第一巻――環境パラメータ
Das menschliche Leben
kann nicht gemessen werden an der Länge der Zeit
wenn das Herz voller Liebe ist
ist der Augenblick ewig
人の命は
時間の長さでは測れない
心に愛が満ちているとき
一瞬は永遠になる
この手紙は、どこから書き始めればいいのだろう?
少し考えてみた。
そうだ……私たちが出会ったあの日から始めよう。
1
広々とした明るい通路に照明が灯った。通路の四隅にはそれぞれライトストリップがあり、天井は青白く、床の照明は柔らかな暖橙色をしている。これは無重力環境で人員が上下を見分け、姿勢を調整しやすくするためのものだ。
通路を抜けると、電気設備の唸りと換気音が響いている。
右手、全面窓の向こうでは人工重力リングが回転していた。巨大な九本のトポロジー最適化トラスが奇妙な影を落とし、その影が壁面を極めてゆっくりと移動している。
リングには、重力環境でなければ正常に機能しない農業・工業施設が数多く配置されている。その外縁は主装甲帯と移動式兵器プラットフォームで覆われており、見た目以上に巨大な質量を持つ。
重力リングは遠心力によって約1Gの人工重力を生み出しているが、それですべての区域を覆えるわけではない。もし遠港がかつての軍民両用の巨大な擎天堡のままだったなら、遠港全体に重力制御システムによる人工重力場が供給されていただろう。
だが今は、巨大なドック群へ電力を供給するため、大部分の区域で人工重力場が停止されている。それでも遠港は電力不足のため、何度となく低消費電力モードによる節電を強いられていた。
「こんな日々、いったいいつまで続くの……」
伊蔚は胸の中で呟き、それからふと気づいた。
これはきっと、この時代に生きるすべての人間の思いなのだろう。
少女は首を振り、焼きたてのパンが浮かび上がらないよう、腕に抱えた大きな紙袋をしっかりと抱き締めた。壁から突き出た取っ手を掴み、わずかに力を込めると、身体は前方へ滑るように飛んでいく。
この通路の補助レールは点検中だったため、伊蔚はこんな原始的な方法で「飛ぶ」しかなかった。とはいえ「飛ぶ」というより、空気の中をスケートしているような感覚だ。本物の飛行とは、こんなにふわふわしたものではない。
さらに進み、重力リングの接続ノードを抜ける。窓の外へ伸びているのは数十キロにも及ぶ係留トラスだった。輸送列車や整備プラットフォームが骨格上のレールを走り、白く輝くトラスと淡い赤光を放つ放熱板は、まるで魚の骨格と血管のように見える。そして、その骨格を満たす肉体が、整然と並ぶ戦艦だった。
ここは軍用宇宙港だ。最近は前線の戦況が緊迫し、大量の艦艇が傷だらけの船体を引きずって入港している。停泊位置で整備と簡易修理を受け、損傷の深刻な艦艇だけがドックに入り本格修理を受ける。
現在、軍用宇宙港では数百隻の戦艦が修理アームと整備班に包み込まれ、全身から溶接の火花を瞬かせている。
ご到着の旅客の皆様にお知らせします。MU65788便はまもなくalpha-01ドッキングポイントへ進入します。
MU65788便の乗客はB1-B2出発口からお降りください。ご注意ください。ありがとうございます。
伊蔚は舷窓の拡張ディスプレイへ振り返った。便名表にはMU65788便だけがぽつんと表示されている。珊瑚港から遠港へ向かう便で、現在定期運航している唯一の軍用便だ。遠港に駐留する軍人の補充と異動に使われているため、この時間に到着しても珍しくはない。
窓の外では、三聯グループ所属のナンセン級護衛艦二隻が減速していた。全長1.2kmの船体がゆっくりと軍港へ滑り込み、電磁式制動システムに捕捉される。
護衛艦の後ろでは、工事用黄色に塗装された核融合タグボート四隻が衝突防止バルーンを展開し、姿勢噴射ノズルから短く白い推進剤の噴流を吐き出している。彼らは鯨を思わせる宇宙客船へ寄り添い、ゆっくりと停泊位置へ押し込んでいく。欧州連合エアバス社のA-790「長須鯨」、巨大輸送旅客船だ。
ドッキングが完了すると、人々が出発口から、魚の群れのように連なって次々と出てくる。この光景を実際に目にすれば、古人が生み出したこの表現が宇宙時代にもこれほど美しく、これほど的確に使えることに感心するだろう。
人々の大半はまず水夫酒場へ向かって思う存分散財するため、交通渋滞を心配する必要はまだない。
もっとも、伊蔚が通るのは分岐通路だ。遠港へ初めて来た人間が、わざわざこんな場所へ来ることは少ない。ただし数時間後、吐瀉物にむせて死にかけている酔っ払いに遭遇する可能性はある。あの酔っ払いたちはゲームのNPCのように、決まった時間になるとどこかでランダムにリスポーンする。
もし本当に出くわしてしまえば、伊蔚は酒臭さに耐えながら医務室まで引きずっていかなければならない。非戦闘時死傷者として報告した際、上層部から遠港基地の風紀が乱れ、危機意識も戦闘意識も欠けていると叱責され、そのまま大々的な点検が始まり、会議を開いて下級部隊へ指示を徹底し、全面的な調査・教育・是正を行い、類似問題への再発防止策まで実施する羽目になるからだ。
広い通路をそのまま飛んでいけば、「遠港一号」スーパー・オニール・シリンダーへ到達する。その直径は30km、長軸は150km。オニール・シリンダーは人工重力リングと逆方向に回転して歳差トルクを相殺し、シリンダーが一回転する周期は245.7s、約4分に一回転する。内部は三つの居住・農業区画と三つの採光区画に分かれている。
居住・農業区画の上には、一般的な意味での陸地が広がっている。面積は約7000km^2で、上海市よりやや大きい。そこに立って頭上を見上げれば、水面から拡散した金色の光が降り注いでいる。
海底の下には厚さ12mの多層複合透明セラミックがある。一定の自己修復能力と選択透光性を備えており、重砲による直撃でもなければ損傷することはない。レーザーを浴びても問題なく、光励起コーティングが防護と退避のための時間を稼いでくれる。
戦闘状態では、内部照明を担う採光アームも収納され閉鎖される。そのとき、遠港全体は暗闇に沈み、中央軸の照明アレイを起動せざるを得なくなる。
遠港は参宿二(εOri/オリオン座ε)の周回軌道上を運行しており、地球からの距離は1980光年/606パーセク。参宿二はオリオン座OB1アソシエーションに属し、福禄寿三星のうち禄星に当たる。そのため泛亜合作から来た公務員の中には、出世のご利益を求め、禄星神(比干)を拝みに遠港まで来る者も多い。
参宿二はB0 Ia型の青色超巨星で、その光は青白く、豊富な紫外線を含んでいる。また恒星活動も激しく、たびたびX級フレアを起こす。これも遠港一号に人工海洋が必要な理由の一つだ。ただし、水は波長によって光の吸収特性が異なる。波長の長い赤色光は速やかに吸収される一方、波長の短い青色や緑色の光は水中をより深く透過する。このままでは遠港一号の内部は青緑色に偏って見え、それが住民の鬱症状を大幅に増加させることになる。
遠港一号内部の照明環境を地球と同じものにするため、採光アーム上の反射鱗は595nm-760nm帯の暖色光に対する反射率を選択的に高めている。そのため通常時、採光アームの反射鱗は金橙色に見える。
人工海洋の深さは10m。これは訓練を受けていない人間の平均的な潜水深度にちょうど相当する。深さ10mの人工海洋だけで大半の高エネルギー放射線を遮断・吸収できる。遠港が超新星爆発によるガンマ線バーストの直撃を受けるような場合を除けば、これ以上何を心配する必要があるのかという話だ。
遠港一号内部の巨大な空間は、本物の雲や気象変化を形成するのに十分な広さを持っている。雲は通常、地表から約1kmの高度で発生し、気候変化は遠港気象局が制定した気象計画表に従って調整される。季節の変化は通常、地球北半球と同期しており、その巨大な人工生態系は少なくとも4000万人が高い生活水準で暮らせるだけの規模を持つ。
しかし現在の遠港にいるのは、各種機能施設を正常に維持するために必要な257万人だけだ。だからこそ、その生態環境は「快適」という言葉で済ませられるほど余裕がある。
当初、遠港は伊蔚にたびたびガンダムシリーズのコロニーを思い起こさせた。ほら、シドニーに落とされたあれだ。ただし遠港はコロニーより遥かに巨大で、これを地球へ落としたなら、たぶんアクシズと同じくらいの結果になるだろう。
そんなことを考えながら伊蔚がぼんやりしていると、ちょうど十字に交差する区画を通り過ぎた。
数多のアニメ少女たちは、その一生をかけて一つの事実を証明してきた。角は事故多発地点なのだから、十分に注意しなければならない。パンを咥えて「遅刻するー!」などと叫びながら曲がるなんて論外だ。
不幸にも、伊蔚はそれを忘れていた。しかも身長より大きなクラフト紙袋を抱え、中にはパンがぎっしり詰まっている。
「くそっ、宇宙ステーションって本当に迷路みたいだな。こんなことなら分岐通路なんて通らず、素直にスライドレールの列に並んでおけばよかった」
林毅が拡張層のマップから意識を離してぼやいたとき、別の通路から紙袋を抱えた銀髪の少女が飛んできた。宇宙空間では壁から飛び出した細かな設備にぶつからないよう、普通は通路の中央付近を飛ぶ。しかしそのやり方では身体を何かに引っ掛けて勢いをつけるのが難しい。
そのため、宇宙ステーションには個人推進器が用意されているのだが、林毅が下船するのは遅く、推進器はとうに使い切られていた。しかもこの通路の補助交通スライドレールも停止している。
つまり林毅は、二人が一つの塊になって衝突するという未来が、現実として確定していくのをただ見ているしかなかった。
「おい! ぶつかるぞ!」
林毅が大声で叫んだ。
少女は林毅を見た瞬間、一瞬だけ動きを止めた。宝石のような赤い瞳が大きく見開かれ、ほとんど迷うことなく左腕で紙袋をかばい、右腕を伸ばして空中で激しく円を描く。宇宙空間で身体を反転させる基本動作だ。角運動量保存のため、人間は腰をひねるだけでは宇宙空間で身体を反転させることが難しい。
その結果、少女は林毅に背を向けた状態で衝突し、そのまま林毅の身体を利用して回転しながら跳ね飛ばされた。衝撃で紙袋が手から離れかけたが、少女は反射的に袋を引き寄せて抱え込んだ。それでも中身が飛び散る運命までは止められない。
紙袋は激しい衝撃と引っ張りに耐えられず、底が裂けた。24個の卵が入ったパックと2Lの紙パック牛乳が隔壁にぶつかって跳ね返り、二つのクロワッサンが熱気を立ち上らせながら箱から飛び出し、空中で回転した。
同じく角運動量保存のため、少女は身体を素早く縮めた反動で猛烈に自転し始めた。林毅はそれを見て、大学時代に教師がホバーマン・スフィアを使って中性子星がなぜあれほど高速で自転するのかを説明していた講義を思い出した。
林毅は少女が自転によって姿勢制御を失うと思った。しかし少女は予想外に素早く四肢を広げ、回転を減速させると、極めて軽やかな動きで壁に張り付き姿勢を安定させた。その動きは完璧と呼ぶにふさわしい。林毅の時代には、これほど見事にできる人間はそう多くなかった。
2
「パン、牛乳、卵、それにクロワッサン……」
伊蔚は思わずぶつぶつ呟いた。
腕の中のクラフト紙袋は見るも無残な状態になっていた。二本のバターバゲットは途中で折れそうになり、その他のパンも程度の差こそあれ潰れている。食べられないわけではないが、見栄えはひどいものだ。
紙袋の底にあった牛乳と卵は袋を突き破って飛び出し、平らだった包装の角は隔壁にぶつかったせいでくしゃくしゃになっていた。
そして何より伊蔚を怒らせたのは、顔を上げた瞬間、どこからともなく現れた男が飛び散ったクロワッサンを食べているのが見えたことだった。まるで自分とは無関係の通行人であるかのように平然としている。
「うん、このクロワッサン、うまいな。昔食堂で食べてたものよりずっといい。どこで買ったんだ?」
その男は平然と、空中に散らばったクロワッサンを口へ放り込んだ。
それは最後の一個だった。
あれは自分で作ったのよ! この馬鹿! 私の特級小麦粉! 発酵バター! 天然卵! 天然牛乳! 高級細目砂糖!
あなた! 吐き出して!
