規格外の天使
深夜二時四十分。小雨が降る湾岸通りを、灰色の小型バンが低く唸りを上げて走っていた。
助手席の窓ガラスは曇り、街灯の橙色や青白い電飾がぼんやりと滲んでいる。ダッシュボードに固定された専用端末が、ピシリと短いアラートを吐き出した。
【未認証・規格外生体検出:第14地区・クレイドル08号ステーション】
【ステータス:エラー返却/回収待ち】
「おい、次が入ったぞ」
ハンドルを握る先輩巡回員の安田が、無精髭の顎をしゃくりながら言った。四十代半ば、油染みのついた作業着を雑に着崩し、いつも缶コーヒーの匂いを漂わせている男だ。
助手席でタブレットを膝に乗せていた新人の宮原は、小さく喉を鳴らして画面を更新した。
「……08号ですね。了解しました」
二人の仕事は、街角の公認生体受取端末――『クレイドル』とその周辺の「夜間巡回・生体管理回収業務」だった。
表向きは、端末の清掃や保守点検、あるいはシステムの動作不良に対するメンテナンス作業員。だが、実際の主な業務は違った。
ハッチの奥に送り込まれながらも何らかの遺伝子異常や発現エラーで「受取拒否」された個体、あるいは、端末の足元へ段ボール箱ごと置き去りにされた赤ん坊を回収し、処分ルートへ搬送すること。
バンは高架下の薄暗い路地に入り、水たまりを跳ね上げて停車した。
ヘッドライトの光の先、四角いキューブ型の自販機ブースが、雨の中にぽつんと青白く発光している。
その足元、ステンレスの搬出トレイの脇に、湿った段ボール箱が一つ置かれていた。
箱の表面には、太い油性ペンで乱暴に殴り書きされている。
『初期不良。指が六本ある。返却するから金返せ』
宮原の胸の奥に、ずしりと重い鉛のような塊が落ちてきた。
二人は防護手袋と撥水ジャケットを身につけ、車から降りた。雨がフードを叩く。
近づいて箱を覗き込むと、古びたバスタオルに包まれた赤ん坊が、冷え切った空気の中で小さく身を縮めていた。
生後数日も経っていないだろう。肌は青白く、唇をわずかに紫色に染めている。
右手の小さな握り拳から、豆粒のような小さな小指が、もう一本、不揃いにちょこんと生えていた。
多指症。現代の高度な遺伝子スクリーニングであれば本来なら培養初期にスクリーニングされ、排除されるはずの、ごく稀なシークエンスのすり抜け――いわゆる「規格外」だった。
「チッ、またこれかよ」
安田が煙草を咥えようとして、防護マスクに当たって舌打ちをした。
「クレイドルのハッチに無理やり押し込もうとして、ゲートで弾かれた口だな。親も親だ、こんなところに生身で放置しやがって」
宮原は膝をつき、段ボール箱の中へ手を差し入れた。
手袋越しにも、冷え切った赤ん坊の体温が伝わってくる。
指先が赤ん坊の小さな手のひらに触れた瞬間――ぎゅっ、と、その頼りない五本と一本の指が、宮原の人差し指を必死に握りしめてきた。
「……っ」
息が止まりそうになった。
小さく、湿っていて、けれど驚くほど力強い、生きようとする力。
赤ん坊のまぶたがかすかに震え、乾いた喉から「ふぇ……」と消え入りそうな吐息が漏れた。
(生きてる……)
宮原の手が小刻みに震え始める。
この子は、不良品の家電じゃない。
ボタン一つで吐き出され、気に入らないからとゴミ箱の前に捨てられていい命なんかじゃない。
「安田さん」
宮原は顔を上げず、赤ん坊の小さな手を握られたまま、低く掠れた声で言った。
「この子たち……回収された後、どうなるんですか」
安田はバンからプラスチック製の生体密閉コンテナを取り出し、台車に乗せて転がしてきた。車輪がコンクリートを削るガラガラという乾いた音が、夜の静寂に響く。
「あん? 何度も言わせんなよ。搬送コードに従って、臨海エリアの中継ステーションに引き渡すだけだ」
「その先です」
宮原は指をほどくことができず、顔を上げた。マスクの上の瞳が、濡れた街灯の光に揺れている。
「中継ステーションから、どこへ行くんですか。乳児院ですか? それとも、公的な特別養子縁組の施設ですか?……噂で聞いたことがあります。裏の労働育成枠に回されるとか、臓器のドナー用に解体されるとか、あるいは……」
