第二巻――初期変数
How exactly did the first flash of subjective consciousness come into being from purely material neurons?
Unless you believe that consciousness itself is an intrinsic property of the physical world, this question may never be answered.
主観意識の最初の一閃は、いったいどのようにして純粋な物質であるニューロンから生まれたのか。
意識そのものが物質世界に内在する固有の属性だと考えないかぎり、この問いに答えが与えられることは永遠にないのかもしれない。
整備記録に関する一連の仕事がひと段落すると、伊蔚は執務室へ戻った。窓の外には、橙黄色の光を反射する湖面が相変わらず広がっている。壁に掛けられた写真立てを外し、指先で見慣れた顔をそっとなぞった。
伊蔚は過去を振り返ることが少ない。思い出せば、そのたびに一人ひとりが恋しくなってしまうからだ。
闇。それこそが世界の本質であり、あらゆるものの始まりでもある。闇があってこそ、世界は虚無から分離され、闇の存在を認識した瞬間、時間は流れ始める。
「起きて。もう寝ちゃだめだよ」
慈愛に満ちた声が左耳もとで響き、細く優しい指が伊蔚の耳介と唇をそっと撫でる。
外界からの刺激によって、伊蔚は闇から分離される。結局のところ、比較対象となる外界がなければ、「自分」という存在も成立しない。
私は......眠っていたのか?
ここは......いったいどこだ?
今は......いつなんだ?
疑問を抱えながら、伊蔚は目の前に細い隙間を開けようと必死になった。世界はぼやけ、混沌とした光と影が海面のように揺らめいている。目の前には、ぼんやりと二つの人影が立っていることだけがわかった。
うぅ、疲れた。全身から力が抜けている。きっとずいぶん長く眠っていたのだろう。でなければ、こんな感覚にはならない。外の世界って、きっと面倒な場所なんだろうな。そんな面倒な世界には行きたくない。面倒ってことは、つまり疲れるってことだから。そんなに疲れるくらいなら、もう少し寝ていたほうがいい。
どれくらい寝ようかな。うーん......とりあえず宇宙の熱的死まで寝ておこう。
その頃には宇宙は永遠の闇と静寂に包まれるらしい。眠るにはちょうどいい時代だ。
全身の力を抜き、面倒で嫌な世界を外へ締め出し、もう一度、闇すら存在しない虚無へ戻る。
「もう、この子ったら。どうしてまた寝ちゃうの!」
優しい声が少しだけ咎めるような調子で響いた。その声はまた伊蔚を虚無から引き戻し、素晴らしい睡眠計画を邪魔したはずなのに、なぜか腹が立たなかった。
その声は、伊蔚に母親を思い出させた。
もっとも、伊蔚の記憶にある母親の口調は、こんなに優しいものではない。
いつもの癖なら、毛布をつかんで体をもっと強く包み込むところだ。だが、伊蔚が手を伸ばして掛け布団をつかもうとすると、指先は空を切った。
その瞬間、伊蔚はこの世界の冷たさと硬さを思い知った。身体は冷たい空気にさらされているばかりか、背中の下には冷たく硬い金属構造がある。
このろくでもない世界は、暖かい布団一枚すら用意できないのか。いったいどれだけひどい世界なんだ?
もし赤ん坊なら、今ごろ大声で泣いて不満を訴えているところだろう。
このろくでもない世界は、今度はいったいどんな面倒を自分に押しつけてくるんだ?
