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性別のない部屋

 三面鏡の前で、真尋(まひろ)はピンと背筋を伸ばし、淡いピンク色のシルクブラウスの第一ボタンを指先で留めた。

 鏡の中に映るのは、誰もが見惚れるほど可憐な少女の姿だ。

 華奢な鎖骨、きめ細かく透き通るような白い肌、ふわりと柔らかく波打つ栗色の巻き髪。


「まあ、真尋。本当に綺麗よ。今夜のパーティー、財閥のご子息たちもきっとあなたから目を離せなくなるわ」


 背後から歩み寄ってきた母・香奈子が、うっとりとした手つきで真尋の肩に手を置いた。その細い指先には、完璧に手入れされた桜色のマニキュアが光っている。


「さすが、私の選んだフルカスタム仕様だわ。骨格の繊細さも、声帯の周波数も、すべて『最上級の女性らしさ』にチューニングしてもらった甲斐があったわ。反抗期もないし、男の子みたいに乱暴な言葉を使うこともない。あなたは私の、完璧な自慢の娘よ」


 母の言葉の端々に滲む甘い毒を、真尋は口元に張り付かせた微笑みで受け流した。

「ありがとう、お母様」


 声帯の周波数。骨格の比率。

 そのすべてが、十七年前、駅前の公認生体受取端末――『クレイドル』のタッチパネルの上で、香奈子の指先ひとつによって決定された数値だった。


 香奈子は代々続く良家の生まれで、「優雅で、庇護欲をそそり、誰もが愛さずにはいられない完璧な令嬢」を喉から手が出るほど欲していた。

 そのためクレイドルで注文された真尋の個体仕様書には、徹底的なジェンダー最適化が施されていた。

 第二次性徴における体毛の発生抑制、エストロゲン分泌バランスの人工的固定、極小の足のサイズ。

 そして何より――『生殖リスクの完全排除』という名目のもと、最初から子宮や卵巣といった内性器の発生プロセスそのものがオミット(切除)されていた。

 月経の苦痛もなく、望まぬ妊娠の恐怖もなく、ただ無菌の美しさを保ち続けるためだけにデザインされた、観賞用の「メス」。


 けれど――香奈子がどれほど金を積み、ホルモンと遺伝子の設計図を塗り固めようとも、その内側に宿る「魂の形」までを意のままにプログラミングすることはできなかった。


「……う、っ」


 母が部屋を出て行き、重いオーク材のドアが閉まった瞬間、真尋は洗面台へ駆け込み、激しく胃液を吐き戻した。

 胸元を掻きむしるようにしてブラウスのボタンを引きちぎる。

 鏡を睨みつける。

 そこにいるのは、誰だ?

 誰の都合で、この滑らかな肌を与えられた?

 誰の願望を満たすために、この甲高い澄んだ声で鳴くように作られた?


 真尋は自分の下腹部に手を当てた。

 そこには何も存在しない。男を証明する器官もなければ、女を定義する内臓もない。

 幼い頃から、真尋はずっと違和感を抱え続けていた。

 母からフリルのついたドレスをあてがわれるたび、皮膚が焼けただれるような窒息感を覚えた。かといって、「勇ましく論理的な少年」になりたいわけでもなかった。

 自分は女ではない。だが、男でもない。


 どちらでもあり、どちらでもない。

 境界線のない、ただ広大な空白。

 けれど、この社会は「性別」というタグのない存在を許さなかった。自販機の画面には【男児】【女児】という二つのアイコンしかなく、母はそのうちの一つを選び、過剰なまでの装飾を施して真尋をこの世に引きずり出したのだ。