言葉が喉に詰まった。
「……リサイクルされるんですか。細胞の培養原料として」
雨の音だけが、二人の間にざあざあと降り注ぐ。
安田は台車を止め、コンテナの蓋を開けた。無菌の冷たい空気が、青白いスチームとともに漏れ出る。
そして、宮原を冷ややかに見下ろした。
「さあな」
あまりにも平坦な、感情の削ぎ落とされた声だった。
「俺は配送伝票の通りに運んでるだけだ。中継所に放り込んだ後のことなんて、知らねえし、知りたくもねえよ」
「でも、人間なんですよ!」
宮原の声が思わず裏返った。夜の路地に、怒りと悲鳴が反響する。
「指が一本多いだけじゃないですか! ちゃんと息をして、こうやって僕の手を握り返してるんです! それを……モノみたいに箱に詰めて、行き先も分からない場所に運ぶなんて……そんなの、あんまりじゃないですか!」
安田の目が、すっと細くなった。
作業用の手袋を擦り合わせ、重い息を吐き出す。
「そんなこと、俺に言われてもどうしようもねえだろ」
突き放すような、けれどどこか諦め切った声音だった。
「お前が喚いたところで、この子の指が五本になるわけじゃねえ。この社会じゃな、『規格』から外れた命には戸籍も人権も発行されねえんだよ。クレイドルが配給する『完全な子ども』をみんなが欲しがって、自分たちの都合で命を選別する世界にしたのは、俺たち人間だ」
安田は段ボール箱へ歩み寄ると、宮原の腕を乱暴に引っ張って、赤ん坊の手から無理やり指を引き剥がさせた。
ぷつんと、温もりの糸が切れる。
赤ん坊が頼りなげに両手を宙へ彷徨わせ、弱々しく泣き声を上げた。
「可哀想だと思うなら、お前が連れて帰って育てるか? ああ?」
安田が宮原の胸ぐらを指先で小突く。
「未登録個体の隠匿は国家反逆罪だ。お前の皮下チップは即座に停止されて、職も住まいも銀行口座も全部消えるぞ。親にも一生会えなくなる。……お前にその覚悟があんのかよ」
宮原は唇を噛み締め、濡れたアスファルトを見つめた。
声が出なかった。
指先には、まだ柔らかな感触が残っている。
けれど、自分の人生をすべて捨てて、この赤ん坊を抱えて夜の闇へ飛び出す勇気など、宮原のどこにもありはしなかった。
ただの、無力で卑怯な、システム歯車の一つ。
目の前の残酷さに涙を流しながら、結局は自分の平穏を守るために見殺しにする、一番醜い大人。
「……そう、ですね」
宮原の口から零れ落ちたのは、情けないほど小さく、掠れた諦めの言葉だった。
「……分かればいいんだよ」
安田は吐き捨てるように言うと、手慣れた無駄のない動作で赤ん坊をバスタオルごと持ち上げ、冷たいプラスチックコンテナの中へと横たえた。
カチャリ、と気密ロックが掛かる。
透明なアクリルの覗き窓の向こうで、赤ん坊の小さな口がパクパクと動いているのが見えた。
コンテナがバンの荷台へと積み込まれ、重いリアドアがバタンと閉ざされる。
荷台には、すでに今夜回収された二つのコンテナが、固定ベルトで縛られて静かに鎮座していた。
二人は車に戻った。
安田がキーを回すと、エンジンが再び低く唸りを上げる。
ワイパーがフロントガラスの雨を左右に拭うたび、街の光が歪んでは元に戻るのを繰り返した。
ダッシュボードの端末が、ピシリと完了通知を点滅させる。
【回収完了:検体ID-Pending-881】
【次期回収ポイント:第03地区・クレイドル12号へ移動してください】
宮原は濡れた両手を膝の上で固く握りしめた。
指先の皮膚の奥に、まだあの六本の指の感触が、焼き付いたように残っている。
助けられなかった。
問いかけることしかできなかった。
自分はこの先も毎晩、この車に乗り、名もなき命をプラスチックの箱に詰め、どこへ行くかも分からない闇へと運び続けるのだ。
バンの窓の外、交差点の角に立つ『クレイドル』のブースが、雨の中で美しく青白く光っていた。
傷ひとつない完璧な命を買いに来る、幸せな親たちを待ち構えながら。
車は加速し、夜の街の底へと吸い込まれていく。
荷台からは、エンジンの振動にかき消されて、もう何の泣き声も聞こえなかった。