不機嫌な気分のまま目を開くと、目の前には幾重にも重なった表示インターフェースが宙に浮かんでいた。どうやらホログラフィック投影か何からしい。伊蔚の時代には、実用化された製品など記憶にない。つまり、夢を見ているか、眠ったまま未来まで来てしまったか、そのどちらかだ。
表示インターフェースの向こうには、年上系の美女が二人立っていた。なぜ「人物」ではなく「キャラクター」と呼びたくなるのかといえば、二人とも地球人としてはあまりに美しすぎて、まるで二次元世界からそのまま切り抜いてきたように見えたからだ。
手前の一人はワインレッドの長髪に暗い金色の瞳。少し離れたもう一人は輝く金髪に青緑の瞳をしていた。そして何より目を引くのが耳だった。エルフのような、長く尖った耳。弓矢を抱えて森へ駆け込み、露を飲み木の実を食べ、人間を見つけたら「森を壊すやつめ!」と叫びそうな雰囲気である。
「ほら、早く服を着て。ずっと裸じゃよくないでしょう?」
ワインレッドの髪の女が、一体型の密着服を伊蔚へ差し出した。形状は複雑で、見るからに重量もありそうだ。何かの戦闘用潜水服のようで、用途不明の機械構造と増設ハードポイントがそこかしこについている。
そこでようやく、伊蔚は自分が完全に裸のまま、堂々と外界へ自分の姿をさらしていることに気づいた。伊蔚は、自分は男だったはずだと記憶している。ところが今は、胸の前に二つの重たい肉塊がぶら下がり、重力に引かれて胸元の皮膚が張り詰めている。
両脚をきゅっと閉じて下半身を探る。そこは何もなく、鳥肌が一気に立った。猛烈に嫌な予感が胸中を覆う。だいたい察しはついている。それでも人間というものは、そう簡単には諦めない生き物だ。
目の前の二人を見て、伊蔚はため息をついた。
「ごめんね。心配してくれてありがとう。でも今は、もっと確認しなきゃいけないことがある」
密着服を空中へ放り投げ、目の前の二人がそのフェイントに気を取られ、反応するより先に、伊蔚は二人の間をすり抜けた。同時に周囲を見回す。ここはどう見ても何かの軍艦の艦橋だった。ただし舷窓はない。なぜだか、操作卓も、その上に並んでいる様々な機器も、伊蔚にはすべてわかる。妙に懐かしい感覚すらあった。
まず目的地を決めなくてはならない。右も左もわからないまま、艦内を闇雲に走り回るわけにもいかない。
そう思った瞬間、視界の端に艦全体の構造図が自然に展開された。現在位置は艦後部三分の一付近、中央竜骨に近い区画。表示には「艦橋」と記され、その後方は CIC(Combat Information Center)だった。
CICを抜けると、長さ10メートルほどの通路があり、そこには艦長休憩室、会議室、星図室、洗面所など複数の機能区画が並んでいる。通路の突き当たりには艦載主機アレイがあり、別の甲板へ移るには昇降機か垂直人員通路を使う必要がある。伊蔚の目的地は洗面所。そこなら、きっと鏡がある。
そう決めた伊蔚は気密扉へ駆けた。手を伸ばして取っ手を動かすより先に、気密扉は意志に応えるように開いた。背後では、取り乱した二人が意味不明なことを叫びながら伊蔚を止めようとしていた。気密扉を通り抜けた瞬間、プシュッという音とともに扉が閉じ、ロックされた。赤橙色の警戒ストライプが塗られたロックボルトがソケットへ滑り込み、扉の向こうから鈍い打撃音が聞こえてくる。しばらくは大変だろう。
この時代の技術はあまりにも高度で、とても現実のものとは思えない。まるで身体の延長そのものだ。だが、今は驚いている場合ではない。
立ち上がって初めて、さっきの動きが少々激しすぎたことに気づく。胸元の皮膚が激しく引っ張られた痛みが遅れてやってきた。服を着ずに動いたことを少し後悔する。仕方がない。とりあえず腕で支えておこう。
洗面所へ到着し、伊蔚はようやく自分自身を観察できるようになった。鏡に映っていたのは、人間離れするほど美しい少女だった。細く長い体つきで、軽やかさと敏捷さを感じさせる。
銀光のように眩しい長髪が肩を滑って腰まで流れている。宝石のような赤い瞳が冷たい光を返し、冷淡な顔には世界そのものに飽き果てたような感情が浮かんでいた。
伊蔚は自分の頬をつねった。わずかな痛みが、鏡の中の人物が自分自身であることを確信させた。
首の下には白い肩と鎖骨、その下には胸がある。胸元の隆起した肉を改めて観察すると、形は半球状らしい。胸囲を測ろうと思った瞬間、青い光を帯びた帯状の表示が胸元を覆い、その脇にホログラフィック表示が現れた。値はわずかな揺らぎを伴って――18.58cm。
伊蔚は自分の肌をそっと撫でた。滑らかで瑞々しく、信じられないほどだった。鏡の下方へ視線を落とすと――まあ、ない。実にあっさりと、淡い桃色の粘膜の上には毛一本なく、完全にむき出しになっている。さらに詳しく自分を調べようとした、その瞬間。身体が突然、いうことを聞かなくなり、床へ崩れ落ちた。
通路の向こうから、近づいてくるせわしない足音が聞こえてくる。
「人格モデルに余計な私物でも突っ込んだんじゃない? なんで何の前触れもなく全裸で走り回り始めるのよ?」
「私に聞いてどうするの。私は名目上の主任設計者ってだけ。知ってるでしょう、私は輝煌智能の人格インタラクション・インターフェースにすぎない。人格設計そのものはブラックボックスの内部でやってるの。まあ、理論上の性能ならこの人格が一番突出してる。要するに、欲しいか、欲しくないかって話よ」
二人は伊蔚を床から抱え起こした。ワインレッドの髪の女が右手を伊蔚の尻に置き、嫌な予感がした。
「何するの?」
「言うことを聞かない悪い子には、当然お仕置きでしょう?」
パァン!