伊蔚は本気でそう叫びながら男に飛びかかり、胸の上に跨って両脚で身体を挟み込み、左手で喉を締め、右手で顎をこじ開け、どうしてこいつがこんな短時間でクロワッサンを全部飲み込めたのか確かめたい衝動に駆られた。
本当にそうしてやりたかった。だが理性が、その狂った考えを捨てろと告げている。もう取り返しがつかない以上、これ以上自分の身を落として無様な真似をする必要はない。伊蔚は諦めて立ち去るつもりだったが、目の前の忌々しい想定外の産物がまたしても立ちはだかった。
伊蔚は誓った。これは間違いなく、彼女が我慢できる限界だった。
「どいてくれる? あなたは私のクロワッサンを無駄にしたんだから、これ以上私の貴重な時間まで無駄にしないでくれる?」
伊蔚は怒りを必死に抑え、平静な口調で最後の警告を発した。
「まあまあ、そんなに怒るなって。クロワッサンを二つ食べただけだろ? もう空中に出ちゃったんだから、食べなきゃもったいない。いくらだった? 有機元で弁償するよ」
伊蔚の頭の中で、何か一本の糸がぷつりと切れた。最低な一日の締めくくりは、最低な男との遭遇だった。
「何が『弁償する』よ! 地球の味をあなたが返してくれるの!? あの特級食材はもう生産されていないのよ! しかも! 私、まだ一口も食べてない! クロワッサンの折り込みをどうやるのか理解するだけで三日かかったのよ! 三日分の休暇と労働コストを含めたら、あなたにいくら払えって言えばいいの!?」
間の抜けた男は、気まずさと途方に暮れたような表情を浮かべて伊蔚を見つめた。
「ええと……その……本当にすまない。まさか、そんな汚れたものまで食べるとは……」
ようやく林毅にも人間らしい羞恥心が芽生えたようだが、伊蔚はもうこんな役立たずにこれ以上の労力を使う気にはなれなかった。くるりと背を向け、ぼろぼろになったクラフト紙袋を抱き締める。
「その……悪かった。連絡先を教えてくれれば、できるだけ損失を補償するよ」
林毅は少しためらったが、それでも勇気を出して尋ねた。
「あ、そうだ。遠港艦隊の駐屯地がどこにあるか知っているか?」
「遠港艦隊」という言葉を聞いた瞬間、伊蔚は警戒を強めた。理由は単純で、伊蔚自身が遠港艦隊に所属しているからだ。少し前、上層部から新しい政委が遠港艦隊へ派遣され、戦死した前任者の空席を埋めるという連絡を受けていた。そのため、伊蔚は目の前の男を改めて注意深く観察した。
この男には、C.E.地球時代の古めかしい軍人像がそのまま残っていた。黒髪黒眼、鋭く跳ね上がった眉、鋭い眼光、やや青白い肌。目立ったインプラントも遺伝子改変も見当たらず、宇宙軍の濃紺の制服を着ている。顔には鋭さを覆い隠そうとする柔和な笑みがいつも浮かんでいて、その安定ぶりは、顔の筋肉を固定しているのではないかと疑いたくなるほどだった。
その姿全体が、一つのことを強烈に主張している。――私は、人類が現在持つ最も古い国家の軍事体系から来た人間だ。
PLASF——People's Liberation Army Space Force
それを見て、伊蔚も態度を改めざるを得なかった。
「遠港艦隊の駐屯地? あなた、そこへ何をしに行くの?」
「ああ、自己紹介を忘れていた。俺は林毅、泛亜合作から来た。遠港艦隊の政治委員に任命されて、これから赴任するところだ」
やはりそうだった。伊蔚は、自分の鋭い直感が当たったことに密かに得意になった。
伊蔚は突然、この世界そのものを憎みたくなった。これからこんな男と一緒に働くのか? こんな距離感のない奴、できるだけ遠くで死んでいてほしい。何より嫌いなのは、この厚かましい社交音痴だ。
この世界の社交音痴ども、みんな死んでしまえ!
ふうっ! 落ち着け!
伊蔚が誇りにしている理性が、沸騰した感情を冷却していく。
とはいえ、不愉快な初対面のせいで先入観による悪印象が支配的になっている可能性もある。この男だって、案外それほどひどい人間ではないのかもしれない。ならば、しばらく接触して慎重に見極める必要がある。
この男は政治委員だけあって、扱いが少々厄介そうだが、伊蔚だって政工幹部への対処に経験がないわけではない。三日から五日もあれば、だいたいの性格と底は見抜けるだろう。
そうと決まれば、具体的な行動方針を定められる。まずは人付き合い用の社交的な仮面をかぶり、自分がそれほど人間嫌いではない、この年頃の女の子らしい人間に見えるようにする。
簡単なことではない。かなりの精神力を浪費する。それでも序盤に大きく投資しておけば、その後の接触方針を早期に確立でき、目の前にある不確定要素をある程度終わらせられる。
伊蔚は柔らかな笑みを浮かべ、穏やかな声で言った。
「あら、奇遇ね。そういえば私も遠港艦隊の駐屯地へ行くところなの」
林毅は相変わらず柔和な笑顔を浮かべている。しかし視線と無意識の微細な表情が彼を裏切っていた。伊蔚には分かる。林毅は彼女の態度が急激に変わったことに、すでに気づいている。
この人、なかなか手強そう……。
「そうなのか? それは本当に奇遇だな。君も駐屯地に用事があるのか?」
林毅は、偽装した観察者の視線で伊蔚を見ていた。首を傾け、意識的に目を大きく見開いて観察の鋭さを和らげようとしている。それでも伊蔚には、その無意識の観察がはっきり伝わってきた。
「パンを届けに行くの。何人かの艦載知性がパンを食べたがっていてね。ほら、女の子で甘いものが嫌いな人はいないでしょう? 嫌じゃなければ案内してあげる」
「今日は遅刻するかもしれないと思っていたんだ。本当に助かる。そういえば、その袋を抱えたままだと歩きにくいだろう? さっきの無礼のお詫びと思って、俺にも持たせてくれ。安心してくれ、今度は盗み食いしないから」
林毅の笑みが変化した。その中に、わずかな信頼感が生まれた。
伊蔚から見ると、こうした笑みの変化は政工幹部特有の技能だった。仕事の中で絶えず鍛えられた能力なのだろう。政工幹部はしばしば善玉役と悪玉役を演じ分けるものだから、不思議ではない。
伊蔚は腕に抱えていたものの一部を林毅へ差し出した。
「うん、じゃあお願いするね。そういえば、まだちゃんと自己紹介していなかったわね。私は伊蔚・艾妲。みんな普段は伊蔚って呼んでる。ただの、どこにでもいるお菓子作り好きよ」
「初めまして、伊蔚さん」
「こちらこそよろしくね、林毅政委」
二人は笑みを浮かべて見つめ合った。互いに相手を見透かそうとしながら、漏れ出す感情を必死に隠している。空気にはわずかな対立があったが、相手を破滅させようとするほどの敵意はない。どこか、友人同士が張り合っているような感覚だった。
二人は互いの顔をじっと見つめ、こんな少し幼稚な真似をしている自分たちに呆れ、やがて一緒にくすくすと笑った。
3
遠港艦隊の執務拠点は遠港一号の内部にある。遠港の中央軸からオニール・シリンダー内部の地表へ移動するには、それなりに手間がかかる。
地表へ向かう方法は主に二つ。一つはシリンダー南北両壁の斜行列車、もう一つはオニール・シリンダー内部のトラスから地表へ直結する高速エレベーターだ。
「ご利用のお客様にご案内いたします。遠港中央軸から遠港一号Cセクターへ向かうL890便斜行列車の改札を開始いたしました。L890便をご利用のお客様は、お手荷物を整理のうえA5-A6改札口へお越しください。A5-A6ホームよりご乗車いただき、列車発車の3分前をもって改札を終了いたします」
「共生微小機械と遺伝子署名による乗車券認証をご利用のお客様は、ご本人の共生微小機械および遺伝子署名にて自動改札をご利用ください。共生微小機械または遺伝子署名が無効となっているお客様は、係員窓口にて再登録をお願いいたします」
「係員にご連絡いたします。遠港一号Aセクターから遠港中央軸へ向かうL820便斜行列車がまもなくA1-A2ホームへ到着いたします。お迎えの準備をお願いします」
広々とした斜行列車の乗降ホールには放送が響いている。だが、ここはとても「ホール」と呼べるような姿ではない。全体としては内接円錐を取り込んだ円柱のような構造で、内接ホールは円錐の45度内斜面、外接ホールは円柱の内周面にあたり、両者は斜行列車の異なる軌道面に対応している。こうした設計は輸送能力を高めるためだ。何しろ遠港はもともと中継を目的として建造された擎天堡だった。
二人がいるのは内接ホール、ここは最も景観に優れた場所だ。足元は一枚の透明セラミックで、継ぎ目がほとんど見えない。中央軸付近では自転による線速度が極めて低く、最外縁でも約0.033Gしかない。
ほとんど無重力に近い状態で、45度の傾斜と15kmにも及ぶ視覚的な高さが、初めて来た者には落下しているような錯覚を与える。もちろん、視覚的な基準を斜面に合わせ、磁力ブーツで地面に吸着すれば、平地に立っているのと本質的な違いはない。
しかし、伊蔚の隣にいる林毅は普通ではなかった。内接ホールに入った直後こそ、わずかな好奇心と驚きを見せたものの、すぐに平静を取り戻し、その後の行動にも異常は見られない。
これは奇妙だ。こうした光景に驚愕するのは、たいてい惑星地表の出身者だ。こうした誇張された景観に慣れているのは宇宙居住区の住人である。林毅のように驚きながらもすぐ適応する人間はかなり珍しい。
以前から構造が比較的小さく、空間が狭く、極端な秘匿性のため開放性が制限された宇宙ステーションで長く暮らしていたのなら話は別だ。だがそのようなステーションは今や極めて少ない。軍の秘密宇宙ステーションや、失われた植民地の旧式軌道施設など、特殊な用途の場所に限られる。だが林毅は泛亜合作の軍人であり、後者ではあり得ない。
秘密宇宙ステーションの出身者……それとも……。
「ずいぶん広いな。人はどこへ行ったんだ?」
林毅は顔を上げ、斜面全体を見渡しながら感嘆した。その声に伊蔚の思考が現実へ引き戻される。彼女も周囲へ意識を向けた。ホールは以前と変わらず、二、三百人程度の姿しかない。改札口付近を除けば、自分以外の人間を見つけることさえ難しい。そのため、この空虚さはひどく際立っていた。
だからこそ、林毅がそんな質問をすることも伊蔚には不思議ではなかった。
「もともと人は少ないの。遠港が基礎建設を終えたのは五年前。今年から本格的に移民を受け入れて、おおいぬ座星区、こいぬ座星区、兎座星区、きりん座星区を結ぶ重要なハブになるはずだった」
「二年前に始まった人類・共同体戦争で、オリオン星群の深宇宙開発計画は完全に頓挫した。ここは人馬臂の前線に近すぎるもの。戦争が始まって二年で少なくとも三千億人が直接死亡した。こんなところに人が来るはずもないわ」
「それに……これからは、もっと来なくなるかもしれない」
林毅は振り返り、少し驚いたような目で伊蔚を見た。
「ずいぶん悲観的だな。俺たちが勝てないと思っているのか?」
政工幹部にこんなことを言えば、「戦局を悲観している」「必要な精神力が欠けている」「敗北主義を煽っている」など、面倒な評価を受けかねない。
だが伊蔚は気にしなかった。何しろ彼らには伊蔚を解任することも、停職処分にして反省させることもできない。それに、これは林毅の政治感覚を試すための質問でもあった。重要な情報だからこそ、早めに確認しておく価値がある。
伊蔚は顔を上げ、内接ホール中央を見た。そこには球体のような狩人星群の立体星図が、碗の中に収められるように宙へ浮かんでいる。星図の周囲には二つの標語が表示されていた。
戦備 戦略備蓄 人類のために
大敵目前 生死存亡
「分からない。何しろ人類が本当の、しかも絶対に理解できない異星文明と戦うのは初めてでしょう? これほど破滅的な全面衝突に、歴史上の前例はないもの」
「二年間で人類が失った命の数は、過去十万年間に人類が失った命の総数の三倍を超えている。たとえ勝てたとしても、これから支払う代償は想像を超えるでしょう」
伊蔚の説明を聞き、林毅はしばらく黙った。おそらく考えているのだろう。柔らかな橙黄色の光が透明セラミック越しに彼の左頬を照らし、その表情を見えにくくしていた。
短い沈黙のあと、林毅が言った。
「君の言う通りだ。俺たちは確かにこんな戦争を戦ったことがない。これから払う代償も、きっと想像を超えるものになる」
林毅は悲しげにも、惜しむようにも見える複雑な表情を浮かべた。伊蔚は笑って空気を和らげると、その場で立ち止まっている林毅の手を引き、斜面側の改札口へ連れていく。
「急がないと列車に乗り遅れるよ」
誰もいない改札口へ着くと、伊蔚は林毅を振り返った。
「今回はラッキーね。L890便に乗るのは私たち二人だけ。せっかくだし、特等席の展望を体験してみない?」
「特等席?」
林毅は予想通り、困惑した顔をした。
「え? オニール・シリンダーの斜行列車には全部、いちばん景色のいい特等席があるはずだけど。見たことないの?」
「ああ、言い忘れていた。俺はずっと地表で暮らしていたんだ。オニール・シリンダーの中へ入るのも今回が初めてだ」
地表? 嘘つき。そんな人間がいるか。迷いもなくここまで話せるなんて、かなり練習した嘘なんでしょうね。まあ、機密保持のためなら理解できる。でも、こういう欺き方は……。
伊蔚は笑った。
「ふふっ。じゃあ今回は、人生の実績解除ってところね」
先頭車両へ入る。内部はかなり広々としている。「特等席」とは乗客が勝手にそう呼んでいるだけで、車両の先頭にもっとも広い視界が確保された席があるというだけだ。
特等席に腰を下ろすと、オニール・シリンダー内部の壮大な構造が眼前に広がった。さまざまな区画が円筒内壁いっぱいに広がり、地表から約1km上空には薄い雲が張り付いている。少し離れた山腹には低重力環境に適応した岩生生物群落が生え、その向こうにはスポンジのようにふわふわした雪が積もっていた。
「お客様にご案内いたします。L890便斜行列車はまもなく運行を開始します。所要時間は1時間15分……」
列車が動き始めた。二人は安全バーを下ろし、車内にはしばし沈黙が落ちた。二人とも椅子に座ったまま黙り込み、重苦しい空気が車内を満たしている。
何かがおかしい。伊蔚は前世から引っ張り出せそうな記憶の中から話題を探した。乏しい記憶では、こういう状況では普通、女の側が話題を振って場の空気を主導するものだったはずだ。それに、相手から情報が勝手に転がり込んでくるのを待っているだけでは、どうやって探りを入れるというのか。
こちらからきっかけを作って攻めるしかない。伊蔚がどう話を切り出すか考えていると、林毅が腕の中の紙袋を軽く叩き、伊蔚へ顔を向けて言った。
「そういえば、どうして無重力区域へ行くんだ? オニール・シリンダーの中で菓子を作ったほうが便利じゃないか? ほら、これもう冷めてるだろ。焼きたてのほうがきっと美味しかったのに」
そう言われたとき、林毅は少し残念そうな表情を見せた。その顔を見て、伊蔚は少しだけ呆然とする。こうしていると、政工幹部というより、親しげに気遣いを示す青年に見えた。
「ああ、これ? 無重力区域へ行くのは配合を試験するため。私が行く場所には小型の重力リングもあるの。たとえば、さっきあなたが食べたクロワッサンね。ちゃんと折り込みを成功させるには、小麦粉のタンパク質含有量を管理する必要があるから、専用の配合機で比率を調整するの。それから、配合が本当に使えるかどうかも何度も試さないといけない。三日で600個のクロワッサンを作って、100種類の配合を試したわ。主な差は加水率、バターの配合、発酵時間、温度などね」
「600個? そんなに?」
