一対一
トロールに礼を言い、トルバルとセルマはモルンを連れて炭焼き小屋を出た。彼らが休んでいる間、片時も離れずに番をしていた孤独なトロールは、しわにまみれた表情を少しだけ緩ませ、別れを告げるようにゆっくり瞬きすると、森の奥へと去っていった。
森を抜けるとまた湖が姿を現した。湖の向こうには雪を被った山が見える。
「トルバル、ほんとに大丈夫?」
モルンを抱きかかえたセルマが言う。その顔は少し不安そうである。
トルバルの傷はいくらか落ち着いていたが、痛みは和らいでなどいなかった。呼吸をする度あばらが痛み、地面を踏む度右脚の傷が疼く。蹴られたことにより体にはいくつもの痣があり、そこらじゅうが痛むので却って痛みが分散されているような気さえした。
「ここまで来られたんだ。絶対に大丈夫だ」
半分は自分に言い聞かせるための言葉だった。
「もうひと頑張りだ」
湖を過ぎ、森から抜けてしまうと、そこにはもう荒野同然の風景が広がっていた。空気は冷たく、背の高い木は殆ど生えていない。ゴツゴツとした岩が点々と横たわり、辺りはまるで墓場のように静まり返っている。
黄みがかった灰色の空から、みぞれがちらちらと降り始めた。
トルバルは自分のクロークをナイフで切って短くすると、歪になったそれをセルマに着せてやった。切り落した部分はマフラーのようにして首に巻き付ける。あまりにも不格好な姿になってしまったが、凍えさせるよりは何倍もましだった。
足を進めるほどに空気は冷え切り、みぞれはやがて雪に変わった。トルバルはセルマを背負って谷間を歩いた。
「何者だ」
これから山をひとつ越えようという時に、岩陰から声をかけられた。ぎょっとして顔を上げると、全身毛皮に身を包んだ集団に囲まれていた。どうやら彼らの縄張りに足を踏み入れてしまったらしい。
「頼む。ここを通りたいだけだ。争いたくない」
トルバルはセルマを抱えた両手に力を込めた。
「よそ者をタダで通らせるつもりはない。特に武器を持った男はな」
灰色の毛皮の男が言った。
「あんたらは、何者だ」
「お前に質問する権利はない。どうするか答えろ」
「持ち物はなんでもやる。北の果てまで行かなきゃならない。こいつらのためだ」
トルバルがセルマとモルンを見ながら言うと、男の後ろから白い毛皮の女が出てきた。
「そのライチョウ、ここらにしかいない種類の子だね。それにその子供の髪と目、北の果てに住む人間のものだ。さぞ珍しがられるだろう」
女は少し考えてから、小さくため息をつき、トルバルにこう告げた。
「故郷に帰ってきた人間はよそ者じゃない。子供だしタダで通してやっていい。しかしお前の武器は置いて行ってもらう。ここから先、武器は持ち込ませない」
女が言うと、周りの男たちは吟味するようにトルバルの方を見た。全員の視線が彼の斧に向けられていた。
「わかった。斧をやる。直したてだ」
トルバルは自分の背から斧を取って地面に置いた。
「ナイフも置いて行け」
灰色の毛皮の男が斧を拾い、にやりと笑う。
ナイフまで渡してしまうと、毛皮の集団は静かに道を開けた。
「ありがとう」
礼を言う義理などなかったが、トルバルは戦わずに済んだことを安堵し、一言礼を言った。
「おい、訳ありの兵士。近道はそっちじゃない。少し戻って大岩の右側の道を行け」
去り際に女が言った。
「あの場所は、誰でも入れる訳じゃない。その子はともかく、お前はどうなるかわからんぞ」
「北の果てが存在するだけで十分だ」
女の言葉にトルバルはそれだけ返すと、もと来た道を歩き出した。
女が示した道を歩き、トルバルは凍えそうになりながらも無事に山を越えた。雪を被った低木がちらほら生える雪原を急ぐ。
しばらく歩くと切り立った断崖が姿を現した。崖下には大地を分断するように川が流れている。流れは激しく、海水のにおいがした。
向こう岸を繋ぐ一本のつり橋が、微かに風に揺れている。このつり橋を渡ればついに北の果てへ到達することになる。
「トルバル!」
やっとここまで来たという余韻に浸る間もなく、トルバルは忌々しい怒号に振り返った。雪原の向こうからホーカンがやって来るのが見える。
「セルマ、先に行け。何が聞こえても戻るなよ。これを持って」
トルバルは懐からステンの手記を取り出し、セルマに手渡した。
「揺れるから気をつけて歩け。落ちるなよ」
「トルバルは?」
「後から行く」
不安気なセルマの肩を叩き、トルバルは谷間に架かる吊り橋に背を向けた。「約束だよ」と叫ぶ声を背に、自らはホーカンの元へ向かって走る。しかし、思うように体が動かせない。
「その様子だと、骨がイカれているようだな。右脚も上手く動かせていないぞ」
ホーカンは口元を吊り上げ、不気味に微笑みながら雪原を歩く。
「ホーカン、お前みたいなクソ野郎があの山を越えてくるとはな。大人しく武器を手渡したか」
「満身創痍のお前をやるのに必要あると思うかね?」
トルバルはふらつきながらも雪を蹴って走り、ホーカンの顔面目掛け拳を振るった。拳は虚しく空を切り、呆気なくみぞおちに膝を叩き込まれよろめいた。そのまま胸ぐらを掴まれ、雪の上に倒れることも許されぬまま、ホーカンの笑みが目前に迫る。
「おや、熱もあるようだな。こんなことしなくともお前はそのうち死ぬだろう。哀れな」
「いいや。俺はまだお前を殺す余裕くらいある」
「威勢がいい。だがこれならどうかな」
ホーカンは泥に汚れた手をトルバルの右脚へ伸ばし、包帯が巻かれた場所へ思い切り指を突き立てた。目の前が霞むほどの激痛が突き抜け、傷口からじわじわと血が滲むのがわかった。
「トルバル!」
吊り橋の上でセルマが叫んでいる。
「丁度いい。お前を痛めつけてセルマをここへ呼び戻す」
ホーカンの指に一層力がこもる。
「セルマ! こっちへおいで。お前の大事なお兄さんが死んでしまうぞ!」
——戻るなセルマ! 絶対に戻るな!
