ガラス越しの祈り
下腹部を締めつける鈍い痛みとともに、ショーツを赤黒く染めたあの感覚。
トイレの個室でそれを見つめた瞬間、頭の芯がスーッと冷え切っていくのを麻衣子は感じていた。
「……今回も、着床しませんでしたね。血液検査のhCG値も、検出限界以下です」
昼間に訪れたレディースクリニックの診察室。医師の機械的で、どこか事務的な声音が耳の奥で反芻される。淡々と差し出された検査結果の端末画面には、残酷なまでに平坦なゼロの数値が並んでいた。もう何度、この無機質なグラフを見つめてきただろう。慰めの言葉すら使い古され、診察室の空気はただただ気まずく、重かった。
三十二歳で始めた不妊治療は、気づけば八年が過ぎていた。
タイミング法から人工授精を何度も繰り返し、体外受精へ進み、顕微授精へとステップアップした。排卵誘発剤の副作用で幾度となく激しい吐き気に襲われ、ホルモン剤の影響で身体は重く鉛のように沈み、採卵の針が子宮頸部を貫く激痛には毎回奥歯が砕けるほど耐えた。通帳の残高は数百万円単位で消え去り、夫婦の会話からはいつしか冗談や他愛のない笑い声が消え、カレンダーは基礎体温の折れ線グラフと通院日のマークだけで埋め尽くされていった。
特別養子縁組の道も、もちろん考えた。相談窓口へ何度も足を運んだ。だが、超少子化が極限まで進んだこの社会では、そもそも手放される子ども自体の数が絶対的に不足していた。登録しても審査待ちの夫婦が列をなし、いつ順番が回ってくるかすら分からない。「五年、あるいは十年お待ちいただくことになります」と申し訳なさそうに告げられたあの日の絶望が、麻衣子の脳裏に焼き付いて離れない。子どもが欲しいと願う人間にとって、十年という時間はあまりにも残酷で、長すぎた。
薄暗いリビングのソファで膝を抱えていた麻衣子の背中に、夫の康介がそっと手を置いた。
その手のひらは優しかったが、どこか疲れ切って冷たかった。
「……麻衣子、もういいよ。もう、やめよう」
「でも……あと一回だけ。凍結胚が、まだ一つ残ってるの。グレードは低いけど、可能性はゼロじゃないって……」
「麻衣子の身体が持たないよ」
康介の声はかすれ、かすかに震えていた。
「毎晩泣いて、薬のせいでまともに眠れなくて……もう、君が壊れていくのを見ていられないんだ。子どもがいなくたって、二人で生きていける。そうだろう?」
二人で生きていく。その言葉がどれほど理性的で、自分を思いやってくれたものか分かっていた。
けれど、麻衣子の胸の奥底に空いた巨大な空洞は、そんな理性的な言葉では一ミリも埋まらなかった。街ですれ違うベビーカーの車輪の音、夕暮れのスーパーで子どもの手を引く母親の横顔、テレビから流れる紙オムツのコマーシャル――そのすべてが、麻衣子の心臓に無数のガラス片を突き立てていくのだ。
私は、誰の母親にもなれない。私の身体は、命を宿すことすらできない欠陥品なのだと、世界中から宣告されているようだった。
その夜、ベッドに入っても一睡もできず、麻衣子は暗闇の中でスマートフォンの画面をスクロールしていた。
青白い光が、涙で腫れ上がった瞳を照らす。
タイムラインに流れてきたのは、同世代の有名モデルの投稿だった。
純白のリネンに包まれた小さな赤ん坊を抱き、柔らかく微笑む彼女の写真。その下には、洗練されたフォントでこう綴られていた。
『私たち夫婦のもとに、天使がやってきてくれました。長いトンネルの先にあったのは、温かな光でした。#クレイドル #公認生体受取 #新しい家族のカタチ』
コメント欄は祝福の声で溢れかえっていた。
「おめでとうございます!」
「これからはこれが当たり前の時代ですね」
「母体に負担をかけない賢明な選択」――。
『公認生体受取端末』。
超少子高齢化によって国家存続の危機に瀕した政府が、国内最大の製薬企業と帝都大学医学部先端生殖工学研究所と合同で開発した、最先端の人工子宮インフラ。
街の医療ステーションの一角に突如として現れたその無機質なブースを、世間の人々は半ば畏怖を込め、半ば親しみを込めて「赤ちゃん自販機」と呼んでいた。
「……自販機、か」
麻衣子は乾いた唇から独り言を漏らした。
最初にニュースで見たときは、身の毛がよだつような嫌悪感を覚えたものだ。機械から子どもを買うなんて狂気の沙汰だ、命への冒涜だ、と。
だが、今やどうだ。
自然妊娠は「予測不能な遺伝病のリスクを抱え、母体に重大な損傷を与える前時代的で野蛮な行為」と見なされ始め、公的機関が遺伝子スクリーニングを施し、完全無菌の培養ポッドで育てる「端末受取」こそが、最も安全で進歩的な選択だと喧伝されている。加速培養技術により、十月十日を要した胎児の成長プロセスすら、わずか数週間のサイクルへ短縮可能となった時代なのだ。