尻から鮮明な痛みが走る。まったくもって屈辱的な体験だった。
「ほう、いい目をしてる。小さな野獣みたいで、こういう子、私は好きだな。私の艦隊に来る?」ワインレッドの髪の女は言いながら、先ほどの一体型密着服を伊蔚へ着せ、背面の固定装置を手慣れた動きで締めた。密着服は瞬時に収縮して内部の空気を追い出し、隙間へ何らかのゲルが注入される。服全体が皮膚へぴったり貼りつくのに、不思議と拘束される感じがない。むしろ第二の皮膚のように自然だった。そしていつの間にか、伊蔚は再び自分の身体を自由に動かせるようになっていた。
「恵! 気をつけて! 『超越制御』がこいつの自己対抗ロジックで解除された! くそっ、どうやったの?」
金髪の女が大声で叫び、伊蔚はそこで、ワインレッドの髪の女が「恵」という名であることを知った。
ためらいはなかった。恵に肩へ担がれていた伊蔚は、すぐさま金髪の女の肩をつかみ、その力を借りて下方へ飛び込んだ。この常識外れの動きに、二人は完全に不意を突かれた。
顔が床へ激突する寸前、伊蔚は両手を床へつき、力を込めた。両脚を金髪の女の首へ巻きつけ、そのまま身体を翻して肩へまたがる。
この身体の性能は、伊蔚が想像していたより遥かに高かった。見た目には難度の高そうな動きさえ、あまりに容易くこなしてしまう。以前の、数歩走っただけで息が上がり、痙攣し、部品が漏電していた身体とは比べものにならない。
いつの間にか、伊蔚の手には暗灰色の短剣が「滲み出る」ように現れていた。金髪の女の首へ刃先を当てる。これでようやく、伊蔚は現状の主導権を取り戻した。
ああ、すべてを掌握している感覚って、こんなに気持ちいいんだ。
「あなたたちは誰?」
恵は呆れたように額へ手を当て、疲れ切った声で答えた。
「私は遠港艦隊第十一特別混成艦隊・旗艦の艦載知性――理恵・太陽守」
「あなたは?」
伊蔚は短剣の切っ先で金髪の女の頬をつついた。
「もう少し穏便にできない?」
「答えないなら、首を切り落とす」
「首を切られたって私は死なない。そんな脅し、意味ないわよ」
金髪の女は肩をすくめた。
「じゃあ、試してみる」
伊蔚が短剣の先を金髪の女の首へ軽く突き立てると、彼女はすぐにわんわんと叫び始めた。「ちょっと待って! 痛い! 私は輝煌智能ミネルヴァ!」
「ほら、ちゃんと話せるじゃない」
「あなた、暴力的すぎない? こんな人格に設計した覚えはないんだけど。いったいどこでおかしくなったの?」
「私がこんなことになったのは、あなたのせい?」「知らないわよ! 知ってたらとっくに直してる!」理恵はため息をついた。
「ずいぶん元気な子ね。一目でわかる。かなり強い。ミネルヴァ、とんでもないのを設計したわね」
「そんなところで悠長に感想を言ってないで、早く彼女を私の上からどかしてよ!」
ミネルヴァはもう崩壊寸前らしかった。理恵は一歩前へ出て、伊蔚へ手を差し伸べる。
「ねえ......あなた。まずミネルヴァの上から降りてくれない? いろいろ疑問があるのはわかる。でも、こんなに張りつめた空気を維持する必要はないでしょう。よかったら、座ってゆっくり話しましょう」「最初から私たちはあなたの行動の自由を制限していたわけじゃない。後から『超越制御』を使ったのも、仕方なくしたこと。あなたが自分自身を傷つけるのを心配したからなの」理恵はそう言って、伊蔚へ微笑みながら何度か瞬きをした。
伊蔚は少し考えた。理恵の言い分にも一理ある。それどころか、過剰反応していたのは自分のほうだった。「うん......説得された」
伊蔚は理恵の手を取り、ミネルヴァの身体から飛び降りた。理恵は有無を言わせず伊蔚を抱き寄せ、頭を優しく撫でる。
「いい子ね」
あまりに親密な接触に、伊蔚は戸惑った。理恵の抱擁は柔らかく、温かく、かすかな薔薇の香りまでした。しかし、その親密さは伊蔚に説明しがたい恐怖を抱かせた。理恵を傷つけるかもしれないとわかっていながらも、伊蔚は驚く理恵の視線を受け、きっぱりと身体を押し返した。
「抱きしめてくれて、ありがとう。ごめんなさい」
理恵は変わらぬ慈愛の眼差しを向ける。
「いいのよ。そんなに謝らなくていいの」




