炭焼き小屋
酷く足取りが重かった。肋骨の辺りがじわりじわりと痛みを増し始め、麻布を巻いた右腿は熱を持って歩く度に痛みが走る。闇の奥から冷たい風が吹いてきて、微かに傷口を撫でるだけでも顔をしかめるほどだ。
セルマはいくらか元気を取り戻し、自らトルバルの背中を下りて自力で歩き始めた。処置を終えたとて怪我をした子供を歩かせるのは気が引けたが、実のところかなり助かっていた。今のトルバルはいつものようには歩けない。一刻も早く北の果てへ歩みを進めたいが、それと同じくらい今すぐ体を休めたかった。
しかし隠れて移動できるのは夜の間だけであり、夜明けまでは歩き続けなければならなかった。トルバルは幾度も立ち止まりながら呼吸を整え、気合いを入れ直して歩き続ける。
先頭を行くモルンはいつもよりゆっくり歩き、セルマはトルバルの手を強く握って彼を支えるようにして歩く。
「トルバル、休もうよ」
セルマが言った。自分ではいつも通り歩いているつもりだったが、実際トルバルは真っすぐに歩くことも困難になってきていた。
「私疲れちゃった。もう歩けないよ」
セルマはその場に座り込んだ。もちろんその言葉がトルバルを休ませるための嘘であることはわかっている。だがトルバルは一緒に座ることはせず、木に寄りかかりながら荒い呼吸を繰り返して立っていた。今座ったら二度と立ち上がれないような気がしたからだ。
「ク……!」
その時モルンが一声鳴いて、トコトコと走り出した。
「モルン! どこへ行くの?」
セルマが立ち上がり、トルバルの手を引いて後を追う。危険が迫っているのだろうか。とトルバルは警戒した。冷たい汗が背中を伝う。
しかしモルンが見つけたのは追っ手でも獣でもなく、うち捨てられた炭焼き小屋であった。
「良かった。ここでなら横になれるよ」
セルマが小屋の戸を開けた。中は簡素な作りである。床や壁がところどころ腐りかけてはいるが雨風は凌げそうだ。小屋の中心には炭を焼く窯がある。
月明かりも届かない真っ暗な小屋の中で、セルマはトルバルの手を強く握りしめていた。怖いのだろうと思い「大丈夫だ」と声をかけてやろうとした時、ふいに体の力が抜け、トルバルはその場に崩れ落ちてしまった。
「……悪いセルマ。少し休んだら大丈夫だ。すぐ良くなる」
そんなことを言ってはみるが、実際のところよくわからなかった。疲れ果て、何も思考できない。
——しっかりしろ。何をやってる。
そう自分に言い聞かせ、起き上がろうとするが力が入らない。酷く情けない気分だった。
その後も何か喋ったが、自分でも何をセルマに言っているのかよくわからないまま、重くなった瞼を閉じ、そのまま全身の痛みから逃げるように眠りの底へと沈んでしまった。
「トルバル、今日は何して遊ぶんだよ?」
ふと、背後から少年の声がして、トルバルは振り返った。
「バート、なんでここに?」
幼き日の友人を前に、トルバルは目を見開いた。しかし、同時に彼自身も子供の姿に戻っていた。普通に考えればおかしなことだが、不思議なことに何の疑問も湧いてこなかった。
「なに変な顔してんだよ。いつもここで待ち合わせしてるだろ」
「ああ、そっか。そうだった」
「調子でも悪いのか?」
「なーんか、寝ぼけてんだよな」
町の広場の真ん中で、ふたりは道行く人々をぼんやり眺めていた。よく晴れた初夏の午後で、穏やかな時間が流れている。
「おい、こら! バート! トルバル! また俺の家の前に落書きしたろ!」
しかし、そんな平穏は近所のオヤジの怒号によって掻き消された。
「バレたか。意外と早かったな」
バートがニヤニヤしながら言う。
「今日はオヤジと鬼ごっこで決まりだ!」