林毅はわずかに驚いたような表情を浮かべた。それが演技なのか、本当に驚いているのかは分からない。
「まあ、それくらいね。無重力区域には専用の製菓ベーキングシステムがあって、大型オーブンなら一度に300kgのパンを焼けるの。それに、いちばん大きい理由は自動農業アレイに大量の予定外生産物が出るから。実際の生産には必ず変動があるから、計画には普通、ある程度の余裕が組み込まれているでしょう? 本来なら廃棄して生産循環へ戻すものなんだけど、自動農業アレイの責任者と仲が良くて、廃棄されるはずだった予定外生産物を無料でもらえたの」
「ふうん、そうなのか」
林毅は微笑みながら顎に手を当てた。
伊蔚は慎重に、痛くも痒くもない程度の弱みを一つだけ見せた。こうしておけば、社交的な仮面をより豊かにできる。話しやすくて、血の通った人間で、失敗もするし、小さな私心も持っている普通の人間だと思わせられる。それだけでも警戒心を無意識に緩めさせ、距離を一気に縮めることができる。冷たい完璧な生徒会長より、毎日宿題を写させてくれる幼馴染のほうが付き合いやすいのと同じだ。
彼がどんな反応をするのか、伊蔚は少し興味があった。
「それなら、作ったパンは全部どうしてるんだ?」
「もちろん、人にあげてるわ」
「これだけの腕なら、店を出せばかなり儲かるんじゃないか? それとも、君ほどの腕前なら店をやらないと身につかないのか?」
林毅は相変わらず微笑んでいた。ただし、その目はずっと伊蔚を見つめている。
これほど単刀直入に話題へ入り、自然に威圧感を生み、曖昧で含みのある言葉を使う。さすがは専門の政工幹部というべきか。無意識のうちに仕事モードへ入り、会話を進めている。
伊蔚がやっているのは、予定外生産物を少し受け取っただけだ。規則違反ではあるものの、せいぜい小さな過失だ。しかし予定外生産物やその派生品を使って利益を得れば、罪の大小を問わず処分の対象になり得る。
「あら、ただの趣味で友達にあげているだけよ。それなら……問題ないでしょう?」
少し無邪気に、少し善意を見せ、さらに美少女らしい可憐さを添える。この手の技はいつだって効果抜群だった。
「いやあ、もし店をやっているなら、俺も買って帰ろうと思ったんだけどな」
古典的なスマートな処理だ。質問そのものには直接答えず、褒め言葉で相手の疑念を消しにかかる。
「そう? 私の味、そんなに忘れられない?」
「はは、それも二重の意味か? でも、確かに俺は君の味がかなり好きだ」
「あなたも二重の意味で言ってるの?」
「ははは、どう思う? 艾妲さん」
その答えに、伊蔚は少し疑問を覚えた。
変なの。どうして艾妲って呼ぶの? 伊蔚のほうが呼びやすいはずなのに。
「ん? どうして艾妲って呼ぶの? 伊蔚が私の名前よ?」
林毅はにこにこと笑いながら髪を掻いた。
「伊蔚より艾妲のほうが……その、可愛いと思って。こんなに綺麗なお嬢さんなら、呼び方だって本人と同じくらい可愛くあるべきだろ?」
本当に気持ち悪いお世辞。見る目だけはあるけど、どうやら頭はおかしいらしい。
「そんなに褒めても、あなたに得なんてないわよ」
「本心だよ」
「そんなに早く本心を差し出すの? 政委さん?」
「どうやら、まだ伊蔚さんから信頼を得られていないらしいな……」
林毅はほんの少し残念そうな表情を見せた。
「ほら、さん付けに敬語に、『あなた』まで付く。あまりに堅苦しくて他人行儀よ。礼儀正しいけど、距離がある。伊蔚でいいわ」
林毅は顎に手を当て、斜め下へ視線を落とした。どうやら考え込んでいるらしい。
「伊蔚、君の言う通りだ。どうやら俺の仕事には、まだまだ改善の余地があるらしい」
その後、長い沈黙が続いた。眠くなるほど長い沈黙だった。伊蔚は窓の外の景色を眺めながら手持ち無沙汰になり、ならば自分の哀れな人生と、忌々しい世界を振り返ってみることにした。
3
伊蔚は、以前読んだ異世界系ライトノベルの主人公のように、事故に遭って女神に会い、別世界へ転生して勇者となり、栄華と富に囲まれて腐敗した封建的反動人生を送っているわけではない。
つまり、異世界転生もなければ、便利で使いやすいチート能力もない。ここは元いた世界のまま。魔法も奇跡も神も存在せず、すべてを支配しているのは、相変わらず冷酷無情な物理法則だった。
目覚めたあとに見た世界がまったく新しいものに見えたのは、記憶の中の世界から196年もの歳月が過ぎていたからだ。現在はC.E.2220年。人類が超光速を実現し、銀河へ領土を広げ始めてからすでに120年が経っている。
伊蔚の脳裏にある前世の記憶はばらばらになっている。だが、それは曖昧なのではない。断片的な記憶はまるで昨日の出来事のように鮮明だった。ただ、その大半は取るに足らない日常の断片で、本当に一本の明確な人生の線をつなげられる記憶は、大学三年へ進もうとしていた頃までだった。
伊蔚はC.E.2003年生まれの、ごく平凡な大学生だった。顔も人生も、通っていた大学さえ平凡だった。少し短かった夏休みが終わり、実家から大学へ戻るボーイング737 MAXの機内にいたことだけを覚えている。窓の外では翼から白いオイルミストと部品の破片が吹き出し、本来なら翼の下にあるはずのエンジンが消えていた。その後の記憶は、さらに壊れていった。
どうやら航空事故が起きたらしい。伊蔚は生き残ったものの脳に重傷を負い、数年後、普通の人間のように暮らすため、特殊な脳再建・ブレイン・マシン融合療法を受けた。実験的なブレイン・マシン装置が、半分しか残っていない脳へ入り込んだ。そのときから、「私」はもう「私」ではなくなっていったように思う。
少なくとも、全部が同じ「私」ではなかった。
コンピューターを自分で組んだことはあるだろうか。コンピューターの構成は用途に応じて変えられる。意識も同じだ。「自己」というものを、不可分で神秘的な「魂」だと当然のように考えたくなるが、実際にはそうではない。「自己」とは、大脳の各機能系を調整する「議会」にすぎない。全脳が起動し、各機能領域が同期し、共同で出来事を処理している状態――それが「自己」なのだ。
こう言っても分かりにくいかもしれない。たとえば、眠っているときに意識はあるだろうか?
ない。脳内のすべてのモジュールが眠り、その虚無の暗闇の中には「私」が存在しない。
では、夢を見ているとき、意識は存在するだろうか?
「私」は部分的に存在している。少なくとも、論理的思考や判断を担う前頭前皮質の「私」は存在していない。
統合情報理論によれば、意識とは情報構造であり、現実そのものが持つ内在的な属性だ。内部に因果関係を持ち、自らが自らへ影響を与える情報構造であり、構造が複雑になるほどΦ(ファイ)値は高くなる。意識の有無と水準はΦ値によって判断され、Φ値が低すぎて情報構造が単純なら意識は存在しない。Φ値がある閾値を超え、情報構造が複雑になれば意識が存在する。
意識が不可分なものではなく、具体的な判断基準があり、さらには選択して組み立て、起動することさえできるものなら、大規模な国家・公共事業に用いられるAI市民が一人分の意識だけで作られるはずがない。多くの人間の意識から優れた部分だけを抽出して設計し、人格権の問題も回避する。そのためには国家規模の資金と技術が必要で、電子化による不死を試みる小さな実験などとは、スーパーコンピューターとノートPCほどの差がある。
ここまで理解できれば、伊蔚・艾妲がどのような存在なのかも、初めて少し見えてくる。伊蔚の主体は、航空事故によって人生を変えられたあの大学生だ。伊蔚の記憶の大部分はそこから来ている。「伊蔚」が世界を理解する方法も、そこから来ている。
「伊蔚」が193歳になったとき、かつての「伊蔚」は人生の終わりを迎えた。元の肉体も機械も、もう「伊蔚」を生かしておくことができなかった。「伊蔚」は事実上のテセウスの船となり、意識も長い年月の中で摩耗し、崩れ始めていた。それでも「伊蔚」が望めば、意識構造そのものに手術を施して生き続けることはできた。かつて「伊蔚」を半生物・半機械の生命へ変えた、あの実験的ブレイン・マシン技術と同じように。
だが、その「伊蔚」には193年分の記憶、家族への思い、感動、涙が積み重なっていた。それを捨てることができなかった。「伊蔚」を構成している積み木をばらばらにして忘れることができなかった。そのすべてが、「伊蔚」が「伊蔚」であることの証だった。だから「伊蔚」は、愛する人々と築いた記憶を抱えたまま、暗闇の中へ消えていくことを選んだ。
「伊蔚」が最期にもう一度目を開いたとき、「伊蔚」の知性も記憶もすべて熱力学の深淵へ消えようとしていた。その瞬間、「伊蔚」は航空事故以前の自分の意識断片をアップロードし、すべての研究機関と公益団体へ無償で提供することを選んだ。
もしかすると、あの「伊蔚」は、かつての伊蔚にそこからもう一度人生を生き直してほしかったのかもしれない。新しい未来を試すために。
あの「伊蔚」が虚無の果てへ完全に沈んだあと、アップロードされた「伊蔚」の意識は人類による意識のAI化に関する倫理条件を満たした。そして人類が伊蔚を必要としたから、伊蔚はもう一度生まれた。
伊蔚は複数の人間の意識を混合し、人間の長所を抽出した存在だ。艦載知性システムとして設計された。平たく言えば、宇宙時代の「艦娘」、船そのものを人格化した存在である。
だが、もう一度生きるには代償があった。艦載知性として、これからの宿命は星の海で人類のために戦うことだった。
そのため伊蔚は、無尽級重型多任務巡洋艦の第一試験艦、艦番号EN-000000となった。
無尽級重型多任務巡洋艦は、2217年に始まった人類・共同体戦争における国連国際平和維持・法執行艦隊の需要に応じて開発された次世代艦艇だ。
この戦争が続く中、国際艦隊は多くの問題を露呈した。まず、国際艦隊がもともと使用していたのは人類三大国から供与された退役旧式艦だった。各艦の整備・兵站規格はばらばらで、大規模戦闘では単一の補給基地にかかる負担があまりにも大きく、共同体の戦闘群に匹敵する大艦隊を維持するのは難しかった。
国際艦隊はやむなく複数の分艦隊を協同させ、共同体戦闘群と戦う方式を採用した。その結果、艦隊戦の指揮にはさらに高い能力が要求されるようになった。急遽始動した統合先進艦艇計画は、三大国の技術を統合し、国際艦隊の需要に適応し、短期間で量産でき、武装・部品・兵站規格を共通化した艦艇を設計することを目的としていた。
さらに統合先進艦艇計画では、艦艇にモジュール式の多任務能力を要求した。基本船体と任務モジュールの組み合わせによって多様な任務へ対応し、火力についても艦種の格を越えた水準を実現する。巡洋艦船体でありながら、戦艦級をも上回る火力投射能力を持たせるというものだった。
一見すると非現実的に見えるこの設計要求が出されたのは、前線の切迫した状況ゆえだ。人類はこのような艦艇でなければ、広大で豊かな星域を守り、崩れかけた戦線を維持できなかった。そして、人類が相手にしているのは一万年以上の歴史と高度な科学技術、想像を絶する数の艦隊を保有する旋腕級文明――いわゆる共同体だった。
共同体は人馬臂に位置する。共生生命融合群体は本質的に独特な多生命融合形態であり、その融合様式ゆえに、何という種や生命なのかを定義することすら難しい。主に擬態粘菌、寄生神経虫、共生真菌、共生細菌、共生融合強制転写ウイルスという五つの基本生命形態を含み、融合した生物によって異なる表現型を示す。
共生生命融合群体の最大の特徴は、自己意識を持たないことだ。
人類の大量の研究から分かったことが一つある。共生融合生命は極めて高い知性を持つが、多くの場合、自己意志が存在しない。同化された個体は綿密な計画を立て、腹が減れば自分で食事をし、ときには恋愛さえする。チューリングテストにも完全に合格できる。だが、そのすべてに主観意識は関与していない。
残るのは一つだけ。自己複製への無限の渇望だ。
彼らが行うすべてのこと、非効率で失敗した者たちの生理構造や社会形式を模倣すること、そのすべてはただ一つの目的――より効率的に自己複製するためだ。
そもそも、暴力だけが問題を解決する唯一の手段ではない。
だからこそ、彼らはこの宇宙で最も平和的な浸透に長けた生物となった。
共生融合生命は極めて知能が高く、自己複製と感染を行う生物学的フォン・ノイマン・マシンであり、宇宙の中で果てしなく増殖し続け、自らの存在に気づくことすらない。
もし人類が自己意識を発達させていなかったら。
もし人類が生命と宇宙と万物の究極の答えを追い求める道を、そこまで遠くまで歩んでいなかったら。
人類は自己を手放し、共同体へ溶け込み、あの永遠の安寧に受け入れられる可能性があった。
だが……人類はあまりにも遠くまで来てしまった。
だから、人類と共同体の接触は戦争を意味する。双方の存在基盤が完全に相容れないからだ。
なぜなら、存在基盤とは生理構造より遥かに根源的なものだから。
一方は自己意識を至上のもの、人類の根源とみなし、生存することをただ生き残ることだけに限定しない。
もう一方は自動自覚を当然のもの、生存の根源とみなし、生きることをただ生きることだけとして捉える。
両者は互いを異端とする。和平の可能性など、断じて存在しない。
もっとも、共同体には自己意識がない。本質的には人類へ敵意を抱いているわけでもなく、そもそも敵意というものを知らない。彼らは自然現象のように存在する、ただ動く生物機械なのだ。
ある意味で、人類が戦っているのは自然環境そのものなのかもしれない。
要するに、2217年の第一次接触をもって、人類・共同体戦争が始まった。
そして、この戦争に和解の希望が存在することは永遠にない。
伊蔚は、その永遠に終わらず、無限の犠牲と苦痛を伴う戦争のために生み出された殺戮兵器だった。伊蔚の過去は熱力学の深淵へ消え、彼女が愛した人々も、彼女を愛した人々も、歴史の塵の中へ埋もれていった。
これが伊蔚・艾妲の誕生であり、C.E.2220年の人類世界だった。
いま、宇宙という劇場で、永遠の殺戮戦争が幕を開けた。
三段跳びの歩幅で、
無限の深淵へ踏み込もう。
4
「伊蔚、起きろ」
身体を誰かに揺さぶられ、伊蔚は眠そうな目をどうにか開いた。目の前にいたのは、泛亜合作から来た政委、林毅だった。どうやら斜行列車はすでに駅へ到着したらしい。
個人用拡張ページを呼び出して状況を確認する。システムログによれば、つい先ほど艦載知性システム開発チームが伊蔚のシステムに対して全面的なセキュリティ脆弱性検査を行ったらしい。そのため突然眠ってしまったのだ。新しいパッチがアップロードされ、再起動が必要だった。
「何を夢見てた? よだれまで垂らしてるぞ」
林毅はからかうような声で言い、手にしていたティッシュを差し出した。そこで初めて、伊蔚は口の端からよだれが垂れていることに気づいた。
最悪。大したことではないとはいえ、自分の意思で制御できない事故というものは、いつだって苛立たしい。
「あら、政委さんって意外と細やかな人なのね。まさかティッシュまで持ち歩いているなんて」
「ははは、若い頃に鼻炎だっただけさ。その頃の習慣なんだ」
頬を伝ったよだれを拭き、伊蔚は残ったティッシュの半分を林毅へ返した。それから身体を固定していた安全バーを持ち上げ、立ち上がる。
「じゃあ、春の女神には嫌われてるみたいね」
「でも、俺には案内してくれる優しいお嬢さんがいる。そうだろ?」
うわ、気持ち悪い。伊蔚は恥ずかしさで耐えられそうになかった。どうしてこんな台詞を、そんなに自然に口にできるの?