なにより、写真の赤ん坊は、紛れもなく生きていた。
柔らかそうな頬、透き通るような肌、ギュッと握られた小さな拳。
自販機だろうと、何だろうと――あそこにいるのは、確かに「人間」なのだ。
翌日の夜、麻衣子は夕食の片付けを終えた康介に、スマートフォンの画面を差し出した。
康介は眉をひそめ、無言で画面を見つめた。
「……本気なのか?」
「本気よ」
麻衣子の声は掠れていたが、これ以上ないほど澄んでいた。
「もう一年も、二年も、先の見えない痛みに耐えるのは無理。養子の順番だって、いつになるか分からない。でもね、諦めることもできないの。お願い、康介。一度だけでいいから、あそこに行ってみない? 見るだけでもいいの。お願いだから」
康介は長い沈黙の後、深く息を吐き出し、ぽつりと呟いた。
「……分かった。行ってみよう」
二人が家を出たのは、日付が変わった深夜二時を回った頃だった。
昼間の人目を避けるように、二人は深く帽子を被り、足早に人気のない夜道を歩いた。
目的地は、駅前の総合医療センターの裏手にある、第二種公認生体受取ステーション。
街灯の届かない路地の突き当たりに、それは静かに佇んでいた。
すりガラスで覆われた、四角いキューブ状のブース。大きさは、かつて街中にあった証明写真機や、無人のATMコーナーを一回り大きくした程度だ。
天頂部にある細いスリットから、淡いブルーのLEDが漏れ、アスファルトの上に冷たい四角い光を落としている。
ブースの正面には、銀色のプレートで刻印されていた。
【厚生労働省公認・第104号 生体受取端末(Cradle-Unit 09)】
「……本当に、こんなところにあるんだな」
康介が小声で呟く。吐き出す白い息が、夜気に溶けて消えた。
近づくと、センサーが反応したのか、シュッと音を立ててすりガラスのスライドドアが横に開いた。
二人は顔を見合わせ、躊躇いながらも一歩、その空間へと足を踏み入れた。
ドアが閉まると、外の走行音や風の音が完全に遮断された。
室内は徹底的に無機質で、清潔な消毒液の匂いがかすかに漂っている。正面の壁には巨大な高精細タッチパネルが埋め込まれており、その下には両手を入れるための二つの凹みと、何重にもロックされた重厚な金属製のハッチが備え付けられていた。
『ようこそ、クレイドル・ステーションへ。生体個体識別チップをスキャンします。右耳の後ろをセンサーへ近づけてください』
天井のスピーカーから、耳障りの良い、合成された女性の声が流れた。
国民全員の側頭部、頭骨の付け根に埋め込まれている皮下生体IDチップ。物理的なカードなどとうの昔に消え去り、行政手続きも決済も、すべてこの体内の微小チップひとつで管理されている。
壁面の円形スキャナーへ、康介が先に右耳の裏をかざした。ピッと静かな電子音が鳴る。
続いて麻衣子も同じように首を傾け、耳の後ろを青い光に晒した。
『パートナーシップを確認しました。続いて、遺伝子データの照合、ならびに基礎細胞スキャンを行います。左右のスロットに、それぞれの手のひらをセットしてください』
凹みの奥が青く光った。
麻衣子は右手を、康介は左手を差し入れる。
ひやりとした金属の感触。次の瞬間、チクッとした鋭い痛みが指先に走り、微小なニードルが皮膚組織を直接採取したことが分かった。
心臓が早鐘を打つ。本当に自分たちは今、命を作り出そうとしているのか。こんな、駅前の自販機でジュースのボタンを押すような軽さで。
パッと画面が切り替わり、二つの選択肢が現れた。
【A:フル・オーダーメイドプロトコル(受取予定日:約2〜3ヶ月後)】
※両親のDNAを抽出し、先端受精・加速培養ポッドにて育成します。容姿・気質・特定才能パラメータのカスタマイズが可能です。
【B:公認マッチング・即時受取プロトコル(即日受取可能)】
※国家生殖バンクに登録された受精胚より、すでに満期培養を完了した個体をマッチングします。両親の血液型、身体的特徴、生体リズムの親和性をアルゴリズムが瞬時に算出し、最も自然な血縁関係に近い適合体を直ちに配給します。
麻衣子は目を見張った。
加速培養とはいえ、自分たちの遺伝子を掛け合わせて一から育てる場合は二、三ヶ月待つ必要がある。
そして、その下にある文字。
「即時、受取……?」
「今すぐってことか……? 嘘だろ、そんなの……作り置きの在庫ってことじゃないか」
康介の声に恐怖が混じる。
そうだ。いくら科学が進歩したとはいえ、人間がそんなインスタント食品のように用意されているはずがない。
だが、二〜三ヶ月という時間すら、麻衣子の心には重くのしかかった。またあの期待と不安の入り混じった夜を何十日も過ごすのか? もし途中で何かのエラーが起きたら?