声も出せないトルバルは咄嗟にホーカンと距離を取ろうとしたが、傷口にめりこんだ指が引っ掛かり、少しでも動こうものなら激痛が走る。頬の内側に歯を立てると、血の味が口いっぱいに広がった。トルバルはその血を絞り出し、ホーカンの眼球目掛けて赤く濁った唾液を吐きかけた。
ホーカンが怯み、その一瞬の隙を突いて左脚でホーカンの腹を蹴り飛ばす。彼はふっ飛びこそしなかったが、傷口から指を離すことはできた。
トルバルは雪の上に転がり、荒い呼吸を繰り返した。その呼吸ももはやままならない。呼吸する度に痛みが走るからだ。
「お前はもう死ぬ。俺が楽にしてやる。置いてきた役立たずの処刑人の代わりにな」
ホーカンはトルバルの足を掴んで断崖へと引きずっていく。雪で視界が悪いなか吊り橋に目を向けると、そこにセルマの姿はもう無かった。無事に向こうへ渡ったのだろうか。それとも——
気持ちばかりが焦るが、体が全く言うことを聞かない。このままぐずぐずしていれば谷底へ真っ逆さまである。
——思い出せ。俺は南の森で何を狩っていた? 何と戦っていた?
トルバルは自らに問いかけた。
——何故俺は戦った? 何故売られた? バートは誰に殺された?
かつての感覚を取り戻す。その一心で問いかけを続ける。
指先に力が宿り、なんとか上体を起き上がらせる。その時ふと、ステンの言葉が脳裏に過った。
——忘れるな。どんな思いでここまで辿り着いたか。その生への執着は終いまで捨てるな。これから先、どんなことがあってもだ。
その瞬間、トルバルは身を起こし、ホーカンの手を振りほどいていた。
「くたばれ!」
トルバルの雷の如き怒号にホーカンが振り返り、殴りかかるトルバルの右腕を封じようと手を伸ばした。しかしトルバルは直前で体勢を変え、伸ばされたホーカンの腕を掴んで瞬く間に肩の骨を外した。
ホーカンの門絶する声がしんと静まり返った白銀の世界に響く。しかししぶといホーカンはトルバルに体当たりを食らわせ、数回腹を踏みつけるとそのままのしかかった。残った左手でトルバルの首を絞めにかかる。
「お前のためにどれだけのものを犠牲にしたかしれない。死に損ないのドブネズミが」
ホーカンは終始ニヤついていたが、その目には泥のような執着と憎しみが宿っていた。
「懐かしいよ。初めてお前を商品にしようと思った日のことが。あの時は随分と良い品が手に入ったと思ったものだよ」
ホーカンの左手にこれでもかと力が籠る。それは片手とは思えないほどの凄まじい力であった。トルバルは何も言わず、冷静にその腕を掴むと、肘の関節を逆方向にへし折り、続けざまに頭突きを食らわせた。いつかの傷口が開き、トルバル自身の頭からも血が流れる。
赤く染まる視界を袖口で拭い、雪の上を這うホーカンの足を掴む。
「お前が俺にしようとしたことをやってやる」
トルバルは掠れた声で呟き、ホーカンを引きずってゆく。彼の歩みの先には断崖が口を開けて待っている。あともう少しというところでホーカンが激しく暴れ、手を離したところへ足技をかけられた。
バランスを崩し倒れたところへホーカンのつま先が飛んできて、トルバルの頭にとてつもない衝撃が加わった。咄嗟に両手で頭を庇ったが、それでも視界が霞むほどだった。
途切れそうになる意識を気力だけでなんとかつなぎ止め、よろよろとホーカンから距離を取る。
両腕が使えないホーカンは怪物のような唸り声を上げた。いったい何が彼をそこまでさせるのか、熊のような執着心でトルバルの元へ迫る。トルバルはやっとの思いで立ち上がり、ホーカンを迎え撃った。
ホーカンが目前まで迫った時、半歩だけ動いた。右の拳が眉間を正確に捉え、ふつりと唸り声が止んだ。
ホーカンが雪の上に倒れる音が響いたのを最後に、辺りはしんと静まり返った。