「お前は、誰の、何のために生きているんだ?」


 真尋は引き出しの奥から、一本の裁ちばさみを取り出した。

 冷たい鉄の刃。

 鏡の中の自分を見据え、躊躇うことなく、母が毎日丁寧にブローしてくれた栗色の巻き髪の束を掴み、根元からジョキリと切り落とした。


 黒い絨毯の上に、柔らかい髪が音もなく散っていく。

 ジョキ、ジョキ、と刃の鳴る音が、狭い部屋に響き渡る。

 肩まであった髪が、無造作で短い、少年とも少女ともつかない長さに切り揃えられていく。

 続いて、真尋はクローゼットから、通販で密かに買い集めていた男性用の黒いシャツと、胸を平らに潰すための圧迫バンドを取り出した。


 シルクのブラウスを脱ぎ捨てる。

 圧迫バンドを胴体にきつく巻きつける。息が苦しくなるほど締め上げると、わずかに膨らみかけていた胸の起伏が消え、平坦な胸板が現れた。

 その上から、オーバーサイズの黒いシャツを羽織り、ゆったりとしたスラックスに足を通す。


 鏡の前に戻る。

 そこに立っていたのは、もう母の「完璧な娘」ではなかった。

 短く乱れた髪、平らな胸、無駄な装飾を削ぎ落とした、性別の輪郭が溶け去った一人の人間。


 真尋の唇から、生まれて初めて、心からの震えるような息が漏れた。

「……これが、僕だ」

 あるいは、私だ。

 呼び名など何でもよかった。男か女かという二元論の檻から抜け出した瞬間、肺の奥底まで冷たく澄んだ空気が流れ込んできた気がした。


 だが、その平穏は長くは続かなかった。


「真尋、支度は――」


 ノックもなしに開いたドアの隙間から、香奈子が凍りついたように立ち尽くしていた。

 床に散らばる栗色の髪の毛。

 脱ぎ捨てられ、ボタンの千切れたシルクのブラウス。

 そして、黒いシャツを着て短髪になった、我が子の姿。


 香奈子の顔から、血の気がサーッと引いていった。

「……な、に……これ……?」


 震える声。やがて、その瞳が信じられないものを見るような狂気の色に染まる。

「何をしているの、真尋……!? その髪は……その服は、一体なんなの!?」

 香奈子は悲鳴を上げながら部屋へ踏み込み、真尋の腕を乱暴に掴んだ。

「今すぐウィッグをつけなさい! 早く着替えなさい! 今夜は大事なパーティーなのよ!? 私がどれだけの金をかけて、あなたの容姿パラメータを整えたと思っているの! そんな男とも女ともつかない化け物みたいな姿で、人前に出られるわけがないでしょう!」


「化け物……?」

 真尋は母の手を、冷ややかに振り払った。

 その声は、母好みの高音ではなく、喉の奥から絞り出した、低く落ち着いた響きを帯びていた。


「これが、僕だよ。お母様」

「違うわ! あなたは女の子よ! 私が選んだ、最高に愛らしい女の子なの!」

「それはあなたが画面をタップして選んだ、あなたの欲望の形だ!」


 真尋の声が、部屋の空気を切り裂いた。

 香奈子が息を呑み、怯えたように後ずさる。


「僕の身体には子宮も卵巣もない。あなたが『面倒なノイズを消すため』に、機械に切除させたんでしょう?

 子どもを産むこともできない、月経もない、ただあなたの飾り物として綺麗でいるためだけの身体。

 それなのに、どうして『女らしさ』を押し付けるの?

 どうして、僕が息をすることすら、あなたの好みに合わせなきゃいけないんだ!」


「あなたのためを思ってよ!」

 香奈子は叫び、胸元を抑えた。

「自然分娩の野蛮な時代と違って、今は最初から完璧な幸せを選べる時代なの! 愛される性別に、愛される容姿に作ってあげることが、親の愛じゃないの!?」


「愛じゃない」

 真尋は静かに、けれど鋼のように硬い声音で言い放った。

「それはただの、所有欲だ。……僕は、あなたのお人形じゃない」


 真尋はベッドの脇に用意してあったボストンバッグを肩にかけた。

 中には、身分を証明する最低限の端末と、自分で稼いだわずかな電子マネーの残高。

 もう、この部屋には一秒たりとも留まる理由はなかった。


「待ちなさい! どこへ行く気なの!?」

 香奈子がすがりつこうと手を伸ばす。

「そんな不完全な身体で、外の世界で生きていけるわけがないでしょう! クレイドルの仕様書から外れた個体が、どうやって社会で生きていくというの!?」


「仕様書なんて、知るか」


 真尋は振り返り、母の瞳を真っ直ぐに見据えた。

 その瞳には、かつての従順な光は微塵もなかった。

 冷たく、けれど夜明けの空のように透き通った、自立の意志。


「男でも女でもない。誰の型にも嵌まらない。

 ……僕の輪郭は、これから僕自身が、僕の手で決める」


 母の叫び声を背中に置き去りにし、真尋は部屋を飛び出した。

 大理石の長い廊下を駆け抜け、重厚な玄関の扉を押し開ける。


 夜の冷たい外気が、切り揃えたばかりの短い襟足を撫でていった。

 肌を刺すような寒風が、たまらなく心地よかった。

 息を吸うたびに、胸の圧迫バンドが軋む。痛い。苦しい。

 けれど、その痛みこそが、誰にもプログラムされていない「自分自身の生」の証拠だった。


 タワーマンションのエントランスを抜け、夜の街へと歩き出す。

 交差点の角には、今日も変わらず『クレイドル』のブースが青白い光を放ち、道行く人々を冷ややかに見下ろしている。

 あの箱が作り出す、無数の「男」と「女」の規格品たち。

 完璧なバランスで調律され、親の期待通りのレールを歩むことを運命づけられた命の群れ。


 真尋はそのブースを一瞥し、ふっと微かに口元を緩めた。

 生殖器のない身体。男にも女にもなりきれない、宙ぶらりんな存在。

 世間は自分を「仕様外のエラー」と呼ぶかもしれない。

 けれど、何にも定義されていないということは、何にだってなれるということだ。


 名前を呼ぶ声は、もういらない。

 誰かが貼ったラベルをすべて剥ぎ取った先に、広大な夜の闇が広がっていた。


 真尋はポケットに両手を突っ込み、濡れたアスファルトを力強く踏みしめながら、街の底へと足を踏み出していった。

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