何より、自分たちの遺伝子が入っていなければいけない理由が、今の麻衣子には見出せなかった。
八年の不妊治療と、先の見えない養子縁組の順番待ちで削り取られた麻衣子が求めていたのは、高尚な血統の証明ではない。
ただ、この空っぽの腕の中に、温かい命を抱きしめたい。その一心だけだった。
普通でいい。金髪碧眼の美しい人形のような容姿も、絶対音感も、天才的な頭脳もいらない。ただ、普通に泣いて、普通にお腹を空かせて、普通に生きている、温かい赤ちゃんが欲しい。
「康介」
麻衣子は夫の腕にすがりついた。
「私、Bがいい。もう待てない……。お願い」
「麻衣子、でも……誰の遺伝子かも分からないんだぞ? 本当に大丈夫なのか?」
「私たちが育てるの。私たちが抱っこして、ミルクをあげて、名前をつけて、愛するの。そしたら、誰がなんと言おうと、私たちの子どもじゃない! そうでしょう!?」
麻衣子の目から大粒の涙が溢れた。
その切実な叫びを前にして、康介はもう何も言えなかった。妻がどれほどの暗闇を歩んできたかを、誰よりも知っていたからだ。
「……分かった。Bにしよう」
康介の指が、画面の【B】に触れた。
『公認マッチング・即時受取プロトコルが選択されました。両親の生体データを基に、最適適合体を検索中……』
画面の中央で幾何学的な模様が回転する。
十秒。二十秒。三十秒。
心臓の鼓動が耳の奥でドクドクと鳴り響く。あまりの静寂に、耳が痛いほどだった。
こんな機械の中に、本当に赤ん坊がいるのか? 何かの詐欺じゃないのか? それとも、扉が開いたら精巧にできたロボットでも転がり出てくるんじゃないか?
疑念と恐怖が渦を巻き、麻衣子の背中を冷たい汗が伝う。
『マッチング完了。個体識別番号:JP-2026-B-08842。適合率:98.4パーセント。血液型:A型。性別:女児。母胎外培養サイクル:満期完了。健康状態:完全正常』
機械的なアナウンスとともに、画面がパッと暗転した。
そして、壁の内部から、低く重いモーターの駆動音が響き始めた。
ゴゴゴ……と床がわずかに振動する。
内部で何かが運ばれてくる。レールの上を何かが滑り、プシューッと激しいエアの抜ける音が響いた。
二人は思わず後ずさりし、お互いの手を固く握りしめた。
康介の手が、小刻みに震えている。
鳥肌が両腕にびっしりと立ち、呼吸の仕方を忘れてしまいそうだった。
現実感が完全に崩壊していく。ここはどこだ? 私たちは一体、何をしているんだ? 神の領域に土足で踏み込み、とんでもないものを呼び出してしまったのではないか――。
『最終滅菌ならびに保温シーケンス終了。受取ハッチを解放します。安全のため、両手でお迎えください』
カチリ、と硬質な金属音が響いた。
正面の下部にある、横幅五十センチほどの分厚い金属ハッチのロックが外れる。
シューーーーッという音とともに、隙間から冷たい白いスチームが勢いよく吹き出してきた。
スライド式のハッチが、ゆっくりと上方へせり上がっていく。
スチームの霧が晴れていく。
ハッチの奥に現れたのは、真っ白で柔らかな、上質なおくるみだった。
無菌のキルティング素材で丁寧にくるまれたその布包みの中央が、小さく、トクトクと上下している。
「あ……」
麻衣子の喉から、声にならない吐息が漏れた。
おくるみの隙間から、小さな顔が覗いていた。
ほんのり赤みを帯びた肌、頭頂部に生えた柔らかな黒い産毛、固く閉じられたまぶた。
息をしている。
機械のパーツでも、プラスチックの人形でもない。
血管が透けて見えるほど薄い皮膚を持った、紛れもない、生身の赤ん坊だった。
「う……うぁ……」
ハッチの解放によって外気を感じたのか、その小さな口がへの字に曲がった。
そして。
「おぎゃあ……っ、ふぇええ……っ! おぎゃあ、おぎゃあ!」
静まり返ったブースの中に、甲高い、けれど力強い産声が響き渡った。
スピーカーから流れる電子音ではない。空気を震わせ、鼓膜を直接揺らす、本物の命の叫びだった。
麻衣子は吸い寄せられるようにハッチの前へ膝をついた。
両手を伸ばす。指先がガタガタと震えて、触れることすら恐ろしい。