「うわぁ、すっごくクサい台詞。鳥肌が立ちそう」
そう言いながらも、伊蔚は少し照れたような顔を作り、そっと髪を耳へかけた。
「でも、そうは見えないな。耳が真っ赤だぞ。照れてるのか?」
「あなたって本当に空気が読めないわね。美少女の気持ちをどうして暴くのよ?」
「はは、悪かった」
伊蔚は立ち上がり、軍服姿で紙袋を抱えている林毅を見た。その姿から、ふと一つの仮説が浮かぶ。それを確かめるため、伊蔚はポケットへ手を入れて探り始めた。
林毅は伊蔚がポケットを漁るのを見て足を止め、振り返って尋ねた。
「何か落としたのか?」
「違うわ。ちょっと探し物をしてるだけ。あっ、やっぱりあった」
伊蔚がポケットから取り出したのは、150×80mmの濃緑色半透明プラスチック片二枚だった。精巧なホログラムが印刷され、光を受けるたびに色が変わる。有機元紙幣、額面100元が二枚。印刷されているのは、中国農業科学院が2059~2068年の「十年自然崩壊」期に各国へ支援した遺伝子設計作物で、稲、小麦、ジャガイモ、トウモロコシ、サツマイモの五種類だ。
「やっぱり、俺が寝ている隙にポケットへ金を入れたな」
林毅は呆気に取られたような顔で尋ねた。
「どうして分かった?」
「だって、あなたたちは昔からそうでしょう? こんな古い伝統が今まで残っているなんて、初心を忘れていない証拠ね」
伊蔚は紙幣を林毅の手の中へ押し戻した。
「ほら、さっきのクロワッサン二つは、私のおごりってことにしておくわ」
林毅は困ったように笑った。
5
駅を出ると、目の前に少し閑散とした広場が広がっていた。中央には巨大なオベリスクがそびえ、広場沿いの道路には無人自動車が一列に整然と並んでいる。
「駐屯地へは車で行くの。二十分くらいよ」
そう言いながら伊蔚は無人自動車の運転席へ向かった。林毅が尋ねる。
「そういえば、運転免許は取ったのか?」
運転免許? 伊蔚の記憶では、そんなものはとっくに消え去っている。
「免許? そんなもの、ずいぶん前に廃止されたんじゃない?」
林毅は何かを悟ったように目を見開き、それから自分の頭を軽く叩いた。
「ああ、そうか。俺はまだこの時代に慣れていないんだった。今は開拓植民地でもなければ、自分で車を運転することはほとんどないらしいな」
「この時代? ああ、あなた冷凍人ね?」
「そうだ。確かに俺は冷凍人だ」
そういうことなら、いろいろなことに説明がつく。
「どの時代から来たの?」
「C.E.2050年だ」
拡張層に遠港艦隊駐屯地の住所を入力して車を発進させる。車は予定されたルートに沿って走り始めた。その間に伊蔚は歴史データベースへ接続し、2050年に関する資料を集める。
キーワード検索。
軍人、宇宙軍、冷凍、林毅、事故――。
大量の情報が伊蔚の脳内へ流れ込み、その中から一つの言葉がベクトル空間の中で光を放った。
2050 月面衝突事件。
「あなたが冷凍されたのは、月面衝突事件が原因?」
「そうだ」
「詳しく聞いてもいい? 話したくないなら、いいけど」
「大したことじゃない。もう170年も前のことだ」
林毅は窓の外へ顔を向け、それからゆっくりと語り始めた。
「当時、俺が乗っていた艦が月周回軌道で敵艦と衝突した。こちらの艦首が敵艦を真っ二つに切り裂いたんだが、そのせいで相手の原子炉も露出した」
「そのとき俺は艦橋にいた。橙黄色に光る溶融核分裂物質が舷窓を突き破り、艦橋にいた他の人間を殺していくのを見た。死ぬ前の悲鳴は今でも覚えている。溶融した核物質が彼らの宇宙服に付着し、何もかも焼き貫いていった。最後に残ったのは、スポンジのような炭化物だった」
「俺は間一髪で脱出ポッドへ逃げ込んで助かった。ただし片腕を失い、許容線量の百万倍を超える核放射線を浴びた。もし何も起きなければ、一週間以内に身体の内側から腐り、肉塊になっていたはずだ」
「軍の後方支援病院で、上官が俺に冷凍する気はあるかと尋ねた。将来、こういう全身性の致命的な放射線障害を治療できる技術が生まれるかもしれない、と」
「俺は最初、上官に烈士として死にたいと言っていた。たとえ助かって、いつか治せたとしても、未来では俺が学んだ知識なんて全部古びている。祖国に何の貢献もできない役立たずとして生きる意味なんてあるのか、そう思っていた」
「でも、娘が駆け込んできたんだ。当時はまだ小学五年生だった。俺の手を握って、こう言った」
『パパに死んでほしくない』
娘の顔を見た瞬間、俺は心変わりした。冬眠を選んだ。だが、俺が冷凍カプセルから掘り出されて蘇生されたのは五か月前だ。リハビリ室で新しい腕と、二十歳若返った身体に慣れようとしていたとき、この時代の軍上層部が現れた。そして言った。
「林毅同志、この時代において、あなたが学んだ知識はすでに大きく時代遅れとなり、現代の宇宙戦には適用できません。退役して復員することもできます。我々が今後の生活と仕事を手配し、安全と安定を保障します」
「しかし現在、人類は異星文明と交戦し、多大な損失を被っています。我々は、あなたが旧時代に政委を務めていた記録を確認しました。関連記録によれば、その分野での能力は極めて優秀です。あなたは今なお政治工作の分野で能力を発揮できます」
「我々は侵略者に対抗するため国際艦隊の編成に参加する必要があります。もしあなたが望むなら、国際艦隊へ入り、政委を務めてもらうことになります」
「この任務が極めて困難であることは間違いありません。ですから、我々があなたの意思を強制することは決してありません」
「それで、軍の提案を受け入れたの? 本当なら休んでいてもよかったのに」
伊蔚の言葉を聞き、林毅は微笑んで答えた。
「軍は俺が苦境にあったとき、俺を見捨てなかった。そんな軍が俺を必要としているときに、どうして逃げられる?」
「あなたは責任を重く見すぎるわ。この時代、こんな人がいるのは泛亜と欧聯の軍隊くらい。だから政委に選ばれたのね」
林毅は怒ることもなく、続けた。
「祖国も、まさにそこを評価したからこそ、俺を新しい時代で再び働かせることに安心できたんだろう」
実に、隙のない答えだった。
「それで、解凍されてからは? 娘さんには会いに行った?」
伊蔚は覚えている。2070年以降、人類の自然死率は限りなくゼロに近づいていた。事故さえなければ、林毅は娘と再会できたはずだ。
林毅の顔には何の表情も浮かばなかった。ただ黙り込んでいた。数秒後、目に涙が滲み、それを見て伊蔚は自分が触れてはいけないところに触れたと悟った。
「あ、ごめんなさい。何か言ってはいけないことを言った? 本当にごめん。悪気はなかったの」
「いや、謝らなくていい」
林毅はかすれた声で続けた。
「2053年の霧月事件――月面で起きた奇異物質の爆撃事故が、娘の命を奪った。事件当時、娘と妻は大連のリゾートで休暇を過ごしていた」
「大質量の奇異物質が励起した重力パルス振動が、北京時間午前3時53分に地球へ到達した。深部の地質構造が重力パルスに揺さぶられ、月震誘発型の二次地震が世界を覆い始めた」
「大連は華北の郯廬断裂帯、渤海大型逆衝区の上に位置している。横波だけで大連市の地表建築物は一瞬にして崩壊した。二人は苦しまず、眠ったまま逝った。その後、10m級の渤海津波が二人の遺体ごと大連市全体を海へ巻き込み、何も残らなかった……」
「あの地震は冷凍データベースも破壊した。だから俺は、今になってやっと目覚めたんだ」
「霧月事件記念碑へ行って二人を弔いたいと思っていた。だが2219年の『壊れた揺り籠』事件で、共同体は地月系を完全に破壊した。そして俺が目覚める十か月前、共同体は地球を破壊した。二人を弔う機会さえ、もう残っていない。それだけだ……」
最後には林毅の声が詰まった。それでも感情を失った状態から一分も経たないうちに、彼は素早く自分を立て直した。伊蔚はその自己制御能力に驚いた。解凍されてからの彼は、胸の奥にしまっていたものを誰かに話したかったのだろう。だが、話せる相手を見つけられず、今日まで抱えていたのかもしれない。
もちろん、すべてが身分設定だった可能性も排除できない。諜報員には誰であれ、完全で緻密な身の上話が用意されていることが多く、しかも人の心を動かすような物語になっている。
現代では、記憶から過去までを完全に偽造した諜報員を技術で作ることなど難しくない。前例がないわけでもない。冷凍人は、よく使われる身分設定の一つだ。
そうした諜報員は、編み上げられた物語を自分の本当の人生だと完全に信じている。実際に仮想空間で一つの人生を経験しているのだから、たとえ仮想であっても、彼らにとっては疑いようのない現実なのだ。
伊蔚は、泛亜合作がここへスパイを送り込む必要があるとは思わないし、そんな非道な手段を使うとも思っていない。それでも疑いを持ち続けることは、態度の誤りから非論理的な判断を犯すのを防ぐ有力な保険になる。
「ごめんなさい。取り乱したわ。あなたの前でこんなことを話すべきじゃなかった」
「いや、むしろ謝るべきなのは俺のほうだ。俺がこの話を振らなければ、こんなことにはならなかった。でも、これから何かつらいことがあったら、いつでも俺に話してくれ」
伊蔚は固く信じていた。口は災いの元、行動は過ちを招く。時間と情報がすべてを証明してくれる。
林毅は微笑んだ。
「うん。ありがとう」
6
車は門衛所と楓林を抜け、静かな大学キャンパスの奥へ進んでいった。ここは本来、遠港総合大学のキャンパスとして使われるはずだった。しかし、オリオン星群の深宇宙開発計画が戦争によって中断され、人口移転も新大学の開設も当然続行できなくなった。空いた遠港総合大学のキャンパスは国際艦隊に接収され、現在まで遠港艦隊の駐屯地として使われている。
「あ、着いたわ。降りる準備をして」
伊蔚が窓の外を指した。そこには美しい荘園風の建物があった。壮大ではなく、東欧平原にあるトルストイの旧邸宅を思わせる。広々とした芝生と花壇があり、白い壁、傾斜した屋根は柔らかな淡緑色に塗られている。
車を降りると、伊蔚はわざと歩みを遅くし、林毅を先に歩かせた。彼が自分の意図的に曖昧な紹介から本当の正体を推測したかどうか、伊蔚には確信がない。だが、それはもう重要ではない。実質的な証拠をまだ手にしていないのなら、「驚き」はまだ「驚き」のままだ。
伊蔚は命令を下し、身につけた日常服を構成している微小機械を標準艦装形態へ戻させた。艦装は身体に密着した宇宙服を基礎に、淡白色を基調として黒と金のラインや色面を組み合わせ、実用性と美観を両立している。
背中には暗灰色の生体機械式脊柱支援システムがあり、機械脊柱には小型化された兵器が接続されている。コンピューターケースほどの大きさの対人ミサイル発射箱が二基、30mm口径の速射電磁砲が二門、身体を取り囲むレール、その上に装備された四枚の菱形高分子ポリマー防盾、四基の小型アクティブ・フェーズド・アレイ・レーダー。腰から下には、多葉構造のスカート型統合姿勢制御・推進システムが配置されている。
艦装の設計は戦艦の実際の兵装を反映していない。すべての装備は必要に応じて自由に変更でき、武器は儀礼展示、艦内反乱の鎮圧、敵の強襲・制圧への対処にしか使われない。艦装の総重量は約1トンで、艦装を構成するために消費した質量は量子トンネルを通じて輸送される凝縮状態粒子群で補われる。
この瞬間、伊蔚はついに、ライトノベルの主人公が正体を隠して相手を驚かせるときの気分を、身をもって味わえた。いやあ、実に心が躍る。
林毅は白く塗られた木の扉をノックし、それから振り返った。
表情が変化しかけた瞬間、彼はそれを抑え込んだ。しかし目だけは大きく見開かれ、隠しきれない驚きが滲んでいる。
