最終話 泥濘の逃亡兵と小さな聖域
——終わった。
トルバルはピクリとも動かなくなったホーカンの横に倒れ込んだ。薄れゆく意識の中で、誰かの足音が近づいて来るのがわかった。セルマではない。吊り橋の向こうから来た誰かでもない。
——処刑人。
もう体は動かせなかった。足音はすぐ隣にまでやって来て、音の主は雪の上に膝を折ると、トルバルの頭を掴んでゆっくりと持ち上げた。
「ずっと見てたのか? やるなら、せめてここじゃないどこかへ運んでくれ。あの子の視界に入りたくない」
「あいにく、私が今持っているのはこいつだけだ。驚いたよ。ここへ来る途中に出会った山賊たちは、私のことも処刑斧を全く恐れなかった」
処刑人小さなナイフを見せながら言った。どうやらホーカンには置いて行かれたらしい。
「持ち込めたのは幸いだが、残念ながらこいつで首を切り落すのは不可能だ。首の代わりに片耳を持っていくことにする。証拠は必要なのでね」
「俺が生きていることが万一にでも知れたらまずいだろ。耳だけ削がれたんじゃ人は死なない」
「見たところ、君はもう長くない。私が手を下さなくともそのうち死ぬだろう。仮に生き延びたとて、君はこの地から出ることはできない。私は自分の仕事をしたことにできればいい。くだらない鬼ごっこのために連れ回されるのも、もう終わりだ。ついていくのがやっとなんだ」
処刑人は淡々と言い放ち、トルバルが何か返事をするよりも早く彼の耳に雪の塊を押し当てた。
「右の耳だな。私たち処刑人とは反対だ。一生残る罪人の証になる。すまないね」
処刑人はそう言ってトルバルの右耳を切り落しにかかったが、ふと手を止め、トルバルの首筋に触れた。
「焼印が消されている。どうやった? 自分でやったわけではなさそうだが」
「……誰が教えるか」
トルバルが絞り出すように言うと、処刑人は小さく笑って「すまない。お前に恨みはないんだ」と零すと、勢いよく耳を削ぎ落した。痛みを感じるより早く、トルバルは意識を手放した。
それから長い期間、トルバルの意識は浮き沈みを繰り返した。自分がどこにいるかはもちろん、生きているのか死んでいるのかもわからない。体のあちこちが熱を持って酷く痛み、息をするのもやっとである。永遠とも思えるぼやけた意識の中で、トルバルは何度か「もう死なせてくれないか」と思った。何もかも終わりにしたかったのだ。しかし決まってそう思った頃合いで、小さな手が頭を撫でる。耳元で声がする。何と言っているかわからないが、その声を聞く度、生にしがみつくように深く息を吸う。そんなことを幾度となく繰り返した。
——約束した。何があっても死なない。置いて行かない。
ステン、そしてセルマとの約束は彼にとって唯一の生命線となっていた。
泥濘のような日々を乗り越えようやく意識を取り戻した時、彼は見知らぬ天幕の中でひとりきりだった。いや、正確にはひとりと数羽だった。
モルンと彼女によく似たライチョウたちがトルバルの辺りに身を寄せ、彼の体を温めていた。
「……モルン。いっぱいいる」
声にならない声が出た。酷く掠れて上ずっていた。モルンは落ち着いており、優しく目を細めながら小さな声で鳴いている。彼女もまた家族に再会できたようだった。
起き上がろうとしたが、上半身を起こすのがやっとだ。全身が怠く、幾重にも掛けられた毛皮を剥がしてみれば、痩せ細った両脚が姿を現した。一瞬ぎょっとしたが、脚が二本とも残っていることに心から安堵した。
顔周りにも包帯が巻かれ、右側がじんわりと痛んだ。あの処刑人はどこへ行ったのだろうかとぼんやり考えていると、天幕の入り口が開いてひとりの年老いた男が入って来た。
「お、起き上がれたか」
男はトルバルの傍らに腰を下ろし、炉に掛けられた鍋に入った白湯を木製の器に注ぎ始めた。
「セルマは……?」
「そう急くな。あのちびすけは今外にいる。四六時中お前の側に置いて看病させるのも酷だからな。女たちと海辺に仕掛けた罠を見に行ってもらっとる」
「俺はずっと寝っぱなしだったのか?」
「いんや。何度か目を覚ましてた。食事も会話もしたぞ。いまいち要領を得なかったがな。覚えとらんか?」
「……何も」
