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暴走と心蝕

 トルバルはトロールが遠心力に任せて振り回す腕を躱しながら足元に滑り込むと、斧で腱を叩き切った。体勢を崩して倒れかかったところを死に物狂いでよじ登り、肩口や首、頭などへ目茶苦茶に斧を振るう。

 

 だがトロールもやられてばかりではない。トルバルの外套の裾を掴むと、そのまま雪の上に叩きつけた。ステンが何か怒鳴っていたが、そんなことはトルバルにとってはどうでもよくなっていた。


「くたばれ」

 

 受け身を取った彼は、トロールの心臓目掛けて力任せに斧を投げつけた。研ぎ澄まされた刃が肉を裂いて突き刺さり、さすがに致命傷になったトロールは呻きながら倒れこむと、ほとんど抵抗することもなくなった。しかし――


 トルバルは攻撃をやめなかった。心臓から無造作に斧を引き抜くと、執拗に何度も振り下ろした。もはや自分でも何をしているのかよくわかっていなかった。南の森でもここまで執拗に斧を振るうことなどなかった。それは一種の錯乱状態に近いものである。トロールのどす黒い血が、そこら中に飛び散って雪を溶かしていく。

 

 これまで彼は、腹の奥に巣くっている恐怖と怒り、そして自分でも認めたくない程の絶望感と興奮を一気に爆発させることで、凄まじい暴力性を発揮してきた。卓越した技術を持たない身でありながら長いこと生き残れたのは、単に運が良かったからではない。

 

 トルバルは幼馴染みに売られる前から頭に血が昇りやすい質ではあったが、兵舎に入れられてからは尚更神経を尖らせるようになり、仲間と殴り合いをすることも珍しくなかった。

 

 ステンの元に来たことでその性質も落ち着いたように思われたが、せっかく手に入れた人間らしい生活が脅かされるのではという恐怖に、頭を乗っ取られかけていた。

 

 ステンがまた何か怒鳴ったことはわかった。何と言ったのだろうと考えるよりも先に、彼の強烈な蹴りがみぞおちに飛んできて、トルバルは血に濡れた雪の上に転がった。それでも我に返ることはなく、むしろ無性に腹が立った。近寄ってきたステンを前に、興奮に任せて拳を振るいかけた刹那、わずかに理性が働き「まずい」と思った。

 

 だが、ステンは極めて冷静だった。彼はトルバルの拳を当たり前のように捕まえると、最小限の動きで肩の関節を外してしまったのだ。

 

 冬の森に、トルバルの苦しむ声がこだました。


「今すぐそれをやめないと、もう片方の肩も外すぞ」

「ステン……肩……! 肩が……!」


 トルバルは汚れた雪の上にみっともなく転がったまま、ステンに見下ろされていた。段々と頭が冷静になってきて、目の前の命の恩人が急に恐ろしく見えた。


「仰向けに」


 ステンは短く言った。「言う通りにしよう」トルバルがそう思って大人しく仰向けになると、外された方の腕を掴まれた。ゆっくり引っ張られながら腕が持ち上がる。


「おい、脱走狂戦士。そこの木の上にいる子リスが見えるか?」


 ステンは藪から棒にそんなことを言った。


「え? リス?」

 

 トルバルが気を抜いた瞬間、コキッという鈍い音が頭に響いた。

 

「よし戻った」


 トルバルの肩は無事に元通りになっていた。ゆっくり起き上がって辺りを見回してみると、無残に殺されたトロールの死骸と血潮が目に飛び込んできた。よく見てみればそのトロールは、かつて自分が南の森で殺していたものよりひと回り小さかった。静かな森の中に横たわる死骸は、これまで見てきたものとは何かが違っていた。こんな気持ちになったのは初めてのことだった。


「帰るぞ。トロールは不味すぎて食えない」

「ステン、あの……」

「今度、暴れる馬鹿の肩の外し方と戻し方を教えてやる。いつか役に立つ」


 言葉に詰まるトルバルをよそに、ステンはそんなことを言い、ヘラジカ肉を積んだソリまで戻っていった。もう日が傾きかけていた。トルバルは肩を落として茫然と立ち尽くしたまま、遠ざかるステンの背中を見つめていた。




 トロールを殺したその晩、トルバルは悪夢に魘された。

 自分は戦場の真ん中に仰向けの状態で手足を縛られている。見えるのは木々の間から見える曇り空だけである。トロールの地鳴りのような咆哮が近づいてくるのがわかる。


「おい、裏切り者」

「臆病者」

「何故お前だけ助かる」

「生かしておけない」


 仲間たちが口々にまくし立てる。だがその顔は仮面のようにのっぺりとしていて、一切の表情がない。


「俺たちが楽にしてやる。お前がそうしたように」


 仲間たちは手に持っていた斧や鉈を一斉に持ち上げ、そのままトルバルの身体に振り下ろした。


「死ね! 死んでしまえ! この卑怯者!」


 トルバルは仲間たちの刃をただただ受け入れるしかなかった。自分の腹や胸から飛び出たどす黒い血潮が、再び自身に降りかかってくる様を見ていることしかできない。

 やがて彼らの背後からトロールの足音が近づいてきて、視界が真っ黒になる。踏みつぶされると思った瞬間、誰かに頬を叩かれて目が覚めた。


「うるさい。ロクが寝られないだろ」


 ステンだった。その隣には眠そうに瞬きするロクの姿もある。安心したのもつかの間、強烈な罪悪感が襲ってきた。


「戻らないと」


 無意識にそんなことを口走っていた。


「正気か? 戻って何になる。待ってるのは見せしめの処刑だ。夢魔にでも憑かれたか? 何のために怪我を治したと思ってる。何のために貴重な薪を燃やしたと思ってる。逃げたなら終いまで逃げ切れ。それができないなら、俺がここで首を刎ねてやる」


 ステンはこれまでトルバルが会ってきたどの人間よりも冷徹な口調でそう言った。炉の弱い炎にわずかに照らされたその目は、紛れもなく刑吏のそれであった。彼の背後では処刑斧が赤く照らされている。


「魘されて混乱してた。もう大丈夫」


 トルバルが謝ると、ステンはゆっくり目を伏せ、深呼吸するように息を吐きだした。


「俺もよく悪夢を見る。これまでに刎ねた罪人の首が足元に転がってきて、ねちねち文句を垂れてくる夢だ」

「それは……しんどいな」

「もう慣れた。べつにしんどくない。そんなことより火の番を代わってくれ」

「……わかった」


 とにかく落ち着かなくては。トルバルは炉の優しい炎をじっと見つめ、朝が来るのを待った。天窓から光が差し込むまでの間、ステンの寝息が聞こえてくることはなかった。

 


 それから数日間、ステンは捕えた獣の体を使い、トルバルに人間の関節の外し方や一撃で相手の動きを封じる方法を教えてくれた。てっきり冗談で言っているものだと思っていたトルバルは、本気で処刑人流の戦闘術を教え込まれ困惑してしまった。


「なんで処刑人が戦えるんだよ」

「暴れる患者や抵抗する罪人をどうにかするのも仕事の内だ」

 

 ステンは戦士ではないが、人体構造を知り尽くした強靭な体幹から放たれる一撃は恐ろしいものである。一度、本気でやり合うあまり殺し合いの一歩手前まで行ったこともあったが、とにかくトルバルの戦い方は少しだけ以前とは違うものになりつつあった。

 

「いつか役に立つ」


 その言葉の意味を知るのはもう少し先の話である。

次回「極夜の訪れ」

辺境の森に暗い冬がやって来る。

ふたりはマヤの家に行くが……


7月25日(土)更新予定

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