雷と地吹雪、黒の道標
トルバルの過酷な旅は数日間続いた。常に追っ手の影に怯えながら物陰に身を潜め、軍から支給された外套を雪に埋め、村ではゴミを漁り、決してその足を止めなかった。腫れ上がった右足は日に日に痛みを増しきていた。彼は汚い布切れをしっかりと巻きつけて、ろくに休みも取らずに、分厚い雪雲に覆われた灰色の空の下を取り憑かれたように歩み続けた。心が休まる瞬間は一時も訪れなかった。
薄氷の張った川を慎重に渡り、雪原を走り抜け、とにかく戦場から離れようと北へ向かって進んでいた……はずだった。
夕暮れ時、霧掛かった薄暗い森の中を彷徨うように歩いていると、遠くで雷の音が聞こえはじめた。雷鳴は徐々に近づいてきて、辺りは一層暗くなる。雪をかぶった黒いトウヒの木が、冷たい風に揺れてザワザワと不穏な音を立て、枝にとまっていたワタリガラスが低い声で鳴いて飛び去った。ツンと湿った木々の匂いが不安を煽る。
——何か来る。
酷く嫌な予感がすると思ったのも束の間、突如として突風が吹き荒れた。突風は地面の雪を激しく巻き上げ、目の前は一瞬にして真っ白に覆いつくされてしまった。地吹雪だ。
何も見えず、辺りは怪物の唸り声のような風の音に支配され、トルバルは自分がどこへ向かって進んでいるのか全くわからなくなった。目を開けることもできず、必死にマフラーで鼻と口を覆い、地吹雪がおさまるのを待った。しかしいつまで経っても視界は白く塗り潰されたままである。
——死んでたまるか。
何がそこまでトルバルを掻き立てるのか、彼自身にもわからなかったが、とにかくここまで来て終わるのは何が何でも御免だった。彼は歯を食いしばり、地面を這うようにして強引に前進し続けた。
身体が凍りつき、呼吸すらまともにできなくなる。さすがにもうお終いかと諦めかけた時、その場に不釣り合いな鈴の音が耳をかすめた。不気味なほど美しい音色だった。
首をもたげると、一頭の黒いトナカイが目の前に立っていた。トナカイは冷え切った鼻先でトルバルの身体を何度もつついた。耳元で切なく鼻を鳴らし、それはまるで健気な励ましのように思えた。
吹雪が少しだけ弱まった時、トルバルはトナカイの左の角に赤いリボンがはためいていることに気が付いた。あまりよく見えないが、何か刺繡のような模様まであしらわれている。それを見た時、彼は無性に目の奥が熱くなった。
こんなにも恐ろしい森の奥に、大切にされている生命がある。そう考えると、ますますここで諦めるわけにはいかなくなった。
「待ってくれ。置いていくな……」
黒いトナカイは唯一の道しるべであり、眩い希望だった。トルバルは力を振り絞り、弱り切った身体を必死に起こしてトナカイの後を追った。トナカイは何度も後ろを振り返り、トルバルの姿を確認していた。
ようやく地吹雪が止み、視界が鮮明になった時、トルバルはトナカイの目線の先に奇妙なものを見た。
ねじ曲がった赤松や背の高いトウヒが鬱蒼と生い茂る森の中に、雪に埋もれた小丘があり、その斜面から細い煙が出ていたのだ。薪の燃える匂いがトルバルの凍り付いた鼻腔に微かに届く。間違いない。誰かがいる。そう確信したが……
足がもつれ、その場に倒れ伏してしまった。起き上がろうと足掻いても驚くほど力が入らない。手足が繋がっている感覚すら失ってしまっている。まるで地面に落ちてバラバラに砕けた氷柱のようだ。おまけにせっかく良好になった視界までじわじわと霞んでいく。まっすぐ生えているはずのトウヒがぐにゃりとおかしな形に歪んでいく。少しの間考えて、自分が涙を流していることに気が付いた。
遠のく意識の片隅で、トルバルは誰かの足音を聞いた。静かな森の中に、雪を踏む音だけがやけに大きく響いている。
「お前は、俺と同類なのか?」
静かな男の声だった。
それから夢を見た。今まで見たこともない、やけに鮮明な夢だった。
——トルバル。大きく立派に育って、力のない人を助けてあげて。
——お前は強い子だ。不屈の精神を持った男になれ。
故郷の両親の声がする。よく晴れた草原の真ん中に、彼は立っていた。さっきまで感じていた氷獄のような寒さはどこにもない。暖かい風が頬を撫でる。
「すまない。母さん、父さん。俺は全部を間違った」
無性に謝りたくて仕方がなかった。
草原の真ん中には澄んだ湖があり、水面には幼い少年の姿が映っている。くすんだ暗い金髪は綺麗に切り整えられ、身体には傷ひとつない。オレンジがかった茶色の目は、光を反射して綺麗に透き通っている。生成り色の麻でできた服を身にまとい、襟元には母が縫い付けた花の刺繍がある。それはいつかの自分の姿であった。
「強くなれなかった。俺は立派な息子トルバルなんかじゃない。ただの、トロールから逃げた卑怯な逃亡兵だ」
水面が揺れて、ボサボサ頭の薄汚れた男の姿が映った。足の怪我がズキズキと痛み出す。ボロボロの布きれや皮鎧を身にまとった不格好で惨めな自分の姿に愕然とした。
「こんな、こんな無様な卑怯者に成り下がってしまった……」
暖かな風が吹いて、辺りの草花を穏やかに揺らした。
——忘れるな。どんな思いでここまで辿り着いたか。
馴染みのない低い声が聞こえた。それは遠のく意識の中で聞いた男の声だった。恐怖も戸惑いも一切なかった。知りもしない男の声に、トルバルは酷く安堵していた。
——その生への執着は終いまで捨てるな。これから先、どんなことがあってもだ。
もしかしたら自分には進むべき未来があるのではないか。終わりはまだ来ないのではないか。愚かにもそんな風に思った。