そう、それこそ伊蔚が見たかった反応だった。
少女は両手を姿勢制御システムへ置き、開くような仕草をした。身体を前へ傾け、わずかに俯きながら微笑み、右足で円を描くように後ろへ引いて膝を折る。
このカーテシーを優雅に見せるため、伊蔚は仮想空間で長い時間をかけて練習した。
国際艦隊は、こういうところがよくない。礼儀作法に関する細かい規則が多すぎるのだ。
「改めて自己紹介します。遠港巡駆艦隊旗艦、艦載知性・伊蔚・艾妲。政委同志に敬礼します」
林毅は両足を揃えて直立し、右手を上げて答礼した。
「伊蔚同志に敬礼」
7
扉を開けた瞬間、そこに雪崩が現れた。
金、青、黒、赤、桃、紫、白――色とりどりの髪をした少女たちが、ドミノ倒しのように絨毯の上へ折り重なり、まるで虹が入口で溶けたような有様になっている。容姿と体格からして、年齢は12~15歳ほどだろう。十人以上はいる。入口は完全に塞がれていた。
「わあ、押し潰されちゃう。早くどいてよぉ」
いちばん下で絨毯と密着している少女が不満そうに訴えた。
「ご、ごめん。今すぐ起きるから」
上に乗っていた少女たちが慌てて立ち上がる。少女たちは服についた埃を払いながら入口へ集まり、好奇心いっぱいに外を覗いた。先頭にいた金髪の少女は空色の瞳をくるくるさせ、伊蔚と林毅を交互に見つめる。そして、表情が次第に信じられないものを見る顔へ変わっていった。
「わあ! 伊蔚姐、彼氏できたんだ!」
そのとんでもない発言を皮切りに、少女たちは一気に騒ぎ始めた。口々に囁き合っている。
「今度の人はどんな達人なの?」
「わあ、早く顔を見せてよ」
「ちょっと、押さないでよ」
「お姉さまを私から奪った……」
このまま噂を膨らませれば取り返しがつかなくなると感じた伊蔚は、仕方なく自分から説明した。
「はいはい、紹介するね。この人は林毅政委。泛亜合作から来た人よ」
少女たちの表情が一瞬で固まり、目に次第に恐怖が浮かんだ。金髪の少女がおそるおそる手を挙げる。
「せ……政委?」
「うん。新しい政委よ」
「うわああっ!」
少女たちは一斉に叫び、容赦なく背を向けて建物の奥へ逃げていった。その撤退の速さは、まさに「退却転進、その疾きこと風の如し」だった。
次の瞬間には、伊蔚の背後に三人の少女だけが残り、怯えながら彼女の脚へしがみついていた。羽衣、甘藍、三色堇の三人だ。
羽衣は金髪の少女で、活発で動き回る性格。甘藍はその正反対で、いつも眠そうにしている。三色堇は三人の中でも特に変わっていて、ほとんど喋らず、たいていの意思疎通を表情と仕草だけで済ませる。
「みんなが逃げた理由は分からないけど、どうしてあなたたちは残ったの?」
林毅は伊蔚の背後にいる少女たちを不思議そうに見た。
甘藍はおずおずと頭の魔法使い帽子を引き下げ、目を隠しながら小さな声で言った。
「だって……私たちは駆逐指揮艦だから」
羽衣は決死の覚悟を決めたような表情で、伊蔚の前に両腕を広げて立った。
「お願い、伊蔚を連れていかないで。戦闘のことだって、思想のことだって、伊蔚は敵じゃないし、陰謀組織とも関係ない。きっと、何かの間違いなんだよ」
三色堇は何も言わなかった。ただ獣のような目で林毅を睨み、背中に隠した右手では自衛拳銃を固く握り締めていた。
「はいはい、あなたたちは先に部屋へ戻って。林毅政委はあなたたちが思っているような人じゃないし、そんなに敵意を向ける必要はないわ。あとでちゃんと説明するから」
「伊蔚……」
羽衣は伊蔚の手を握り、心配そうな表情を浮かべ続けている。伊蔚は羽衣の手を優しく叩き、それから甘藍と三色堇を見る。二人も伊蔚の視線に逆らえず、しょんぼりしながら部屋へ戻っていった。
「ごめんなさい。みんな、本当は悪気があるわけじゃないの」
伊蔚は林毅へ振り返り、苦笑した。
「気にしなくていい。理由はだいたい想像がつく。前任の政委のせいだろ? 誤解されることも、理解されないことも、俺たちの仕事じゃよくある。慣れてるよ」
そう言って林毅は小さくため息をついた。
「前の政委、あなたたちにひどいことをしていたの?」
伊蔚は苦笑した。
「前の政委は……政委というより督戦官と言ったほうが近いかも。その人、以前は欧州連邦の秘密警察で働いていて、性格もかなり変わっていたの。特に政治に対して異常なくらい熱心だった」
「それは大変だったな。君たちも苦労しただろ?」
「実際には、そこまででもないわ。前任の政委は名目上ここに籍を置いていただけで、たまに視察に来る程度。主な仕事は連合戦線の監査だった。でも、来るたびにみんな緊張していたわ。ああ、入口で話し続けてしまったわね。まず部屋を案内するわ」
伊蔚は少し身体を横へずらし、入口に立ったまま、使用人のような仕草で手のひらをリビングへ向けた。
8
政委用の部屋に特別なところはない。普通の広さの一人用宿舎で、シーツの敷かれていないダブルベッド、壁に埋め込まれたクローゼット、窓際のデスクがある。窓の外の景色も特別なものではなかった。
「荷物をほとんど持ってきていないみたいね。生活用品が必要なら、私が用意するわ」
「いや、ありがとう。自分でやるよ」
林毅は入口に立つ伊蔚へ手を振った。
「じゃあ邪魔しないわ。夕食を作ってくる。七時くらいにはできると思う」
「うん、ありがとう」
伊蔚がそっと扉を閉める。林毅は柔らかなマットレスへ横になり、窓から差し込む暖かな光を顔に受けた。国際艦隊というのは本当に贅沢を知っている。ベッドまでこんなに柔らかい。資本主義は人の心を腐らせるな。
伊蔚。可愛らしい少女で、この少女たちの中では最年長。それでも見た目はせいぜい16歳ほどだが、性格はかなり成熟している。
意識が徐々に眠りへ落ちていく。この生活は以前に比べればあまりにも堕落していた。眠気が本格化する前に、林毅は無理やり身体を起こした。
まず軍服を脱ごう。軍服姿ではあまりにも堅苦しく見え、政委という役職を改めて築くには不利だろう。その前に、プリントアレイへ行って私服と生活用品を出力しなければならない。
透明な保護壁の向こうで、淡い青色を放つ微小機械が移送プローブの誘導を受けながら、猛烈な速度で分子を組み上げていく。シャツ一着を作るのにわずか200ms。少し複雑な服でも一秒少々しかかからない。
ピッ!
プリントアレイにプログラム実行完了の表示が出る。微小機械群は潮が引くように後退し、透明な保護壁も横へ収納される。林毅は出来上がった服の束を抱え上げた。
部屋を出ると、廊下の奥にいた小さな人影が、まるで悪魔を見たかのように一目散に逃げていった。
仕方がない。見知らぬ男が突然、彼女たちの生活へ入り込んできたのだから、簡単に受け入れられるものではない。少女たちが政委を警戒するのも無理はない。一部の人間にとって「政委」という言葉は、凶悪な督戦隊、粛反委員、秘密警察と同義であり、兵士を監視し、思想を洗脳する悪人のことを意味している。だが実際は違う。少なくとも泛亜合作ではそうではない。
中身のない決まり文句ならこう言うだろう。政委の主な職責は部隊や組織の政治工作を組織・指導し、軍隊や組織の思想建設を担い、規律を安定させ、政治教育を統括することだ、と。
だが実際には、政委の仕事は軍隊における精神科医にも近い。それは軍隊が兵士を機械として扱う状態から、兵士を人間として扱う状態へ変わるための仕組みだ。
政委のいない軍隊では、軍事主官が最高権力を独占し、部下の兵士の生殺与奪を握る。軍事主官は兵士を好き勝手に罵り、殴り、必死の任務を強制することもできる。兵士が命令に従うのは恐怖ゆえであり、何のために戦うのかすら分からない。それは軍隊の士気を弱め、組織力に先天的な欠陥をもたらす。
政委の存在は軍事主官の過大な権力を分割し、権力を独占した軍事主官が兵士を消耗品として扱うことを防ぐ。将校と兵士の対立を和らげ、軍事主官と政委による二首長制は軍内の民主的な意思決定も円滑にする。もちろん、すべては健全な軍内慣行の構築にかかっている。どれほど優れた制度でも、規則に従って運用されなければ結局は空論だ。
ただし国際艦隊では、政委という職位が持つ権限と責任は泛亜合作ほど強くない。こちらには支部も党もないからだ。政委による軍事主官への拘束力は弱い。それでも、ないよりはましだ。これからの仕事で、林毅は伊蔚と協力することになる。
9
広い食堂には、ナイフとフォークが皿を擦る音だけが響いていた。今夜の料理はかなり豪華だ。黒胡椒ソースをたっぷりかけた熱々のTボーンステーキ、クリームマッシュルームソースのパスタ、大盛りのシーフードリゾット、熱々のトマトと卵炒め、ネギを散らした麻婆豆腐……
テーブルの籠には、押し潰されて変形したパンも置かれている。
夕食はビュッフェ形式で、これは国際艦隊の伝統だった。どの国から来た人間でも、分け隔てなくもてなせる。林毅は向かいに座る伊蔚を見上げた。
「林毅政委、今夜の料理はお口に合いますか?」
「思っていたよりずっと豪華だな。これ、全部君が一人で作ったのか?」
「そうは言っても、ほとんどは自動調理機がやったことです。私は少し指揮して手を加えただけ。大したことではありません」
「俺も料理には経験がある。自動調理機の味は、良くも悪くも中庸だ。料理は人間の体験のためにある。俺はむしろ、人間による主観的な調整こそが一番重要だと思っている」
「林毅政委、買いかぶりすぎですよ」
「けっ、ゴマすり野郎」
少し離れたところから、小さいがはっきりした呟きが聞こえた。羽衣、甘藍、三色堇の三人が並んで座り、全員が林毅を敵意に満ちた目で睨んでいる。手の中ではナイフとフォークを握り締め、皿の上のステーキを力いっぱい切り分け、肉を口へ押し込み、これでもかと咀嚼している。その様子は、まるで林毅が極悪非道な牛肉そのものになったかのようだった。
これはまずい。三人の駆逐指揮艦は、明らかに敵意を示している。
「全部聞こえてるわよ。政委同志にそんな失礼なことを言わないの」
伊蔚は首を傾けて三人を見た。そう言ってから林毅へ申し訳なさそうな笑みを向ける。その姿は、客をもてなす母親が子供に礼儀を教えているように見えた。
「伊蔚って、本当に家庭のお母さんみたいで安心するな」
林毅がそう言った瞬間、ナイフとフォークの触れ合う音まで完全に止まった。
羽衣、甘藍、三色堇は悲しみと幸せそうな意地悪さが顔に出ないよう必死にこらえていた。短い幸運を喜んだあと、三人の笑顔には次第に苦いものが混じっていった。
どうやら、言ってはいけないことを言ってしまったらしい。
林毅は伊蔚へ視線を移した。彼女はまだ笑みを浮かべていたが、その目は微妙に変化している。そこには過去を思い出し、現在を嘆き、そしてどうにもならない事実を受け入れる複雑な感情が入り混じっていた。
林毅には、なぜその言葉だけで伊蔚がこんな複雑な感情を見せたのか、理解できなかった。
「林毅政委……」
伊蔚は何かを言う前に、少しだけ間を置いた。
「……女の子にとって、それはあまり褒め言葉じゃないわ」
伊蔚は手にしていたカップを置いた。
「ごめんなさい。お腹いっぱいになったので、先に失礼させてもらうわ」
宴会の主催者である伊蔚は、客を迎える側の立場も顧みず席を立った。どうやら、あの一言は本当に踏んではいけないところを踏み抜いたらしい。
伊蔚の姿が廊下の向こうへ消え、足音も次第に遠ざかっていく。
林毅はため息をついた。これは仕事上の失敗だ。深く自己批判し、反省しなければならない。
まず、挑発を受けた際に戦略的冷静さを維持できず、重要な情報が足りないまま軽率に動いた。軽敵冒進という失策だ。こんな低級なミスを犯すなど、あまりにも情けない。リハビリ中の安逸な生活で、仕事のときの厳密さを失ってしまったのだろう。恥を知れ!