トルバルもそう言ってバートの服の裾を引っ張り、ふたりは大通りへはしゃぎながら走り出した。
大通りを抜け、細い路地に入り込み、外壁を登って誰かの家のベランダまでやって来ると、さすがに誰も追ってこなくなり、ふたりは寝そべってヘラヘラと笑っていた。
「……トルバル、ごめんな。本当に」
笑い疲れ、奇妙な沈黙が流れた直後、バートがふいにそんなことを口にした。
「謝るのは俺が死んでからでいい」
トルバルは迷いなく言った。彼がいったい何の話をしているのか、手に取るようにわかっていた。
「あの日、両親が殺されてから、変わってしまったお前をどう受け入れたらいいのかわからなかった。でも、きっと自分の人生のことばかり考えてた。だから突き放すような真似を……」
「俺も暴力ばかりでろくな奴じゃなかった。どうかしてたのはお前だけじゃない」
もはや自分が子供の姿であることも忘れていた。空に輝いていた太陽はいつの間にか雲に隠され、ぽつりぽつりと雨粒が肌に落ち始めている。
「今の、この関係を忘れなければ、俺はあんなことしなかったと思う。たぶん、お前は……トルバルは、ずっと覚えててくれたんだよな」
「たまに忘れて殺したくもなったけどな」
トルバルがそう言って足先でバートを蹴ると、彼は少し泣きそうな顔で笑った。
「もし、あの世で会えたら、その時はそうしてくれ。でもまだまだ先になりそうだな。お前は誰よりも粘り強くて頑丈だから」
「まさかあの世でもそんな姿じゃないだろうな。子供は殴れねぇよ」
雨粒は大きさを増し、地面を濡らしてゆく。バートは一層口角を上げ、首を横に振った。
「もう戻った方がいい。俺が言うのもおかしいけど、お前ならやれるさ」
バートは申し訳なさそうに言う。トルバルはベランダから身を乗り出した。
「来てくれてありがとな。バート。この時の思い出があったから、俺はやって来られた。……楽しかった」
「ありがとう。トルバル。またいつか」
バートの言葉を背に、トルバルはベランダから飛び降りた。
「トルバル、起きた?」
ぼやけた視界の真ん中にセルマがいる。意識はまだ不鮮明だが、自分を覗き込むその目元がやけに頼もしく見えた。
「大丈夫だよトルバル。薬草もあるし、木の実もたくさん採ってきたよ。薪も集めたし、お水だって——」
——なんてことだ。ひとりで外に出たのか。
自分が不甲斐ないばかりに怪我をした子供を更なる危険に晒してしまった。そう思うと腹の底から悔しさとやるせなさが込み上げてきて、トルバルは血が滲むほど自分の腕に爪を立てた。
こんなところで寝ている場合ではない。這ってでも北の果てへ行かねばならない。
これまで何度も怪我をしてきた。休む暇さえ与えられず、このまま死ぬのではないかと思ったことも一度や二度ではない。
——だから、大丈夫に決まってる。
トルバルはセルマを抱きしめ、絶対に泣くまいと唇を噛み締めた。謝りたくもなったが、それはやめておいた。ただ強く抱きしめ、小さな頭を撫でた。
彼の手のひらは激しく斧を振るい続けたことで厚い皮がべろりと剥がれ、そこから滲んだ血が固まってガサガサになっていた。
セルマの銀色の細い髪に手のひらの凹凸が引っ掛かる。その痛みなどもはや些細なことで、どうでも良かった。ただ考えていたのは、この子を絶対に死なせてはならないということだけである。
「セルマ、凄いぞ。よくやった」
「うん。私もうお姉さんだよ」
今度はセルマがトルバルの頭を撫でた。小さな手がバサバサの髪を撫でると、ますます泣きたくなって仕方がなくなる。
小屋の隙間からは光が漏れていた。その光を塞ぐように、ぬっと何かが横切った。