麻衣子は息を詰め、おくるみの下から、まだグラグラと頼りない小さな首の付け根へそっと手を滑り込ませた。もう一方の手でお尻を包み込むように支え、祈るように胸元へ引き寄せる。
「……っ!」
温かかった。
息を呑むほどに。
おくるみの柔らかな布越しに、三十七度近い人間の体温が、手のひらを通してじんわりと全身へ染み渡っていく。
そして、驚くほどに軽かった。
羽のように、ふわりと頼りなく、少しでも力を込めたら消えてしまいそうなほど儚い重み。八年間抱え続けてきたあの鉛のような絶望が嘘のように、その温かな命は、ただ軽やかに、麻衣子の腕の中に収まっていた。
「麻衣子……」
康介が横に崩れ落ち、おくるみに包まれた赤ん坊の顔を覗き込んだ。
その目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちていた。
「人間だ……本当に、僕たちの、赤ちゃんだ……」
赤ん坊は麻衣子の胸元に抱かれると、トクン、トクンと伝わる心音に安心したのか、次第に泣き声を小さくしていった。
そして、おくるみの端からぽふりと出た小さく湿った手が、麻衣子の人差し指をギュッと握りしめたのだ。
吸い付くような、けれど驚くほど力強い温もりだった。
「ああ……あああ……っ!」
麻衣子の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
声を上げて泣いた。
生理が来て絶望した日も、クリニックで陰性を告げられた日も、友人の出産報告を見て黒い嫉妬に狂いそうになった日も、これほど激しく泣いたことはなかった。
なんて、可愛いんだろう。
どこから来たのかも分からない。誰の血を引いているのかも分からない。
金属の機械から、ボタン一つで吐き出された命。
世間はこれを、インスタントな親の我儘だと罵るかもしれない。命の尊厳を捨てた罪人だと指を差すかもしれない。
でも、関係ない。
今、この腕の中で羽のように軽く息づき、私の指を必死に握りしめているこの温もりだけは、神様がくれたどんな奇跡よりも本物だ。
「かわいい……」
麻衣子は涙でぐしゃぐしゃになった顔を、赤ん坊の柔らかい額に押し当てた。ミルクのような、陽だまりのような匂いが鼻腔を満たす。
「生まれてきてくれて、ありがとう……。私たちのもとに来てくれて、本当に、ありがとう……!」
康介が、震える腕で麻衣子と赤ん坊をまとめて抱きしめた。
二人の大人の涙が、純白のリネンにぽたぽたと染みを作っていく。
『受取が正常に完了しました。本端末はこれより十二ヶ月間、再利用が制限されます。お子様の健やかなご成長を心よりお祈り申し上げます』
無機質なアナウンスが流れ、金属のハッチが静かに閉じた。
やがて、すりガラスのスライドドアが開き、深夜の冷たい外気がブースの中へと流れ込んでくる。
二人はおくるみの隙間を整え、冷たい風が入らないよう大切に抱きかかえた。
ブースの外へ出る。
街灯の光が、白い布の隙間から覗く小さな寝顔を優しく照らしていた。
振り返ると、路地の奥で、四角い機械が青白い光を放ちながら、何事もなかったかのように佇んでいる。
「康介、帰りにドラッグストアに行かなきゃ」
おくるみに包まれた我が子を大事そうに抱き直しながら、麻衣子は涙の跡が残る顔いっぱいに、これまでにない眩しい笑顔を咲かせた。
「新生児用のオムツに、ミルクも買わないと。それにお尻拭きもたくさん要るよね。あ、着るものも!オーガニックコットンのやつがいい!」
「ああ、すぐに買って帰ろう。哺乳瓶の消毒ケースもいるな」
康介もスマートフォンを取り出し、画面を見つめながら破顔した。
「あと必要な物……ネットでおもちゃも注文しよう。ガラガラとか、メリーとか……あ、部屋の温度計も買わないと。寒かったらかわいそうだ」
「ふふ、買いすぎじゃない? でも、いいよね。明日届くように、一番早い便で頼もう!」
並んで歩く二人の足取りは、先ほどまでの重苦しさが嘘のように弾んでいた。
深夜の静まり返った住宅街。凍てつくような夜の闇の中、二人の交わす他愛のない声と、胸元にある羽のように軽い温もりだけが、世界中の何よりも確かな光となって、これからの道を照らしていた。




