野蛮なゆりかご
洗面台の鏡の前に立ち、結衣は恐る恐る部屋着のワンピースをたくし上げた。
鏡に映る自分の横腹は、わずかに、けれど確かに前へと丸みを帯び始めていた。妊娠四ヶ月。手のひらをそっと当てると、皮膚を通して自分とは異なる微かな拍動と、じんわりとした確かな温もりが伝わってくる。
「……赤ちゃん」
結衣の唇から、自然と柔らかな笑みがこぼれた。
このお腹の中に、自分と夫の拓海の愛の結晶が生きている。つわりで吐き気に耐える朝も、めまいに襲われる午後も、この温もりを感じるだけで「私は今、新しい命を育んでいるんだ」という誇らしさが胸を満たした。
結衣の母親も、祖母も、そのずっと前の先祖たちも、そうやってお腹を痛めて子を産んできたのだ。母は昔、幼い結衣の頭を撫でながらよく言っていた。「お腹の中で一緒に過ごして、陣痛の苦しみを乗り越えて産んだからこそ、我が子は目に入れても痛くないほど愛おしいのよ」と。
だから、結婚して子どもを望んだとき、街角の「赤ちゃん自販機」を利用するという選択肢は、結衣の中には最初から存在しなかった。
自販機――公認生体受取端末『クレイドル』が普及して久しい。
今や世間の八割以上の家庭が、無菌ポッドで加速培養された「規格品」の赤ん坊を予約・購入するのが当たり前の時代だった。
だが、結衣にはどうしても納得がいかなかった。機械のボタンを押し、無菌室からスチームとともに出てくるプラスチック包みの命。それはあまりにも合理的で、あまりにも冷たく見えた。命とは、そんなインスタントなものではないはずだ。身体を通して、痛みや重みを感じながら迎えるからこそ、親としての覚悟と本当の愛情が芽生えるのではないか。
夫の拓海も、最初は「母体に負担がないなら自販機の方が安全なんじゃないか」と躊躇していたが、結衣の強い想いに根負けし、「結衣がそうしたいなら、二人で頑張ろう」と受け入れてくれた。
だが――その「自然で当たり前」だったはずの選択が、現代社会においてどれほど異常なものとして扱われるか、当時の結衣はまだ本当の意味で理解していなかった。
不協和音が鳴り始めたのは、妊娠五ヶ月に入り、安定期を迎えた頃だった。
夫の実家へ妊娠報告に向かった日のことだ。
義母の澄江は、リビングのテーブルでお茶を一口すすると、目を丸くして結衣の腹部を凝視した。
「……結衣さん、それ、本気? 自然妊娠だなんて」
「はい、お義母さん。おかげさまで経過も順調で……」
「順調って、あなたねえ!」
澄江は甲高い声を上げ、湯呑みをガタリと置いた。
「今どき、お腹を痛めて産むなんて、発展途上国の話か時代劇の再現か何かですか? 何を考えているの! クレイドルを使えば、先天性疾患のリスクも遺伝子エラーも全部ゼロにできるのよ? 拓海の従姉妹だって、去年クレイドルで気質も穏やかな可愛い男の子を授かったばかりよ。なのに、わざわざ自分のお腹で……もし何か病気を持って生まれてきたらどうするつもりなの!?」
「病気だなんて……ちゃんと定期検診も受けますし、昔の人はみんなこうして……」
「昔は昔、今は今よ!」
澄江は眉間を吊り上げ、息子である拓海に鋭い視線を向けた。
「拓海、あなたもどうして止めなかったの! 妻の時代遅れなロマンに付き合って、生まれてくる子に障害のリスクを背負わせるなんて、親のエゴ、虐待予備軍と同じよ!」
虐待。
その冷酷な二文字が、結衣の鼓膜を容赦なく引き裂いた。
伝統的で、愛に満ちた選択をしようとしているはずの自分が、なぜ「虐待」などと罵られなければならないのか。拓海がおろおろと「母さん、言い過ぎだよ」と間に入ったが、義母の冷え切った軽蔑の眼差しは、最後まで結衣の身体から離れなかった。
孤立は、家族の中だけにとどまらなかった。
日を追うごとに、社会全体の「目」が結衣を締め付け始めた。
以前、定期検診のために産婦人科を探そうとしたときのことだ。
かつて街に溢れていた個人クリニックの看板は、そのほとんどが「生体受取前相談窓口」や「遺伝子カウンセリングセンター」へと看板を掛け替えていた。
自然分娩を取り扱っている病院は極端に減少し、車で一時間以上かかる大学病院へ問い合わせても、電話口の受付はあからさまに困惑した声を出した。
『あー……自然妊娠の母胎受け入れですか? 現在、当院の生体分娩ベッドは感染症隔離病棟を兼ねておりまして、空きがございません。他を当たっていただけますか』
「あの、でも、近くに産科がここしかなくて……!」
『申し訳ありませんが、当院でも自然分娩は年間数件しか扱っておらず、予期せぬ母胎急変や新生児ショックのリスクに対応できる医師が限られているんです。クレイドルの医療的配給への切り替えはお考えではないのですか? 今からでも中絶および細胞抽出を行えば、安全な規格個体として――』
「結構です!」
結衣は震える手で通話画面を切った。
中絶して、細胞を取り出して、機械で作り直せというのか。今、私のお腹の中で心臓を動かしているこの子を殺して、代わりの「綺麗な製品」を受け取れと?
