西の森、追放者の穴倉
ぼやけた意識の中で、トルバルは薪の爆ぜる音を聞いた。右足がじんわりと痛い気がするが、確かめる気にもならない。暖かいまどろみに甘え、手足をぐったりと投げ出したまま、再び瞼を閉じようとした。
グゥ、グゥ。
耳元で妙な音がした。続いて温かく湿った柔らかい感触が頬に押し付けられる。目玉だけ動かしてそちらを見ると、小柄な黒いトナカイが鼻先を押し付けながらじっとこちらを見つめていた。漆黒の毛並みとは対照的な乳白色の小さな角には、鈴の付いた赤いリボンが結ばれている。
冬に差し掛かっても角があることからメスなのだと見て取れる。オスであれば秋に抜け落ちるはずだからだ。
「グゥ、グゥ」
トナカイが鳴いた。柔らかな鼻先に生えた短い毛がどうにもくすぐったい。トナカイはトルバルが目覚めたことが嬉しいのか、濁った声で鳴きながら、短い尻尾を穏やかに振ったかと思うと、トルバルの袖口を咥えてグイグイと引っ張り始めた。
「ロク、そいつはまだ遊べない。勘弁してやれ」
トナカイの奥に男がいた。トルバルはようやく冴えてきた頭で薄暗い辺りを見回した。壁にはひとつも窓がない。唯一あるのは焚き火の煙を外へ逃がすための天窓のみで、そこから一筋の光が差し込んでいることから、かろうじて昼間だとわかる。半分地面に埋まったような造りになっているのだろうと思った。まるで巨大な墓穴である。
墓穴の中は土と針葉樹、そして煙のにおいで満たされている。低い天井には毛皮や燻製にするための肉が吊り下げられ、平たい石を積み上げて作った小さな炉の鉄鍋の中では何かがグツグツいっている。
ようやくトルバルは決心して、恐る恐る自分の身体を見た。右足には添え木がされており、手には包帯が巻かれていた。指の感覚を確かめるように握ってみると、全ての指が動いた。凍傷で指を失うことは免れたようだ。
どうやらここは男の住処であるらしく、自分は命を助けられたのだと理解した。
「折れてない。酷使し過ぎたから完治は難しいかもしれないが」
ほっとしたのも束の間、男は何の感情も含まない声色でそう言った。
「走れないのか?」
「完治は難しいかもと言った」
トルバルの問いに男はぶっきらぼうに返すと、ロクという名のトナカイに手を伸ばし、彼女の尻をつついた。
「そんな不味いもんよりこっちを食え」
彼が差し出したのはトナカイの主食であるハナゴケだった。暖かい時期に採って乾燥させたハナゴケを差し出されたロクは、すぐにトルバルの袖口を食むのをやめ、尻尾を激しく振っておやつに夢中になった。
「……あんた名前は?」
トルバルは男に尋ねた。男はトルバルに背中を向けたまま暫く押し黙った後、「ステン」と短く名乗った。とんでもなく愛想は悪いが、手当ての丁寧さやトナカイの懐き様からして悪人ではないように思えた。
「俺は——」
トルバルが名乗ろうとすると、ステンはそれを遮るようにこう言い放った。
「脱走兵のトルバルだろ。トロールを狩ってた」
「何故それを」
まさか脱走兵の自分を売るのではないか。目の前の男が急に恐ろしく思え、トルバルは木製のベッドから転げ落ちた。そのまま床を這うように逃げていると、何か冷たく硬いものに当たった。
「……なんだ?」
薄暗いなか目を凝らしてよく見てみると、それは処刑用の大斧だった。ピカピカに磨かれた半月形の刃は、薄暗がりの中で焚き火の明かりを反射して不気味なまでに赤く光っている。
——ここはいったい何なんだ? 俺はこいつに処刑されるのか?
