優しき森の番人
「セルマ。外に、何か……」
「うん。トロールがね」
セルマの言葉にトルバルははっとしてすぐに起き上がろうとした。まだ体は痛むが、疲労感はいくらかましになっている。
「トルバル、大丈夫。何もしないよ。トロールが薬草や野イチゴの場所を教えてくれたの」
「なんだって?」
トロールは小屋の周りをゆっくりとした足取りでうろついているが、こちらに何かしてくる気配はまるでなかった。それどころか、この小屋の番でもするかのように落ち着き払っている。
「お友達になったんだよ。おじいちゃんトロールが守ってくれるの。悪い人たちもここには来ないよ」
セルマが言う。どうやら本当らしいと、トルバルは肩の力を抜いた。彼女が今まで無事なのが何よりの証拠だ。
「……あとでお礼言わないとな」
「うん。だから休んでて大丈夫だよ」
壁の穴から少し冷たい風が吹き抜けてくる。その穴の向こうに、トロールの姿が見えた。シワだらけで年老いた、しかし大きなトロールだった。
セルマが言うには、近くに小さいながらも綺麗な湖があり、そこまでトロールがついてきてくれたという。水も澄んでいて魚もおり、辺りも木に囲まれて静かな場所であるらしい。
トルバルはゆっくりと立ち上がり、小屋の外へ出た。もう何日も体を洗っていない。脚の傷には薬草が塗られているが、一度しっかりと綺麗にしなくてはならない。セルマとモルンもその後に続く。
晩夏の午後の森は少し肌寒く、空気も澄んでいて小鳥たちの囀りもよく聞こえる。南の方では聞かない鳥の声に、随分と遠くまで来たものだと実感する。もう秋はすぐそこまで迫っているのだ。木の根元には秋のキノコがたくさん生えている。
まだ少し重たい体をどうにか動かして、トルバルは湖の方へ歩いた。その背後には大きなトロールが静かについている。不気味な光景だが、彼は不思議と恐怖を感じなかった。全身に苔や草を生やし、シワだらけになった老木のようなトロールは、一行を見守るようにゆっくりとした歩みでついてくる。トルバルは、これまで自分が狩っていた化け物にどこか安心感のようなものを覚えており、それがどうにも信じられなかった。
——まさか、こんな日が来るとは。
戦場と化した森で何度も血を流し、仲間を失い、身も心も擦り減らされた。ただの狩るべき化け物としか思っていなかった。野蛮で凶暴ななトロールが心底憎かったのだ。しかし、あの南の森を抜け出してステンやマヤと生活し、こうして幼いセルマと共に守られている今、そんな感情はどこか遠くへ去ってしまった。全身の血が沸騰するような興奮も、命を奪われるのではないかという恐怖や怒りも今はなく、ただ年老いた物静かなトロールに背を預けていた。
やがて、森の奥に鏡のような湖面が姿を現した。水は信じられないほど透き通り、底に泳ぐ魚の姿まではっきりと見えていた。
トルバルは服を脱いで水の中に入った。少し冷たいが、しっかり肩まで浸かり、泥や血にまみれた全身を洗う。
傷口に触れた時、エミルの屋敷で倒したロヴィルンのことが頭に過った。考えてみれば、あの魔獣もかつての自分と同じ哀れな存在なのではないかいう考えが過ぎり、トルバルは脚に這わせた手のひらに思わず力を込めた。
傷口からは血が滲み、裂けた肉の奥からじくじくとした痛みが這い上がってくる。冷たい水の中で、熱い血がどくどくと脈打つのがわかる。
——俺はまだ死んじゃいないからな。
体は疲れ切っているが、澄んだ水面に映る自分の顔は不気味なほど生気に満ちている。いつか夢に見たみすぼらしい逃亡兵の面影は鳴りを潜め、鋭い眼光が反射している。もう何も怖くない。そんな気がした。
トルバルは両手で水をすくい、ばしゃばしゃと顔を洗った。
森の方を振り返ると、トロールの足元にセルマとモルンが座って火を起こそうと奮闘している。その姿を見た瞬間、ふいに目の奥がじわりと熱くなるのがわかった。
——何だってやれる。まだ、戦える。