だが、前向きに考えよう。何事も最初が一番難しい。
機会を見つけて突破口を開けば、仕事が進まないことはない。
10
遠港艦隊での仕事は、林毅が想像していた以上に難しかった。
女心が海底の針なら、遠港艦隊は間違いなく針山地獄だ。
遠港艦隊の駐屯地へ来てから一週間。ここでの生活はリハビリ中よりもさらに安逸だった。毎朝の起床ラッパはなく、自然に目を覚ますまで眠っていられる。それでも生体リズムのおかげで、林毅は朝六時には目を覚ましていた。
遠港には朝の訓練という習慣がない。少女たちの目に、朝起きて家の周りを大声で叫びながら走り回る変人として映るのを避けるため、林毅は校内の運動場まで走って身体を鍛えることにした。運動場まで約2500m、訓練を終えて走って戻れば、ちょうど5000mになる。
戻ってくると、ちょうど伊蔚の朝食に間に合う。パン、ソーセージ、ベーコン、牛乳、コーヒー、オートミールなど、いかにも洋風の食事だ。伊蔚は以前、朝に中華料理を食べるかと尋ねてきた。冷麺、熱乾麺、牛肉麺などだ。
林毅は断った。特別扱いを受けるわけにはいかない。まずは集団へ溶け込み、その上で仕事を始めるべきだ。麺の丼を抱えて隅でずるずる食べていたら、少女たちが陰で何と言うか分かったものではない。少なくとも、偉そうに振る舞って現場の兵士から浮いているという評価は避けられない。
料理にも慣れてしまえば悪くない。当時、林毅が米国ロングアイランド宇宙軍事学院へ交換留学生として派遣されたときも、似たような料理を食べていた。
食後は「仕事」と呼ばれる自由時間だ。現在の遠港が調整期にあるためか、上層部も伊蔚も林毅に特別な任務を与えていない。毎日出勤を記録し、要求された報告書を書けば、それで一日の仕事は終わりだった。
何もしなくていい生活は、想像以上に快適で、そして予想以上に苦しかった。
林毅は過去の人生を振り返った。本当に忙しい人生だった。毎日の仕事は終わることなく、朝から深夜まで働いていた。それに比べれば、今の生活はまるで定年後に家で暮らしているようなものだ。むしろ強烈な不安が胸に湧き上がる。軍人にとって、この暇さは自分の存在意義そのものを疑わせるものだった。
ここ数日、林毅は遠港艦隊の編成を詳しく分析した。現在分かっている限り、遠港には一個の巡駆艦隊があり、その指揮官は伊蔚・艾妲。巡駆艦隊には三個の分遣隊が所属し、羽衣率いる第一隊が駆逐艦9隻、甘藍率いる第二隊が駆逐艦9隻、三色堇率いる第三隊が駆逐艦9隻となっている。
つまり、無尽級巡洋艦の旗艦一隻、前衛級駆逐指揮艦三隻、前衛級駆逐艦二十四隻、合計二十八隻。中規模の高速機動戦力であり、極めて短時間で前線の交戦星域へ展開できる。
具体的な作戦内容について、伊蔚は林毅に詳しく話していない。ただ、前線の穴を監視し、友軍艦隊と連携して迎撃線を突破した共同体艦隊を阻止すると同時に、前線戦闘データを収集し、共同体への軍事指揮決定に使う参考サンプルを提供している、と曖昧に説明した。
現在の暇な状態は、共同体による度重なる強攻が挫折し、やむなく戦力を蓄える潜伏状態へ移行したためらしい。また遠港艦隊は新型艦艇と新技術を大量に採用した実験的艦隊でもあり、戦力の使用にはかなり慎重だった。
同時に、遠港巡駆艦隊の機密等級も非常に高い。資料を取得するだけでも面倒で、なぜ資料が必要なのかを申請書に書き、返事を待ち、却下されればまた書き直す。それを承認されるまで繰り返さなければならない。
現在林毅が入手した資料だけを見るなら、遠港艦隊は世界初の正式に編制された高度自動化艦隊である可能性が高い。つまり、艦内に乗員はおらず、艦載知性が艦そのものを完全に制御する。それなら遠港の駐屯地でほとんど人を見かけない理由も説明がつく。
艦載知性は例外なく、光沢のある長髪を持っている。この髪は正式には光導髪と呼ばれ、光ファイバーと同じ役割を果たす。艦載知性の人型機体に搭載された光量子脳は、光導髪を介して外部機器と大容量の接続を行えるため、別途インターフェースを開く必要がない。そのため少女たちの髪色はアニメから飛び出してきたように色とりどりだが、不思議なほど自然に見える。
伊蔚を除けば、少女たちは皆、林毅を警戒している。林毅を中心に半径5mの絶対真空域が形成され、どんなに活発な性格の少女でも林毅が近づくと、すぐ口を閉ざして沈黙する。話しかけようとしても、むしろ事態を悪化させるだけだった。
名前を呼んだだけで、少女たちは取り調べを受けている囚人のように身体を硬直させ、目を見開く。何でもない質問ですら、言葉を濁し、口ごもり、三十秒たっても一言も出てこない。中には反尋問訓練でも受けたかのように、何を聞いても一言も答えない者までいる。
少女たちにとって林毅は、ディストピア小説『1984』に出てくる思想警察そのものなのだろう。林毅がいると気づいただけで、何もしていなくても、少女たちの行動はわざとらしくなり、何かの基準へ合わせようとする。当たり前のように何度もそうした光景を目にしているうち、林毅は部屋の外へ出て少女たちに近づくことすら罪悪感を覚えるようになった。
少女たちの反応も無理はない。林毅は前任の政委の記録を取り寄せた。前任者の名はエーリッヒ・オイゲン・ブルヴィッツ。欧州連邦秘密警察総局・憲法擁護局の局長で、反諜報と国家安全保障を担当する、正真正銘の諜報機関の人間だった。
彼のような秘密警察の人間が国際艦隊にいることは珍しくない。そもそも国際艦隊自体が、多国の意思が入り混じる利害対立の場だ。ある意味では、国際艦隊は現在、合法的に情報要員を派遣・配置できる唯一の機関であり、三大国の諜報員がここで暗闘するのも当然だった。
記録に残るエーリッヒは、学者のような雰囲気を持つ若い男性だった。金髪碧眼、痩せた顔立ち、古典的で明瞭な輪郭は彫刻のようだった。きちんとした黒い制服を着て、肩章の徽章は冷たい光を反射するほど磨き上げられている。顔にはかすかな笑みが浮かび、濃紺の瞳には不安を覚えるほど鋭い光が宿っていた。
容姿を一言で評価するなら、ドイツ人よりもドイツ人らしく、アーリア人の中のアーリア人、とでも言うしかない。
注目すべきなのは、エーリッヒが国際艦隊に招かれて来たということだ。招いた理由は簡単で、国際艦隊内部に存在する可能性のある反意識主義者を調査するためだった。
そして、その死因はさらに奇妙だった。時刻なし。場所なし。ただ簡単な二文字だけ。
自殺。
林毅は思った。まともな人間なら、こんな結果を受け入れるはずがない。憲法擁護局長が反意識主義者を調査している最中に自殺? 冗談にもほどがある。
だがエーリッヒの死は、そのまま自殺として処理された。つまり、この事件の裏には何かが隠されている。国際艦隊と三大国の上層部は、この件について口にできない合意を交わし、もっとも目立たない形で消し去ることを選んだのだろう。
上層部がこの件を隠すと決めた以上、禁足地を越えて知るべきでないことを知ろうとすれば、ろくな結末にはならない。聞いてはいけない秘密は聞かない。見てはいけない秘密は見ない。それを理解していても、林毅は考えずにはいられなかった。反意識主義者を調査していた人物が、かつて遠港艦隊の政委を務めていた。――もしかして、遠港艦隊の中に反意識主義者がいるのか?
少女たちの不自然な態度も、その推測を裏付けているように見える。エーリッヒは間違いなく厳格な内部調査を行った。そして、何を突き止めたかに関係なく、彼の死そのものが一つのことを示していた。
遠港艦隊の水は、林毅が想像していたより遥かに深いのかもしれない。
ふう。革命軍人は、一つ、苦労を恐れず、二つ、死を恐れない。
仕事で壁にぶつかったからといって退こうとする? それはだめだ。
だが林毅の本来の仕事は政委であり、国際艦隊の秘密を調べるのは越権行為だ。この件は少し後回しにしてもいい。遠港艦隊の少女たちと良好な関係を築けなければ、国際艦隊の秘密へ近づこうとしても絵に描いた餅だ。
なら、今の問題を解決するには主要な矛盾を掴むべきだ。なぜ少女たちは怖がっている? 当然、前任者の調査がまだ終わっていないと思っているからだ。また血なまぐさい監査や粛清が始まるのではないかと怯えている。
ならば、どうすれば林毅が彼女たちを取り調べる側の人間ではないと知らせ、信じてもらえる?
