ヘラジカ狩りとトロール
森の木々は一層白く凍りつき始めた。もうすぐ厳しい極夜がやって来る。ふたりはその前にヘラジカを捕まえるべく、獣道に罠を仕掛けていた。
トルバルの足は驚異的な回復力ですっかり良くなり、元気に走り回れるようになっていた。
「ここまで早く治るとは想定外だった。なんて生命力だ」
ステンは治った足でロクと一緒に小屋の周りを走り回るトルバルを見てつぶやいた。
「生命力だけが俺の取り柄だ。ありがとな大先生!」
「今日もその生命力を存分に活かす仕事をしようと思う」
「ヘラジカの罠を見に行くんだろ? 昨日も一昨日も掛かってなかったけど」
「準備しろ。ロクはマヤに預ける」
ステンが言うと、ぴょんぴょんはしゃいでいたロクが切なそうに鼻を鳴らした。
獣を罠に掛けるのは決して楽なことではない。ヘラジカはほぼ毎日同じルートを通ってる移動しているが、どんなに工夫を凝らしても掛からない時は面白いくらい掛からないものだ。
ふたりはかんじきを履き、運搬用のソリを引いて薄暗い森の奥へ進んだ。ステンいわく、『呪われた魔女の森』と呼ばれるこの地には、底なし沼やゴツゴツした岩場がいくつもあるらしく、それ故誰も近づかない。
自由に歩き回れるのは雪の積もった冬の間だけだという。足跡も残るので迷子にもなりにくい。しかし濃霧が発生しやすく、不気味で危険ことに変わりはない。
深い森の奥の獣道には大きな蹄の足跡があり、それを辿っていくと、巨大な雄のヘラジカが巨木の間に設置された首括り罠にかかってぐったりしていた。
ヘラジカの首にはトナカイの腱で作った紐が食い込んでいる。ヘラジカが逃れようともがけばもがくほど、その首に紐が食い込む残酷な仕組みである。
「すげえ。掛かってるぞ……!」
トルバルは興奮気味にステンの肩を叩いた。ヘラジカは鼻から白い息を噴き出して、ふたりの気配に怯えだした。
「ようやくか。他の獣に奪われる前にトドメをさして解体する」
ステンはいたって冷静にそう言い、ヘラジカ用の長い槍を構えた。手負いの巨大なヘラジカに接近するのは死を意味するからだ。
「それともお前が仕留めるか?」
「俺が?」
トルバルは戦場から逃げ出した際に持ってきた弓を背負っている。ステンに確実に脊髄を狙えと言われ、緊張しつつ弓を構える。ヘラジカの真っ黒な目がトルバルを見る。「目が合った」と思った時には、矢を放っていた。
矢はヘラジカの首筋に命中し、真っ赤な鮮血が白い雪の上にいくつか散った。
「お前には何の恨みもない」
ステンは失血によって絶命したヘラジカの首元を優しく撫でながら言った。かつて罪人の首を刎ねていた時もこんな言葉をかけていたのだろうかと、トルバルはぼんやりと考えた。
ステンはナイフでヘラジカの肉を裂きながら続けた。
「——結局、生きるためには誰かの居場所や命を奪うことになる。自分が生き延びる一方で誰かが苦しむが、そこにばかり目を向けていると生きる気も起きなくなってくる」
トルバルは何か言おうと口を開きかけたが、結局何も言えなかった。ステンはその様子をちらと横目に見て、付け加えるようにこう言った。
「それでも奪ってばかりの人生は御免だ」
ヘラジカの解体は二人掛かりでも重労働である。あまりに巨体なため、そのまま小屋まで持ち帰ることはできない。その場で血抜き、解体をして内臓を取り出さねばならない。のんびりやっていると肉が凍ってしまうばかりか、オオカミや冬眠し損ねた獰猛な熊などがにおいを嗅ぎつけて寄って来る。手早く、しかし慎重にやらなければならない。
トルバルは獣の解体はほとんどやったことがなかったが、殺したトロールの四肢を切り落として処分したことはあるため、大まかな勝手はわかっていた。
「しっかり脂が乗ってる。——ほら、これが心臓だ」
ステンは巨大な赤い心臓を丁寧に取り出してトルバルに見せてきた。持ってみると、ずっしりと重みがある。反応に困りつつステンに心臓を返すと、彼はあろうことかその心臓を一口分ナイフで切り取って、そのまま口に入れてしまった。
「おい、今食うのか……?」
呆気にとられたトルバルの問いに、ステンは大まじめに「ほんのつまみ食いだ」と返した。大昔から、新鮮な心臓を食すと心臓の病に効くという話がある。迷信を嫌いそうなステンがそれを信じているかはわからないが、トルバルは何とも言えない気分になった。
「心臓、良くなるといいな」
「本当にどうなってるんだか。こんな風に自分で解剖して調べてみたいんだが、それができないのが悔やまれる」
ステンはヘラジカの肉を裂き続けながらそんなことを言う。とても冗談を言っているようには見えなかった。
「脂で手が滑るし、ナイフも切れにくくなってる。力任せに動かして自分の手を切るなよ。指が無くなるぞ」
肉が凍り付く前に解体を進める。毛皮を剥ぎ、肋骨を開き、すべての脚を切り落とし、内臓はまとめて革袋に詰める。内臓の一部は森への感謝としてその場に残す。
粗方解体を済ませ、肉をソリに積んで帰ろうとすると、ステンの呼吸が少し乱れた。また心臓が痛むのかとトルバルが気にかけた時、森の奥にゾッとするような気配を感じた。
何かがいる。何かがこちらを見ている。否、彼にはその正体が手に取るようにわかっていた。
――トロール。
ステンはまだ気づいていない。トルバルは無言で弓を構え、気配のする方を鋭く睨みつけた。
「どうした?」
そのただならぬ様子に、ステンも肉を積む手を止め、森の奥を見やった。白い森は静寂に包まれている。その静寂を一切乱すことなく、大木の陰からぬうっと毛むくじゃらのトロールが顔を出した。
猫背の人間のような立ち姿に、灰色の硬い毛が生えており、小さな黄色い目はぎょろぎょろとうごめいている。
「あれは襲ってはこない。ほうっておけば――」
ステンが言いかけたが、トルバルはその声を聞かず、半ば反射的に矢を放ってしまった。
矢はトロールの頭に命中したが、致命傷にはならなかったようだ。トロールは怒りの咆哮をあげ、静かな森は一瞬にして別世界に変わってしまった。トルバルは走り出していた。「殺さなければふたりとも死ぬ」と、そう思ったのだ。
——あんなに、あんなに嫌だったのに、どうして俺はまたこんなことをしているんだ。
トロールに迫りながら、一瞬だけトルバルはそんなことを考えたが、目の前のおぞましい怪物の鳴き声は、まともな思考も感情も乱暴にかき消してしまう。
それはいつかの土石流によく似ていた。
次回、第7話「心蝕と暴走」
7/18(土)更新予定。
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