静かに目を閉じた。

 窓の外には、遠くの街角で青白く発光する自販機のブースが見えていた。

 あそこに行けば、僕の頭の中を修理してくれるのだろうか。

 それとも、あのブースの横にあるという「リサイクルポスト」に、僕のような壊れた子どもを放り込んで、また新しい、今度こそ完璧な「朔太郎」を買い直すのだろうか。


 夜の闇の中、朔太郎は小さく身を縮めた。

 どれだけ目を凝らしても、自分の輪郭はどこにも見えなかった。

 ただ完璧な設計図の影だけが、幼い魂を黒々と押し潰していた。

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