どうして。どうしてこんなことを言われなければならないのか。
頼みの綱だった妊婦健診を受けられる小さな個人医院をやっと見つけたものの、担当の老医師は重い溜息をつきながら言った。
「お母さん、覚悟はできてるのかね。世間は今、自然分娩を『無責任な賭け』と見なす。母体死亡率も、胎児の脳性麻痺のリスクも、自販機製ならゼロだ。それをわざわざ選ぶということは、周囲の批判を一身に浴びるということだよ」
病院の帰り道、電車に乗った結衣は、コートの前を固く閉じた。
マタニティマークのチャームをバッグにつけている妊婦など、車内には一人もいない。
数年前までは「配慮の象徴」だったそのピンクのマークは、今や「私はリスク管理を怠り、原始的な方法で胎児を危険に晒しています」という告発の標識に成り果てていた。
席に座っていた若い女性が、結衣の膨らんだお腹とマタニティマークに気づいた瞬間、露骨に顔を顰めて席を立ち、別の車両へと移っていった。
つり革に掴まるスーツ姿の男性が、小声で隣の同僚に囁くのが聞こえる。
「見ろよ、まだあんな自然派の狂信者がいるぜ」
「感染症とか持ってたらどうすんだよ、電車に乗るなよな」
「自己満足で子どもに苦労させるつもりかよ」
ヒソヒソという嘲笑と冷たい視線が、無数の針となって結衣の肌を刺す。
結衣は逃げるように次の駅で降り、ホームのベンチでうずくまった。
スマートフォンを開く指が震える。
すがるような思いで、SNSの検索バーに『自然妊娠』『自然分娩』と打ち込んだ。
自分と同じように、命の温もりを信じて頑張っている仲間がいるはずだ。励まし合える誰かがいるはずだ。
だが、画面を埋め尽くしたのは、想像を絶する悪意の奔流だった。
『自然妊娠信者って本当に害悪。自分が「痛みに耐えて偉い」って酔いたいだけでしょ』
『遺伝子検査もパスしてないガチャ産出児とか、将来犯罪者になったらどう責任取るわけ?』
『未認証自然産出個体には、公的医療保険を適用すべきじゃない。税金の無駄遣い』
『痛みを経験しないと愛せないなんて、親として欠陥がある証拠。自販機で迎えた子をどれだけ愛してるか、侮辱しないでほしい』
「違う……そんなんじゃない……」
スマートフォンの画面に、ポタポタと涙が落ちた。
誰かを侮辱したいわけじゃない。自販機で授かった人を否定したいわけでもない。
ただ、自分がこの身体で、この命を温めて産みたいと願っただけだ。
母が私を愛してくれたように、私もこの子を命がけで愛したいと思っただけなのに。
「私、悪いことしてないよね……? どうして……どうしてこんな風に言われなきゃいけないの……?」
声に出して呟いた瞬間、お腹の奥で、ポコッと小さな気泡が弾けるような感覚があった。
結衣は息を呑んだ。
お腹の上に、震える両手を重ねる。
もう一度、今度ははっきりと、内側から小さな足で蹴られるような感触が手のひらを押し返した。
胎動だ。
初めて感じる、我が子の動き。
「ここにいるよ」「私、生きてるよ」と、外の世界の罵倒をかき消すように、小さな命が確かにそこで叫んでいた。
涙が止まらなくなっていた。
けれど、今度の涙は、恐怖や悔しさの涙ではなかった。
世間が何と言おうと、機械がどれほど完璧な命を約束しようと――今、私の腹の中で手足を伸ばし、私の血を分け合って生きているこの子の体温は、絶対に嘘じゃない。
帰宅後、リビングで頭を抱える結衣の前に、仕事から帰った拓海が駆け寄ってきた。
「結衣、大丈夫か? 顔色がすごく悪い……やっぱり、身体に無理があるんじゃないか? 今からでも、市立病院の生体培養センターに相談すれば――」
「拓海」
結衣は夫の言葉を遮り、彼の冷たい手をぎゅっと握って、自分の丸いお腹の上に当てた。
拓海が目を見開く。
その手のひらの下で、トクン、と力強い胎動が跳ねた。
「動いた……?」
「うん。この子、生きてるの。ずっと、私の中で息づいてるの」
結衣は涙で滲む視界のまま、夫の目を真っ直ぐに見つめた。
「世間からは狂ってるって言われるかもしれない。お義母さんにも縁を切られるかもしれない。病院も見つからなくて、苦しい思いをするかもしれない。……でもね、私、この子を産みたい。この手で、お腹を痛めて、絶対に産み落としたいの。私のエゴだって罵られてもいい。この命を諦めることなんて、私には絶対にできないよ」
拓海はしばらくの間、お腹の感触を確かめるように動かずにいた。
やがて、その目から一筋の涙がこぼれ落ち、拓海は結衣のお腹にそっと額を押し当てた。
「……ごめん、結衣。俺、周りの目ばっかり気にしてた。……二人で、この子を育てよう。何があっても、俺が二人を守るから」
窓の外では、遠くの交差点にある公認生体受取端末の青白いLEDが、冷たく夜の街を照らしている。
清潔で、安全で、誰も傷つかない完璧な世界。
その規格化された光の片隅で、結衣はお腹を両手でしっかりと抱きかかえた。
これから先、どれほどの痛みが待っているか分からない。陣痛の激痛も、社会の冷酷な差別も、すべてはこの身体一つで受け止めなければならない。
それでも――結衣の心には、もう一片の迷いもなかった。
お腹の中の温もりを信じて、母になるための険しい道を、結衣は歩き始めていた。




