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泥濘の逃亡兵と小さな聖域  作者: 生吹
第一章 処刑人と魔女の森
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開拓の森、逃亡兵の背中

「怯むな! 後退すれば命はない!」


 雪が積もり始めた初冬の森に、督戦隊の非情な怒号が響き渡る。手斧や鉈、弓を持った兵士たちが声をあげ、巨大なトロールに向かい走ってゆく。人より遥かに大きく、苔の生えた硬い皮膚に覆われた薄気味悪い巨人は、黄みがかった唾液をまき散らしながら、走り寄ってきた兵士たちを次々に蹴散らしていく。

 

 蹴散らされた兵士の中に、トルバルという名の青年がいた。彼は殆ど落葉したカエデの木に後頭部を打ち付け、大きく舌打ちをした。

 彼は体格も良く実力のある兵士であったが、自ら望んでこの泥濘(でいねい)へ足を踏み入れたわけではない。光のほとんど当たらない、極夜のような町から強制的に放り込まれた貧民であった。


 トルバルの頭は(いかづち)のような怒りと、底なし沼のような恐怖心に支配されていた。かじかんだ指で取り落とした弓を掴み、トロール目掛けて放つ。矢には毒草であるヒヨスの猛毒が塗られている。


 彼が放った矢は、トロールのぎょろりとした目玉に突き刺さり、耳をつん裂くような咆哮が森中にこだました。怯んでいる暇などない。トルバルは刃こぼれ寸前の斧を手に取り、立ち上がろうとして、右足を痛めていることに気が付いた。

 

 ——まずい。なんてヘマを……

 

 一匹のトロールが木々を乱暴になぎ倒し向かって来る。トルバルの頭の中に生々しい「死」の影が過った。同時に、自分はこんなところで何をしているのだという疑問がふと浮かび上がってきて、故郷の町の風景が鮮烈に思い出された。自分を貶めた奴らはどうしているのか。いつも優しかった幼馴染みは元気なのか。自分を騙し、人買いに売り飛ばしたあの裏切り者は。

 

 トルバルはまだ若い兵士であったが、トロール殲滅部隊の中では古株であった。他の兵士たちは皆あっけなく死んでしまう。トロールや魔獣に殺されて、あるいは凍てつく寒さに耐えかねて、あるいは自ら生命を絶って、あるいは……


 ——脱走兵は兵士としての、男としての、人間としての大恥である! 必ず見つけ出して処刑すべし!


 ——最後まで戦えば成功者としての幸福が待っている! 戦いを生き延びて英雄になれ!


 トルバルの頭の中に嫌というほど聞かされた言葉が響いた。卑怯者の逃亡兵は大罪人であるが、彼はこれまで秘密裏に仲間の脱走の手助けをしたこともあった。仲間は数日で連れ戻された。見せしめのために処刑され、吊り下げられた死体がカラスにつつきまわされる様を、これまでに何度か見てきていた。


 初期には連座制まで存在した。しかし兵士の数を減らしたくない現在の上層部は、トロール殲滅が終われば高い身分をやると兵士たちに約束することで士気を高めようとしている。そんな見え透いた嘘を信じる者がどれだけいるのか。


 トロールは距離を詰めて来る。仲間の兵士が血を流しながら雪面に倒れ伏す。どくどくと漏れ出る赤い血潮から白い湯気があがる。それはたった一瞬の出来事だったが、トルバルにはすべてが長い長い悪夢のように、不気味なほどゆっくりと感じられた。これまでも度々そのような瞬間は訪れたが、ここまで長く、意識がどこかに行ってしまいそうになるような感覚は一度も体験したことがなかった。

 

「俺はついにおかしくなったのか……?」


 そう呟いた瞬間、木々の根がブチブチと千切れるような不穏な音を聞いた。トルバルが覚悟を決めて歯を食いしばり、斧を握りしめたのと殆ど同時だった。

 

雪代(ゆきしろ)だ!」


 誰かが大声で叫んだ。それは雪と呼ぶにはどす黒く、土石流に近いものだった。初冬の雪と森の泥が混ざり合った黒い濁流が、恐ろしい音を立てながら地を這う大蛇のように襲いかかってきたのだ。


「逃げろ!」

「走れ!」

 

 仲間が口々に怒鳴るなか、トルバルは足が痛むことも忘れ、一心不乱に走った。濁流は森の木々や石ころを激しく押し流しながら、何人もの兵士やトロールを飲み込んでいった。


 

 

 それからどれくらい走ったのだろうか。気付いた時には、随分と遠くまで来ていた。辺りを見回しても仲間の姿もトロールの姿もなく、ただ静かな白い森がどこまでも広がっているだけだった。


 トルバルは静謐のなか呆然と立ちつくしていた。頭の中でふたつの声が聞こえる。「戻れ」という声と「逃げろ」という声が彼の中で反響していた。やがて「戻れ」という声は小さくなり、「逃げろ」という声ばかりが大きく響きはじめた。


 ——逃げろ!


 トルバルは痛む身体を引きずるようにして再び走り出した。

 彼の首筋は、歪な焼印の形に引き攣れている。必ず連れ戻され、仲間の前で無様に処刑されるとわかっていながら、愚かにも生き延びることを、自由を掴むことを選んでしまった。

 泥にまみれたボロボロのブーツが冷たい雪を踏む。喉の奥からは血にも似た不快な味がする。彼の吐く息は、しんと静まり返った銀世界には場違いなほどに熱く荒々しい。自分は確かにここに生きている。そんな風に実感したのは随分と久しぶりのことであった。


「すまない。皆、すまない」


 心臓が引き千切れそうになるほど激しく脈打っている。どんなに呼吸が苦しくとも、どんなに足が傷もうとも、彼は走って走って走り続けた。それは狂気にも似た生への重い執着だった。


 

 

 

3話以降、毎週土曜日に投稿できればと考えております。

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