「あの子。セルマに感謝しろよ。お前を助けてくれと必死に頼み込んだのはあの子だ。何やら手記を持っていたな。薬草や治療の知識がぎっしり詰まっとった。なかなか価値のある代物だ。どこで手に入れた?」
「詳しい出所は言えない。友達で、命の恩人である奴から譲り受けた」
「ほぅ、そうか。——ほら、飲め」
男は器に注いだ白湯をトルバルに手渡した。温かな湯気が、つるりとした器から静かに立ち上っている。
「……よく俺を助ける気になったな。どこの奴かも知れない、汚い死体になるだけかもしれなかったのに」
「お前さんが戦うのを陰から見とった。事情を知らない故に手を出すこともできなかったが、セルマの訴えを聞いてな。子供を守るために必死になれる奴を見殺しにはできんかった。あの子は言ったよ。『ここがトルバルを助けてくれない場所なら、私も助からなくていい』と」
「そこまで言わせたくなった」
「そんなこと言ったってもう遅い。しっかり礼を言うんだな」
トルバルは白湯を飲み干すと、男の手を借りてゆっくりと立ち上がった。天幕の出口を捲り、外の空気を吸う。冷え切った初冬の空気を肺いっぱいに取り込んだ。たしか、あの森から抜け出したのも初冬だったなと思い出し、トルバルは小さく肩をすくめた。
「大丈夫だ。ひとりで歩ける」
「杖くらい使え。毛皮も羽織って」
男の手から杖代わりの流木と毛皮を受け取り、北の果ての村をひとり歩く。木造小屋や革で作られた天幕がぽつりぽつりと立ち並ぶ小さな村だった。辺りを見回しながら歩いていると、凍りかけの魚を捌く髭面の男と目が合った。
「よお、もういいのかい?」
髭面の男はトルバルを見て言った。トルバルが頷くと、「セルマならあっちだぜ。無理はするな」と海岸の方を指さした。
礼を言って海岸を目指す。荒涼とした海岸には深い霧がかかっており、まるであの世のような光景であった。トルバルの胸の中に一抹の不安が湧き始めた時、霧の中から声がした。
「トルバル!」
霧の中から飛び出した少女は真っすぐにトルバルの腕の中に飛び込んできた。
「セルマ、見ないうちにちょっと大きくなったか?」
トルバルはセルマの頭の位置が以前より少し高くなっていることに驚いた。
「うん。だってもうお姉さんだから。トルバルは、ちょっと小さくなったね。いっぱい頑張ったから」
大真面目にそういうセルマに、トルバルは思わず噴き出した。また体を鍛えて大きくならなくてはならないなとぼんやり思った。
ふたりは水平線の見える浜辺までやって来て、大きな流木に腰を下ろした。その頃には霧も少しずつ晴れ始めていた。
「トルバル。あれを見て」
セルマが海の向こうを指さす。
「あれは、島か?」
「そう。この海の向こうには、まだ島があるんだって」
セルマはトルバルの手を握り、「いつか行けるかな」と目を輝かせている。
「セルマ。ごめんな。最後までお前には救われっぱなしだった。お前がいなかったら、ここまでは来られてないんだ。きっと途中で死んでた」
トルバルは海の向こうを見つめながら考えた。戦場から逃げ出し、命を救われ、小さな命を守りながらここまでたどり着いた自分はいったい何を変えられただろうかと。
「私何もしてないよ。でも、そういう時は『ごめん』じゃなくて」
セルマが眉間にしわを寄せてトルバルを見上げた。
「そうだな。ありがとうセルマ」
「トルバルもありがとう」
もう以前のように走ることはできないかもしれない。失った左耳は戻ってこない。これから先、様々な試練が待ち受けていることだろう。
トルバルは静かに目を伏せ、潮風を受けながら波の音に耳を傾けた。まだ生きている。心の底からそう思った。
それぞれが自らの速度で歩みを続けること。不条理に殺されないために足掻くこと。その先に待っているのは、絵に描いたような輝かしい幸福ではないが、虚無や絶望であるとも限らないのだ。
「セルマ、ここは終着点じゃない。ここからが本番だぞ」
ふたりは冷たくうねる冬の海をずっと眺めていた。北の果てには不釣り合いである大きなワタリガラスが、その様子を静かに見守っていた。
おしまい。
最終話までお読み頂きありがとうございました。
ステンの番外編の続きを今後投稿するかは今のところ未定です。ふんわりとネタはあるのですが……