これはさすがの林毅も頭を悩ませた。
問題を解決するなら、まず正しい相手を見つけなければならない。だから林毅は伊蔚と「駆逐艦御三家」と良好な関係を築く必要がある。軍隊内部は階級秩序の厳しい社会であり、海軍から発展した宇宙軍ではそれがさらに顕著だ。宇宙で命令に従わなければ、しばしば一隻の艦に乗る全員が悲惨な死を迎える。
ただし、関係を築く過程はあまり露骨であってはならない。謀を定めてから動き、引くべきところを知ってこそ得るものがある。
11
コンコンコン。
「どうぞ」
林毅は伊蔚の執務室の扉を開けた。第一印象は、とにかく広いことだった。巨大な全面窓が一面を丸ごと占め、外には橙黄色の光を反射する湖面が広がっている。柔らかく静かな景色だ。全面窓の両側には国際艦隊のフロアバナーが立ち、濃紺の旗が中央の伊蔚を取り囲んでいる。
伊蔚の前には極端にシンプルな赤木のデスクがあり、点灯した拡張ディスプレイが三つ浮いているだけだった。それ以外には何もない。大量のデータやグラフを流していたディスプレイも、林毅が入った途端に止まった。
伊蔚は林毅の来訪に驚いていないようだった。最初は恐ろしいほど冷たい目をしていたが、すぐに生き生きとしたものへ変わり、泉を注いだような柔らかな光を帯びる。少し子供っぽい笑みが浮かび、それは問題用紙をめくったら、自分の中ですでに出していた答えが正解だと確認できたような笑みだった。
伊蔚は濃紺の軍服を整え、それから椅子から立ち上がった。
「林毅政委、いつ来るのかなって、ちょうど考えていたところよ」
「どうして俺が君のところへ来ると分かった?」
「直感」
林毅が伊蔚の目を見ると、その澄み切った純粋な視線が、彼女が何も隠していないことを証明していた。
「遠港艦隊について、もう少し深く知りたい。ここへ来て一週間になるが、この一週間一緒に過ごしても疑問は減るどころか増える一方だ。だから、君に聞きに来た」
伊蔚は微笑んだ。
「もちろんいいわ。でも今、遠港巡駆艦隊の各艦の整備・点検処理をしているところなの。よければ、少し待ってくれる?」
「問題ない」
伊蔚は頷き、脇の応接スペースを指差した。
「テーブルの上のポットには紅茶が入っているわ。コーヒーがいいなら、そこにコーヒーメーカーもある。あと二十分くらいで仕事が終わると思うから、少し待っていて」
「分かった」
林毅はソファへ座り、ポットから湯気の立つ紅茶を自分のカップへ注いだ。香りは濃厚で、色も透き通っている。安物ではなさそうだ。
振り返って伊蔚を見ると、彼女の前の拡張ディスプレイにはデータと画像が流れていた。林毅は、必要なときAI市民の主観時間感覚が驚異の一千万倍に達することがあると、以前誰かから聞いたことがある。
待っている間、じっとしていられない林毅は室内を詳しく観察し始めた。部屋の左側の壁には、さまざまなハードカバーの専門書がびっしり並んでいる。
『超光速航行概論』
『艦載知性概論』
『深宇宙航行と超光速状況下における艦隊戦術』
『深宇宙センシングと情報分析の応用』
『世界の宇宙強国――三大国宇宙軍の古典的戦術事例分析』
『無畏星海2125――第一次星間戦争全史』
『無畏星海2125――グリフィス事件』
『23世紀の深宇宙戦略――宇宙軍』
『23世紀の深宇宙戦略と政策――国際地政学』
『深宇宙へ――三大国星間冷戦期の深宇宙艦艇』
『艦隊戦術――対星火力支援・前方偵察システムの主要技術と作戦様式』
『艦隊戦術――戦艦の軸砲火力が現代の戦艦設計と艦隊指揮に与えた影響』
『艦隊戦術――超光速宇宙戦における情報感知能力への需要が航空母艦を復活させた理由』
『艦隊戦略――戦区工業母艦が伝統的な艦隊決戦戦略をいかに崩壊させたか』
『艦隊戦略――惑星裂解艦が戦略的支点となり、戦争構造をいかに変えたか』
『艦隊兵站――過去、現在、そして未来』
『艦隊兵站――現代戦への補給』
『星間時代の艦隊兵站とサプライチェーン管理』
『戦略機動と艦隊兵站』
『艦隊戦力における兵站の役割』
『通商破壊と対破壊――深宇宙交通線|新時代の人類の生命線』
『星間時代の全面超限戦――スターゲートシステムの脆弱性』
……
林毅はそれらの本の背表紙や小口に異なる色のプラスチックタグが付けられているのを見た。どうやら装飾ではないらしい。だが、この時代に伊蔚のように紙の本を読む人間は珍しい。林毅の時代ですら、たいていはスマートフォンや電子リーダーで本を読んでいた。
こうした専門性の高い本とは別に、本棚には一角だけ空けられ、統合先進艦艇計画の縮尺模型が並べられていた。林毅が遠港艦隊へ来る前、統合先進艦艇計画は林毅の補習の重点項目だった。
統合先進艦艇計画によって、国際艦隊は完全自主設計の艦艇群を持つようになり、三大国の退役旧式艦を使用するという従来の慣習から脱し始めた。ただし国際艦隊の主力を構成しているのは、依然として各国から供与された退役旧式艦艇だった。
現在、統合先進艦艇計画はスクリーン艦の設計・製造を完了している。つまり巡洋艦およびそれ以下の艦種だ。戦艦や航空母艦などの主力艦は、なお後方の秘匿ドックで建造中で、進捗はまだ分からない。
向かいの壁には大量の額縁が掛かっていた。大半はさまざまな戦艦を撮影した写真だ。林毅はそれらの艦艇の具体的な技術・戦術指標を学んだことはあるが、わずか数か月の突貫補習だったため、十分に理解しているとは到底言えない。
戦艦の写真以外に残っているのは集合写真だった。何枚かには伊蔚と巡駆艦隊が一緒に写っている。その他の写真にいる人物は、伊蔚以外、林毅には誰一人として分からなかった。
林毅は紅茶を手に額縁の前へ立ち、じっくりと写真を見つめた。右下の隅には、こんな文字がある。
遠港第十一特別混成艦隊
遠港第九長距離戦略打撃艦隊
遠港戦略補給艦隊
林毅には聞いたことのない艦隊名だった。隅にあるタイムスタンプを見ると、写真の撮影日は2219年6月13日、6月21日、7月8日……計算すると、ほぼ一年前の写真だ。
この写真に写っている人々は……別の戦区へ転属して任務に就いているのでなければ、おそらく2219年の戦闘で全員戦死した。間違っていなければ、伊蔚はこの三つの艦隊で唯一の生存者だ。これからはこの点に注意しなければならない。以前と同じ過ちを繰り返してはいけない。
「何を見てるの?」
突然の声に、林毅は驚いてカップを落としそうになった。振り返ると、伊蔚がいつの間にか背後に立っていた。身をかがめ、横下から首を傾げて林毅を見ている。
「二十分かかるって言ってなかったか?」
「ああ、本当はそうだったんだけど、後ろの整備記録が一昨日確認した内容のままだったの。以前に審査した記録と照合してみたら、一字も変わってなくて、照合率100%。どうやら後方支援部門が少し怠けているみたい。報告書を適当に処理した疑いがあるわ」
「つまり……」
「後方支援整備室と港へ行くの」
「俺も一緒に行く」
「うん。でも、さっき何を見てたのかはまだ教えてくれてないわよね」
うっ、どうしよう?
本当のことを言えば、地雷を踏み抜く可能性が高い。ただでさえ低かった第一印象が、さらに悪くなる。
曖昧に答えて、適当に誤魔化す?
それも駄目そうだ。観察に関して言えば、林毅の目から見ても伊蔚は間違いなく別格だ。写真を見ていたときに林毅が何を考えていたのか、彼女はすでに察している可能性が高い。
なら、この質問も、自分の推測が正しいか確かめるためなのだろう。
嘘は絶対に駄目だ。伊蔚は心の中で林毅を「嘘つき」と分類するだろう。仮に誤魔化せても、尻切れトンボの回答を彼女が納得するとも思えない。なら、正直に言う?
まあ、どう選んでも死ぬなら、いっそ潔く行こう。
「俺はただ……遠港艦隊の過去が気になっただけだ」
伊蔚は頷き、林毅の目を見つめながら人差し指で髪をくるくる巻いた。
「遠港艦隊の過去? それとも、私の過去?」
なんて答えればいいんだ? 死刑執行猶予中みたいな気分はつらいな。
「ぷっ」
伊蔚が突然吹き出した。その予想外の展開に、林毅はどうしていいか分からなくなる。
「政委同志。あなたが困っている顔、とても面白かっただけよ」
悪い女に弄ばれた。なんという屈辱だ。政委として失格だ。今日は俺の負けだ。
「政委同志がはっきり言わなかった理由なら、分かってるわ。他人のために何かをしてあげたいと思いながら、その行動が知らないうちに誰かを傷つけないよう慎重になっている。それって、政委が本当は優しくて、真面目で、善良な人だってことじゃない?」
「あっ、これはあなたを皮肉っているわけじゃないからね。だって、人間のあらゆる高尚な感情や自己犠牲の美徳は、もともと憐れみの心から生まれたものなんだから」
「……」
「まだ私のこと、許してくれてない?」
伊蔚は林毅の右手を取り、強く握った。少女の表情はいつの間にか悲しげになっている。この表情は反則だ。今にも泣き出しそうな少女を前にして、林毅にどうして冷たくできるというのか。
「そんなことない」
「それならよかった」
伊蔚は壁から額縁を外し、写真に写る顔を微笑みながら撫でた。さっきの悲しみなど、まるで一瞬の錯覚だったかのようだ。
「私たちの人生は不条理で、意味がなくて、思い通りにはならない。それは偶然。ただ無数の偶然が積み重なった結果よ。ときには、想像もしなかった苦難が突然、容赦なく私たちの頭上へ降ってくる」
伊蔚はそう言うと、自嘲するように笑い、首を振った。
「ごめんなさい。こんな暗い話をしちゃった。行きましょう」
12
後方支援整備室は林毅の想像とは大きく違っていた。オフィスというより、むしろ巨大な倉庫だ。中には統合兵站支援センターの物資が保管され、ときおり空荷のロボットアームや輸送プラットフォームがスライドレール上を高速移動する。どうやら最近は負荷がかなり低いらしい。
伊蔚に連れられて通路を右へ左へ曲がり、簡素なポリマープレハブの扉の前へ着いた。安っぽい白いプラスチックには、黒いマーカーで七文字が乱雑に書かれている。
「後方支援整備室」
伊蔚に連れてきてもらわなければ、林毅はこんな場所が遠港艦隊全体の後方支援整備を管理している部屋だとは到底信じなかっただろう。
コンコンコン。
伊蔚が扉をノックした。返事はない。
「誰もいないのか?」と林毅が怪訝そうに言った。
「いいえ」
伊蔚は扉脇の赤い紐の端を掴んで引き開けた。そう、この扉には取っ手すらない。閉まっているのは偉大なる摩擦力のおかげだ。後方支援は最も横流しが起きやすい部署だというのに、この有様。つまり、ここが本当に貧しくて首が回らないか、管理者が恐ろしくケチで扉一枚すら交換したくないか、そのどちらかだ。
扉を開けた途端、強烈な冷気が吹きつけてきた。狭くもない部屋なのに、あちこちに物が散乱して足の踏み場もない。本来は六つあるはずのデスクも一つしか出ておらず、残りは壁際に寄せられている。その上に積まれた物資は、まさに「百尺の高楼、手を伸ばせば星を摘める」状態だった。
デスクの拡張ディスプレイには、古い平面アニメ『銀河英雄伝説』が映っている。林毅には、どうして今でもこんなアニメを見る人がいるのか分からない。何しろ林毅が若かった時代ですら、すでに流行っていなかった作品だ。
デスクの前に座っているのは、黒白のメイド服を着た猫耳少女だった。いや、座っているという表現は正確ではない。オフィスチェアの上で身体をねじ曲げた姿勢は、どう見ても横になっている。
少女は右手に半分ほど飲んだコーラの瓶を持ち、左手を腹に置き、大きく口を開けている。栗色の長髪と尻尾は床まで垂れ、尖った猫耳はエアコンの冷気を受けて、ときおりぴくりと震えていた。
寝息と歯ぎしりが部屋中で交互に響き、まるでオフィス全体がウィーン楽友協会大ホールになったかのようだ。孤高の演奏家が中央に横たわり、睡眠協奏曲を演奏している。
伊蔚は通路を塞ぐゴミを蹴飛ばして少女のところまで行き、肩を強く揺さぶった。少女がわずかに頭を持ち上げ、重いまぶたが動く。伊蔚が口を開こうとした瞬間、少女はくしゃみを一つすると身体を反転させ、そのまま再び眠りに落ちた。
伊蔚は無言でポケットからハンカチを取り出して顔と髪を拭き、それからそのハンカチを少女の顔へ押し当てると、右手に握られていたコーラを奪い、ハンカチへ一気にぶちまけた。
この技は「金紙糊仏面」。顔に紙を貼り付け、水をかけて窒息させるという、古くからある拷問だ。
「んんん!」
少女は声を上げながら両手を振り回し、顔を覆うハンカチを外そうとした。しかし伊蔚はさらに強く押さえつける。数秒もすると少女は両腕をだらりと垂らし、両脚を一度蹴り出して完全に動かなくなった。
伊蔚は少女の顔からハンカチを外して尋ねた。
「どうして抵抗しなくなったの?」
椅子に横たわった少女は何度か瞬きをして答えた。
「今思い出したの。私、呼吸しなくても死なないんだった」
「はぁ……」
「伊蔚姐! 私が悪かった! 怒らないで! 欲しいものがあるなら、すぐ用意するから!」
伊蔚は額を押さえてため息をついた。
「ヴィスタ、どうして整備記録がまだ前のままなの?」
「だって……何も変わってないから。整備はもう終わってるし、アップグレードも全部延期になったから、前の記録を使っても同じでしょ?」
「もし問題が起きたら?」
「何も変わってないのに、どうして問題が起きるの?」
「駄目。規則は規則。港へ一緒に来なさい」
「伊蔚姐、勘弁してよぉ」
ヴィスタは一瞬で疲れ切ったような、そして諦めたような表情になった。だが起き上がって林毅を見ると、突然目を輝かせ、手を擦りながら尋ねた。
「あら! この人が林毅政委? まあ! 一目で分かる、一流の人材だわ! これからは政委さんにいろいろお世話にならないとね! こほん、自己紹介するわ。私はヴィスタ、灶神星級戦略後方支援艦、艦番号VE-404。現在、遠港全体の後方支援業務を管理・調整しているの。政委さん、何か必要なものがあったら私を呼んで。合法でも、非合法でも、私なら何とかして手に入れるから」
林毅はヴィスタの姿をじっと見つめ、なぜか見覚えのある感覚を覚えた。それから思い出す。遠港戦略補給艦隊と記されていた写真に、ヴィスタが写っていた。
「はいはい、ここで媚びを売らないの。準備して。私は手を洗ってくる。あなたのコーラ、ベタベタするんだから」
「ちょっと、伊蔚姐。ハンカチ忘れてるよ」
「使い捨てだから、捨てていいわ」
ヴィスタは目の前で、コーラをたっぷり吸った白いハンカチを広げた。
「使い捨て? そうは見えないけど。これ、自浄式の布地じゃない?」
ヴィスタは顔を上げて林毅を見、それから小声で言った。