考えれば考えるほど頭は混乱し、トルバルは追い詰められた小動物のように部屋の隅へ行ってステンを睨みつけた。ロクはそんな彼を知ってか知らずか、喜んでコケを咀嚼している。
処刑人はこの世界で必要不可欠とされながらも、世間からは忌み嫌われている不浄の存在であった。
処刑人が街を歩けば民衆は静かに距離を取り、酒場でもその席は隔離されている。死刑執行時には黒い衣装を身に纏い、日常生活を送る際には不気味な処刑斧の刺繍が施された赤い服を着ることが義務づけられている。誰もが一目で処刑人だと認識し、接触を避けられるように。
ステンは、真っ黒な服を着ていた。
彼は炉の炎を背にして、怯えるトルバルの方を見ている。顔には影がかかり、どんな表情をしているのかすらまったくわからない。彼は何も話さず、ふたりの間に奇妙な沈黙が流れた。
「落ち着いたか」
先に口を開いたのはステンの方だった。何の感情も含まない、乾いた声だった。命の恩人を睨みつけた愚かな脱走兵に対し、特に何とも思っていないかのような落ち着きぶりに、トルバルはなんともいたたまれない気分になった。
「尋問せずとも色々吐いた。不用心な奴だ」
確かに、夢の中で色々口走ったような気がした。
「すまない。処刑人なのか、あんた」
「元、処刑人だ」
「どうして俺を助けた?」
「こいつが悲しそうに鳴くからだ」
ステンはそう言って隣に寄ってきたロクの鼻を掻いた。無邪気で甘えん坊のトナカイは気持ちよさそうに目を伏せて尻尾を左右に振っている。
「歩けるようになったら、すぐに出ていく。礼は必ずする」
トルバルが返すと、ステンは小馬鹿にしたようにふんと鼻を鳴らした。
「歩けるようになっても直に極夜が来る。出ていくなら終わってからにしろ」
「でも、憲兵が。下手すりゃ人買い組織も……」
「俺が密告するのが怖いか。それとも穢れた処刑人と同じ空気を吸うのは耐えられないか」
ステンの影がほんの一瞬だけ濃くなった気がした。
「違う。そんなんじゃない」
トルバルはこの空間の平穏と静寂を乱す存在である。現に今この瞬間も彼の個人的な空間を侵害しているのだ。長居すれば必ず迷惑がかかる。トルバルは身を起こしてステンに少しだけ近付いた。
「感謝してる。嘘じゃない。でも俺は雪崩に乗じて逃げた脱走兵だ。重罪人だ。処刑人だったんなら誰よりもよくわかってるだろ。歩けるようになったら、すぐにここを出る」
トルバルはそう言いながら、無意識に視線を炉の炎に照らされたステンの耳に向けてしまった。
左の耳が削ぎ落とされている。それは処刑人の証であった。
視線に気付いたステンは、仏頂面でもっとよく見えるように顔を傾けた。
「これ、血を止めるの大変そうだな」
トルバルは特別同情することもなく、珍しがることもなかった。
「お前は何故不浄の処刑人を拒絶しない。どこの生まれだ」
ステンはそんな彼の様子に少し拍子抜けしたようだった。
そこからお互いの出自を打ち明け合う流れになった。トルバルは暗黒街と化した旧王都に産まれたことを打ち明け、ステンは北の領主町で代々続く処刑人の家の産まれだと話した。
「旧王都へは行ったことがある。無法者が占拠する危険地帯だ。お前がトロール狩りの部隊に放り込まれたのも納得だ。騙されやすそうだしな」
「まあ、騙されたのは事実だ。あそこは遷都に伴って大勢がお役御免になった。落ちぶれた人間や貧乏人、罪人ばっかりの場所だ。俺があんたを拒絶する理由なんてない」
トルバルは自身の醜い生まれ故郷のことを思い出した。夢に出てきた父も母も、もうこの世にはいない。
「……ところで飯は食えそうか」
ステンがやや面倒そうに尋ねた。トルバルは今ならトナカイの糞でももりもり食べられるような気さえした。
「肉とかか?」
トルバルの問いに、ステンは「そんなもんいきなり食ったら死ぬ」とだけ言って、火に掛かっていた鍋からどろどろの粥を盛って寄こした。それはもはやほとんど液体であったが、今のトルバルの胃の状態にはちょうど良く、時間をかけてゆっくりと、ありがたく流し込んだ。
数ある作品の中からお読み頂き、ありがとうございます。
次回は6/27(土)更新になります。
トルバルの怪我の具合を診てもらいます。お婆さん魔女も登場します。




