氷上釣り
森の奥には湖があり、初冬の寒さで既に凍っていた。氷の上には雪が積もり、白銀の雪原のようになっている。
ステンは全くブレのない手付きで大斧を振り上げ、正確に氷に穴を空けた。かなりの重労働である。かつてその強靭な腕と体幹を使い、罪人の首を一撃で切断してきた証を見せつけられたようで、トルバルは瞬きすら忘れて見入ってしまった。
自分もトロールの討伐や森を切り開くために斧は使っていたが、それらとは明らかに異なる研ぎ澄まされた手付きであった。しかし――
水面が見え始めてきたところで、ステンはふいに動きを止めた。少し顔を顰め、左胸の辺りを気にしている。
「心臓が、どうかしたか……?」
トルバルが尋ねると、彼は無言で頷き、静かに深呼吸した。代わってやろうかと手を伸ばすと、「怪我人には無理だ」と突っぱねられてしまった。
「数年前からこうだ。大病ならとっくに死んでる」
ステンはそう言って淡々と作業を続けた。
氷上に穴が空くと、ふたりはそこにクジラの髭でできた釣り糸を静かに垂らし、小さな椅子に腰掛けて魚が食いつくのを待った。空は相変わらず曇っていたが、冷たい風が吹き荒ぶこともなく、心地の良い静寂に包まれていた。
ロクはふたりの周りをうろうろと歩き周り、雪を掘ってみたり遠くを眺めてみたりしていたが、やがてそれにも飽きてしまうと、椅子に座ってじっとしているふたりを交互に見て、荒い鼻息をフッ!と吐き出した。遊んでくれないのが退屈なのだろう。
ステンは手元の釣竿ばかりに集中し、ロクの方を見ようともしない。
「おい、やめろ」
ステンが声をあげた。トルバルが顔を上げて隣を見てみると、ロクが自分の角で彼の背中や脇腹をつつきまわしている。かと思えば、湿った鼻先を首筋に押し付けてみたり、服の裾を噛んでみたりと大忙しだ。左角の赤いリボンはひらひらと揺れ、小さな鈴がチリチリ鳴っている。
「そのリボンはあんたが?」
「昔、着てた服を切って作った。魔除けのまじないだ」
「いつから一緒にいるんだ?」
「ここに来る前からだ。子供の頃から育てた。今も子供みたいに小さいが」
ここに来る前、ということは北の町で処刑人として働いていた頃だろう。どうしてこのひとりと一匹はこんな辺境にいるのか、その時のことについて聞いて良いものかとトルバルが考えていると、意外にもステンは自分から口を開いた。
「俺がどうして処刑人をやめ、こんなところでトナカイと一緒に生きているのか。考えてるな」
完璧なまでに心を読まれ、トルバルは思わずむせてしまった。しかし気になっているのは本当である。ステンは続けた。
「俺は領主から嫌われてた。処刑廃止の嘆願書をしつこく出してたからな。だが治安維持と罪人の魂の救済のためには必要だと。馬鹿みたいな仕事量にうんざりしてた。腰も痛い。俺は後見人に後の仕事を押し付けて、相棒と一緒に町を出た。街とも家族とも縁は切れた。まあ、一種の追放だな」
なんてことのないようにステンは言う。トルバルと目すら合わせず、どこか遠くを見ている。
——半分は嘘だな。
「他の町に行こうと思ったことは?」
トルバルが気付かぬふりをして尋ねると、ステンはわずかに苦笑した。
「行けると思うか? この欠けた耳で。もしこれが無かったとしてもだ。所作や体つき、持っている知恵なんかで見る奴が見れば処刑人だと一発でわかる。各都市や町の処刑人は皆繋がってるしな。関わった他人の人生も壊すことになる」
「旧王都ならなんとかなるんじゃないか?」
「お前の生まれ故郷を悪く言って悪いが、あんな掃き溜めは御免だ」
ステンの全く取り繕わない物言いにトルバルは思わず笑ってしまった。
「あんた怪我も治せるし、処刑人って貴重な存在なのに、どうしてぞんざいに扱われるんだか」
「俺の知ったことか」
ステンがそう言った時、彼の釣り糸が微かに動いた。引っ張り上げてみると、ワカサギがかかっていた。ステンはそれを静かに雪の上に置いた。すぐさまロクが寄って来て、跳ねる魚のにおいをフンフンと嗅ぐ。
ワカサギはじきに凍って動かなくなった。ステンはその様子をじっと見つめ、ぽつりとつぶやいた。
「皆、『死』が怖いだけだ」
昼の処刑台では見世物のように扱われ、夜は医者として頼りにされ、日常生活からは徹底的に排除される。そんな世界に対し、恨みなどないとでもいうような口ぶりであった。トルバルは彼の口ぶりに、民衆に対する憐みのようなものを感じた。
「クソほど神経をすり減らす仕事だろ。罪人といえども人を殺すっていうのは」
「お前は人間を殺したことがあるのか? トロールだけじゃなく?」
「十四の頃、親の仇を……最近では大怪我をしてもう助からない仲間を、何度か」
痛い。苦しい。死なせてくれ。そんな言葉を繰り返す仲間を、トルバルは何度か楽にしてやったことがあった。ステンは「聞いて悪かった」と謝ったが、トルバルはむしろ誰かに聞いてほしかったので続けた。
「南の森にトロールが出るようになってな。森の奥には鉄鉱山があるだろ? 掘ってるうちにトロールの巣窟にぶち当たっちまって。王都としてはそれで採掘が止まるのは困るわけだ。戦うのは罪人や人買いから売り飛ばされた貧民、上層部の反感を買ったやつばっかりだよ。まったくクソみたいな話だ!」
「でかい声出すな。魚が逃げる」
それからステンはやかましいトルバルをよそに、もう二匹魚を釣り上げた。一方やかましいトルバルは一匹も釣れないまま、終いにはグゥと腹を鳴らした。今のところ何の役にも立っていない。
「これでも食ってろ腹ペコ脱走兵」
ステンがため息混じりに腰に下げたポーチから干し鱈を投げ寄こした。カチコチだが食べられないこともない。
「役に立てなくてごめんなステン」
「怪我して魚も釣れなくて、飯だけ食いやがって」
ステンはわざとらしく顔を歪めて見せた。それとほぼ同時に、トルバルの釣り竿が揺れた。
「おい、何か掛かった……! でかいぞ」
釣り竿は折れそうなほど大きくしなっている。大急ぎで、しかし慎重に引き上げてみると、釣り上げられたのはまだら模様にナマズのような髭を生やした巨大な淡水魚、カワメンタイだった。
トルバルはバランスを崩して椅子ごと後ろにひっくり返り、ロクはあまりの大きさに驚いてステンの背後に急いで身を隠した。ステンは氷上に雑に寝かされたカワメンタイを見て目を丸くして言った。
「こいつはかなり深いところにいる魚だ。俺は一度も釣ったことがない。強運だ」
「へえ、こいつ美味いのか?」
「肝まで食えて美味い。なんだ、一発逆転だな」
ステンはひっくり返ったままのトルバルの膝を軽く叩いてきた。なんとなく笑ったような気もしたが、よくわからなかった。およそ笑顔とは縁のなさそうな男であるが、微かな感情の変化はあるようにトルバルには思えた。
その夜、カワメンタイは塩でぬめりを取ってからぶつ切りにし、秋に採ったキノコやハーブなどと一緒にスープにした。ステンが釣ったワカサギやアカイサキは塩漬けにしたり野外に干したりして、冬を乗り切るための保存食になった。
【次回】
第6話「ヘラジカ狩りとトロール」
7月10日(金)更新予定。