「いる? 安く売るよ? これ、伊蔚姐が使ったやつ」
あまりにも露骨な「営業」に、林毅はどう答えていいか分からなかった。伊蔚が使ったハンカチを買ったことを知られたら、いったいどういうことになるのか、想像するだけでも恐ろしい。ヴィスタは林毅に買う気がないと見ると眉を上げ、ハンカチを絞ってポケットへ入れた。
「気にしないで。あとで欲しくなったら呼んでね。秘密の匿名配送もできるよ」
林毅にも、伊蔚がどうしてこの女に好意的な顔を見せないのか、少し分かった気がした。とはいえ、林毅にも聞きたいこと、手に入れたい情報がある。これは突破口を開く絶好の機会だ。
「遠港艦隊の全員が何を好きなのか知りたい。伊蔚、羽衣、甘藍、三色堇の四人については、できるだけ詳しく教えてほしい」
ヴィスタは妙な目で林毅を見た。
「プレゼント?」
「そう。プレゼントだ」
ヴィスタは少し困ったように手を擦った。
「えっと……個人の自由ではあるけど、あまりにも多くの船へ足をかけるのは、やっぱりおすすめしないよ。彼女たちが怒ったら、政委さんを切り分けて一人ずつ持っていくかもしれないし……」
「違う。ただ皆でイベントを開いて、距離を縮めたいだけだ」
ヴィスタはようやく納得したような顔をした。
「なるほど! いやあ、私ったら。寝ぼけてたみたい。じゃあ、あとでリストを作って渡すよ。みんなが好きなものを揃えておく。必要なら色紙とリボンで包んで、名前カードまで付けてあげる。ただし予算は……プレゼントの質によって変わるんだけど、社長さん……」
「高価なものでなくていい。大切なのは、彼女たちが俺に気にかけてもらっていると思えることだ。俺の側の事情で自分ではできないから、君に任せたい。金は問題じゃない。重要なのは気持ちだ」
林毅は軍人保障カードをテーブルの上へ滑らせた。百五十年以上冷凍されていたため、以前の貯金も遺族給付も意味を失ったゼロの列になっていた。さらに冷凍事故などの問題について、蘇生後に政府から多額の補償金も支給されている。この金なら宇宙巡洋艦を一隻買ってもまだ余る。
冷凍後、世界にはさまざまな問題が起き、通貨も何度か変わった。それでも政府は彼に最大限の優遇措置を与えた。この時代、社会発展を制約しているのは人類の消費能力であって、すでに天井を突き破った生産力ではないからだ。
「社長さん太っ腹! この件、私がきっちり片付けるよ。いい知らせを待ってて! 好みについては、あとでメモにまとめて送る。それでも足りなければ、私が直接教えてあげる。手取り足取り、ね」
ヴィスタはそう言いながら軍人保障カードをポケットへ押し込んだ。
「何の話をしてるの? ずいぶん盛り上がってるみたいだけど」
「いやいや、何でもないよ。林毅政委にちょっと買い物を頼まれて、サービス料を稼ごうとしてるだけ」
伊蔚は少し困惑した目で林毅とヴィスタを見た。
13
「伊蔚って、どんな人だと思う?」
ヴィスタは林毅の脇腹を肘で軽く突いた。林毅は前を歩き、データボードを手に戦備の整備状況を細かく確認・記録している伊蔚を見る。彼女の意識は仕事へ集中していて、後ろでもたつく林毅とヴィスタを気にする様子はない。
「分からない。本当に」
それが林毅の本心だった。伊蔚は林毅から見ると、神出鬼没で、恐ろしいほど目立たない人間だ。この七日間、食事など必ず顔を合わせる時間を除けば、林毅はほとんど伊蔚を見つけられなかった。
「え、そうなの? じゃあ聞き方を変えるね。伊蔚って可愛いと思う? それとも、魅力的?」
「可愛い……伊蔚はたぶん、その言葉をあまり好きじゃない。でも、魅力があるのは間違いない。たぶん、ここで一番魅力的な人だと思う」
林毅はヴィスタをじっと見た。ヴィスタはその答えを聞くと、案の定と言いたげな笑みを浮かべた。
「へへ、私も伊蔚姐がここで一番魅力的だと思う。それも、すごく特別な魅力。じゃあ……攻略してみる? 安心して、無料だから」
「無料? 一見無料のものほど、裏で高い値札が付いている。言ってみろ、何が欲しい?」
「へへ、さすが社長さん。見る目があるね。こほん……じゃあはっきり言うよ。伊蔚姐のことを、もう少し気にかけてほしい。あの人、いつも自分を追い込みすぎるから。社長さんは政委で、伊蔚姐と同格の軍官でしょう? どんなことがあっても、伊蔚姐は政委さんの意見を考慮するはずだから」
「うん、それは当然だ」
林毅がそう約束すると、ヴィスタは重い荷物を下ろしたかのようにほっとした。
「伊蔚姐ってね……烈士になりやすい人なの。人類とか、未来とか、そんな掴みどころのない大きな物語のためなら、自分のすべてを犠牲にする。最後には全部が煙のように消えてしまうとしても、何の意味もなかったとしても、それでもそうするんだ。手を伸ばせば届く幸福さえ、自分から手放してしまう」
「伊蔚姐は本当に、本当にいい人だよ。私が何度助けてもらったか分からない。伊蔚姐には死んでほしくない。でも私はただの後方支援艦で、私にできる範囲で伊蔚姐のために何かすることしかできない」
「だから、最後まで伊蔚姐が幸せになれないなんて嫌なの。最後まで孤独なままでいてほしくない。たった一人でも伊蔚姐を理解できる人が増えればいい。たった一人でも一緒に歩いてくれる人が増えればいい。私は、それだけでもいいと思ってる」
「あなたを初めて見た瞬間に分かった。あなたは他の人とは違う。伊蔚姐を理解して、一緒に歩いていける人だって。根拠なんてない、ただの直感。でも、信じられる直感ってあるでしょう?」
ヴィスタの言葉に林毅は少し驚いた。そんな頼みをされるとは、今まで思ってもいなかった。
「どうして俺なんだ?」
ヴィスタは首を横に振った。
「分からない。たぶん、林毅さんから伊蔚姐と似た匂いを感じたのかな。あなたと伊蔚姐は似てる。でも、違うところもある。もしかしたら、すごく気が合うかもしれないよ」
「でも、それがお前に何の得になる?」
「私を何だと思ってるのよ! 利益以外のものだってちゃんと見えるんだから……私はただ、伊蔚に少しでも楽に生きてほしいだけ。それなら、私も、昔の仲間たちも、安心できるから」
林毅は伊蔚を指差した。
「本人は、お前がこんなことを企んでいると知ってるのか?」
「やめて! 伊蔚姐に殺される!」
「分かった分かった。じゃあ、その攻略法とやらを教えてくれ。使えるかもしれない」
ヴィスタはそこで、にやりとした間の抜けた笑顔を浮かべた。
「本当に伊蔚姐を攻略する気? あとで後悔しても知らないからね!」
「いいから早く話せ」
「へへ、攻略って言っても、私が知ってる伊蔚姐のことを教えるだけ。伊蔚姐がどんな人なのかは、自分で知っていかなきゃいけない。私にできるのは、遠回りを減らしてあげることだけだよ」
「分かってる」
「うん。伊蔚姐はね、最初に見ると絶対に溶けない氷みたい。でも深く付き合うと、最初に受ける冷淡で腹黒い印象とは全然違うって分かる。頭がよくて、優しくて、誠実で、正直で、珍しくて、淡泊で、それにすごく可愛い。純粋で真っ直ぐな人なんだ」
「ただ、伊蔚は人と接するのが好きじゃない。本人が必要だと思わない限りね。だから、人と関わるくらいなら、誰にも見つからない場所に隠れて十数時間本を読んだり、十数時間ぶっ通しで仕事したりする。伊蔚姐が言ってた。一人で何時間働き続けるほうが、他人と接するよりずっと楽なんだって」
「私には理解できないけど、伊蔚はそういう人。独りで、自分だけで仕事をすることに慣れてるし、それが好きなんだ」
「でも、そのせいで伊蔚姐は何でも自分で抱え込む。だから、すごく疲れてる。本人は口にしないけど、私たちはみんな心配してる」
「たまに伊蔚姐がぼんやりしてるのを見かけると思う。そのときは、できれば邪魔しないほうがいい。すごく深くて複雑なことを考えてるから、途中で邪魔すると、さっき何を考えていたのか忘れてしまうことがあるの。そうすると伊蔚姐は怒るけど、誰かに八つ当たりしたりはしない」
「ただ、その後で失ったひらめきを取り戻すのにものすごく時間がかかる。取り戻せなければ、ずっと食事も喉を通らないような状態になる。伊蔚姐を少しでも楽に生きさせたいなら、ぼんやりしているときは邪魔しないこと」
「最後に、伊蔚姐は本が好き。それからコーヒーと紅茶も好き。プレゼントを贈るなら、その三つから選ぶのがおすすめ」
「伊蔚姐は簡単には本心を見せない。でも、同じくらい真心を差し出せば、いつかきっと心を開いてくれるよ」
「うん、攻略法を教えてくれてありがとう」
「へへ、どういたしまして。結局は政委さん次第だからね」
ヴィスタは笑いながら髪を掻いた。
「ヴィスタ」
前を歩いていた伊蔚が突然足を止め、ヴィスタを呼んだ。
「あ、伊蔚姐に呼ばれた。先に行くね」
「ああ」
ヴィスタが駆け寄ると、伊蔚は手にしていたデータボードを見せた。ヴィスタの表情が一瞬固まり、それから笑って誤魔化そうとする。どうやら伊蔚はヴィスタの仕事に手抜きがあったことを見抜いたらしい。それでも伊蔚はほとんど叱らず、ため息をついてから、手刀でヴィスタの頭を軽く叩いた。
14
「ずいぶん遠回りに付き合わせちゃったわね。そういえば、あなた、最初に私のところへ来たとき、何か質問があったんじゃなかった?」
帰り道、伊蔚は話しながら一冊の紙のノートを開いた。その行為が林毅の注意を引いた。
「そうだ。各駆逐艦分遣隊の女の子たちとどうやって仲良くなればいいのか知りたい。俺は来たばかりだし、これくらいの年齢の少女たちと接した経験も多くない。だから相談しに来た。それともう一つ、前任の政委のせいで、少女たちは俺を怖がっているようだ。伊蔚、君に仲介して誤解を解いてもらいたい」
伊蔚は少し冗談めかして言った。
「実は、みんなのあなたに対する印象、もう変わってきてるわよ。羽衣たちに聞いたら、今では『会議ばかり開いて人を振り回す人』だと思われてるみたい」
伊蔚がそう言ったのは、林毅が過去に部隊を管理していた方法を少女たちへ適用しようとしたからだ。会議で皆に自由に発言させ、一人一人の好みを知ろうとしたのである。
だが、遠港艦隊では明らかに通用しなかった。
「からかわないでくれ。共産党員は会議が好きだとよく言うだろ? 俺も例外じゃなかったってことだ」
伊蔚はノートを数ページめくり、それから言った。
「政委が駆逐艦たちとの付き合い方に困っているなら、こうしましょう。政委が自分でお菓子を作って、みんなに食べてもらうの。昔から、食べ物を分け合うことは友情を示す方法の一つでしょう。特に甘いものは満足感を与える。艦載知性とはいえ、人格モデルは全脳シミュレーションで構成されているから、この方法は通用するわ」
伊蔚の出した方法は林毅も考えたことがあった。しかし、自分にできるのかという不安は拭えない。
「正直に言うと、俺は料理がまったくできない。一番近い経験といえば、自動調理機が提示するレシピから選択したことくらいだ。俺がやったら、たぶん逆効果になるぞ」
「困難に出会った瞬間に『できない』と言うのは、軍人の伝統じゃないでしょう?」
「……そうだな」
伊蔚はぱたん、とノートを閉じ、真っ直ぐな目で林毅を見た。
「それに、私が教えてあげる」
なぜだか分からないが、伊蔚がそう言うと、本当に彼女の言葉通りになるような気がした。
「それなら安心だ。でも、もう一つ聞いていいのか分からないことがある」
「このノートが気になってる?」
伊蔚はノートを手のひらに載せた。無重力の中で、ノートはゆっくりと回転している。林毅の考えをあまりにも正確に把握する伊蔚を見て、林毅は彼女に読心能力でもあるのではないかと疑い始めた。
「そう。どうしてノートを使っているのか気になってる。この時代、特にAI市民なら、もっと効率のいい記録方法があるだろう? 俺たち改造を受けていない基準人類ですら、録音のほうがずっと効率的だ」
「私がまだ人間だったころ、あまりにも跳ね回る思考に悩まされていたの。思考はあまりにも速く走るから、何か道具を使わないと捕まえられない。紙とペンという非効率な道具は、私にとって一種の網みたいなものだった。ほんの一瞬で消えてしまうひらめきを、そこへ捕まえておける」
「録音を使わないのは、心の中でしか考えられなくて、口には出せないことがたくさんあるから」
「今では、あなたの言う通り、もっと効率的な問題解決法がある。でも、この非効率な方法にも存在する価値はある」
「艦載知性の人格モデルが全脳シミュレーション方式を採用し、それぞれの艦載知性に人間だった頃の生活習慣や個人的な好みを残しているのも同じ理由。大衆が守りたいと思ったのは、自分たちと同じ顔をした仲間であって、理解不能で道理も通じない冷たい怪物じゃない。たとえ後者のほうが任務を効率的かつ迅速に遂行できるとしてもね」
伊蔚の答えには、どこか深いものがあった。会話が制御不能な方向へ流れるのを避けるため、林毅は話題を元へ戻した。
「そのノートには何が書いてある?」
「自分で見てみる?」
伊蔚は林毅へノートを差し出した。この行為は林毅の予想外だった。こんなに私的なものを、他人に見せるとは想像しにくい。
慎重に開いてみる。それはノートというより、姉のような誰かが残した日記帳に近かった。遠港艦隊の一人一人が何を好きで、何を嫌い、普段どんな習慣を持ち、互いにどんな人間関係にあるのか――ありとあらゆることが、驚くほど詳細に記録されている。
「あなた、ずっと彼女たちのために何かしてあげたいと思っていたでしょう? このノート、あなたのためにわざわざ書いたの」
「ありがとう。本当にありがとう」
「お礼なんていいわ。……ちょっとした気まぐれだと思って」
伊蔚は淡く笑った。
15
戻ったあと、林毅はベッドに横になり、そのノートを開いた。指先で優雅で細い文字をなぞると、頭の中には、伊蔚が机の前に座り、ノートを書き写している姿が自然に浮かび上がってきた。
林毅の意識が、虚空の中で伊蔚の姿を静かに描いていく。
歩くときの目は鋭く、表情は厳格で笑みをほとんど見せない。足取りは速く、風のようにせわしない。
そこにいるのは白い影だった。細く軽やかで、跳ねるように歩く姿は、まるで質量すら持たないかのようだ。
そのか弱い身体は純白の虚空に立ち、宝石のように赤い瞳がわずかに開いている。その視線は星々を貫き、運命を越え、遥かな未来の果てにある虚無へ向けられているようだった。
その瞳には松明の火が映っていた。まるで魂が深い井戸の底で燃えているように。
林毅には予感があった。伊蔚は間違いなく、これからの仕事の中心になる。彼女が何を考えているのか、理解しなければならない。