トルバルは、まさか自分がこんな思いを抱きながら北の果てを目指し歩き続けるとは思ってもみなかった。セルマのおかげで敵の数が倍に増えてしまったことに加え、食料も二人分確保せねばならず、おまけにぐずって歩けなくなったセルマをしょっちゅうおぶるせいで体への負荷も倍であったが、それでもトルバルは思う。これで良かったのだと。
「私のせいでトルバルはいっぱい戦わないといけなくなっちゃった」
いつだったが、旅の途中セルマにそんなことを言われたことがあった。そんな時、トルバルは決まってこう言った。
「お前とモルンがいなかったら、俺は絶対にここまで来られなかった」
そう言って彼女の頭を撫でた。「ここまでしぶとく頑張れたのはお前たちがいたからだ」と。その言葉に偽りはなかった。
水から上がると、セルマが起こした焚き火にあたった。湖の魚は捕まえやすく、トルバルは三匹のマスを仕留めて枝に刺し、じっくりと焼いた。
「ねぇトルバル。お父さんとお母さんは、トルバルにどんな酷いことしたの?」
魚を食べていたセルマがふいにそんなことを言った。知る必要があるのかはともかく、知りたくなるのも無理のない話である。しかし、話せばきっと彼女は傷つくのだ。
トルバルは少し考えてから、ぽつりぽつりと話し出した。
「大人になると、誰しも変わっていく。どんなに仲が良かったとしても、すれ違いが生じる。まあ、なんだ。お前の父さんも母さんも、悪人じゃねぇよ。ただ貧しかったんだ」
「でもトルバルは傷ついたんでしょ。お父さん、酔っぱらった時に言ってた。自分のせいで友達が死んじゃったかもしれないって」
「友達か……誰しも、生きてりゃいつかは傷つく。俺だって何人も傷つけてきた。一丁前に被害者ぶれないほどに」
トルバルはセルマを自分の膝に乗せ、その上にモルンも乗せた。
「俺はまだ生きてるからどうとでもなる。お前の親も過剰なまでの報いを受けた。俺はただ、追い詰めた奴らを許さない」
「あのね、でもね、ひとりで頑張りすぎたら駄目なんだよ」
薄紫色の瞳が真っすぐにこちらを見据える。それを真似るようにモルンまで首を伸ばし、頼もしい視線を寄越した。
「頼もしいなお前たちは」
自然と笑いが溢れた。こんな風に笑う日が来るとは思わなかった。
「そうだセルマ、ちょっと頼みがある」
トルバルはそう言ってセルマにナイフを手渡した。
「後ろの髪を切ってくれ。指を切るなよ」
トルバルの言葉にセルマは「いいの?」と嬉しそうに立ち上がり、向きを変えたトルバルの後ろに回った。
長旅に伴い襟足はかなり伸びてきていた。木のツルや白樺の繊維で結わえていたが、そろそろ本当に煩わしくなったのだ。
「根本から切っていい。いいか? 指だけは——」
言い終わらないうちに髪が引っ張られ、後頭部に鈍い痛みが走った。
「切れたよ!」
セルマが満足気に言いながら切った髪を手渡してくる。眉間にしわを寄せながら後頭部をさすると、確かに伸びた髪はそこには無く、綺麗に刈り取られている。
「首の後ろは怪我したの?」
セルマが焼印の跡を見ながら言う。ステンに消してもらったものだ。
「これは、もう誰の物でもないっていう印だ」
「よくわかんない。まだ痛いの?」
「たまに。でも嫌じゃない」
「よくわかんない……」
トルバルは困惑するセルマの頭を撫で、彼女からナイフを受け取った。
前側の髪はトルバルが自ら切り落とした。すっかり短髪になってしまうと、いくらか気分もすっきりした。
「すごい! 似合ってる!」
「お前もやるか?」
「私は伸ばすからヤダ!」
いつの間にか辺りは薄暗くなり始めていた。北の空には一番星が瞬いている。近くの大岩に腰掛けていたトロールはおもむろに立ち上がり、「もう遅いからついてこい」とでも言うように小屋の方へと歩き出した。
小屋の中は不思議と暖かく感じた。外にはトロールがずっと静かに佇んでいる。疲れ果てた体も傷の痛みも、今のトルバルにはほんの些細なことのように思えた。
ここまでお付き合い頂き本当にありがとうございます。
物語はあと2話残っていますが、10/23(金)に2話同時公開いたしますので、次回で完結予定です。
追記:10/24(土)に変更になりました。




