開拓の森、逃亡兵の背中
濃霧と荒波に囲まれた北方の王国。その深い森の奥には鉄鉱山があり、多くの者が過酷な労働と魔物との戦闘に身を置いていた。
「怯むな! 後退すれば命はない!」
雪が積もり始めた初冬の森に、督戦隊の非情な怒号が響き渡る。手斧や鉈、弓を持った兵士たちが声をあげ、巨大なトロールに向かい走ってゆく。
人より遥かに大きく、苔の生えた硬い皮膚に覆われた薄気味悪い巨人は、黄みがかった唾液をまき散らし、捨て駒の兵士たちを次々に蹴散らしていく。
採掘の末にトロールの住処を荒らした人間たちは、当然ながらその脅威に晒されることになった。トロール殲滅部隊。彼らはそう呼ばれていた。
蹴散らされた兵士の中に、トルバルという名の青年がいた。彼は落葉したカエデの木に後頭部を打ち付け、大きく舌打ちをした。
彼は体格も良く実力のある兵士であったが、自ら望んでこの泥濘へ足を踏み入れたわけではない。光のほとんど当たらない、極夜のような町から強制的に放り込まれた貧民であった。
トルバルの頭は雷のような怒りと、底なし沼のような恐怖心に支配されていた。かじかんだ指で取り落とした弓を掴み、トロール目掛けて放つ。矢には毒草であるヒヨスの猛毒が塗られている。
彼が放った矢が、トロールのぎょろりとした目玉に突き刺さる。耳をつん裂くような咆哮が森中にこだました。しかし怯んでいる暇などない。トルバルは刃こぼれ寸前の斧を手に取り、立ち上がろうとして、右足を痛めていることに気が付いた。
——まずい。
一匹のトロールが木々を乱暴になぎ倒し向かって来る。トルバルの頭の中に生々しい「死」の影が過った。同時に、「自分はこんなところで何をしているんだ」という疑問が浮かび上がってきて、故郷の町の風景が鮮烈に思い出された。自分を貶めた奴らはどうしているのか。いつも一緒だった幼馴染みは元気なのか。自分を騙し、闇商人に売り飛ばしたあの裏切り者は。
トルバルはまだ若い兵士であったが、トロール殲滅部隊の中では古株であった。他の兵士たちは皆あっけなく死んでしまう。トロールや魔獣に殺されて、あるいは凍てつく寒さに耐えかねて、あるいは自ら生命を絶って、あるいは……
——逃亡兵は兵士としての、男としての、人間としての大恥である! 必ず見つけ出して処刑すべし!
トルバルの頭の中に嫌というほど聞かされた言葉が響いた。卑怯者の逃亡兵は大罪人である。しかし彼はこれまで秘密裏に仲間の脱走の手助けをしたこともあった。仲間は数日で連れ戻された。見せしめのために吊り下げられた死体がカラスに啄まれる様を、これまでに何度か見てきていた。
消耗品である兵士の数を減らしたくない上層部は、トロール殲滅が終われば高い身分をやると兵士たちに約束することで士気を高めようとしている。しかし、そんな見え透いた嘘を信じる者がどれだけいるのか。
トロールは距離を詰めて来る。仲間の兵士が血を流しながら雪面に倒れ伏す。どくどくと漏れ出る赤い血潮から、白い湯気があがる。それはたった一瞬の出来事だったが、トルバルにはすべてが長い長い悪夢のように、不気味なほどゆっくりと感じられた。
これまでも度々そのような瞬間は訪れたが、ここまで長く、意識がどこかへ行ってしまいそうになるような感覚は一度も体験したことがなかった。
「仲間を、助けないと……」
そう呟いた瞬間、木々の根がブチブチと千切れるような不穏な音を聞いた。トルバルが死ぬ覚悟で歯を食いしばり、斧を握りしめたのと殆ど同時だった。
「雪代だ!」
誰かが大声で叫んだ。それは雪と呼ぶにはどす黒く、土石流に近いものだった。初冬の雪と森の泥が混ざり合った黒い濁流が、恐ろしい音を立てながら地を這う大蛇のように襲いかかってきたのだ。
「逃げろ!」
「走れ!」
周囲が口々に怒鳴るなか、トルバルは足が痛むことも忘れ、一心不乱に走った。濁流は森の木々や石ころを激しく押し流しながら、何人もの兵士やトロールを飲み込んでいった。
それからどれくらい経ったのか。気付いた時には、身体の半分を泥にのまれた状態で倒れ伏していた。
「助かったのか……?」
トルバルはすんでのところで命が繋がったことに安堵した。辺りを見回しても仲間の姿もトロールの姿もなく、ただ静かな白い森がどこまでも広がっている。かなり大規模な災害だったようだ。
頭の中でふたつの声が聞こえる。「戻れ」という声と「逃げろ」という声が彼の中で反響していた。やがて「戻れ」という声は小さくなり、「逃げろ」という声ばかりが大きく響きはじめた。
——逃げろ。
トルバルは痛む身体を引きずるようにして無様な格好で泥から這い出し、走った。
彼の首筋は、歪な焼印の形に引き攣れている。必ず連れ戻され、仲間の前で無様に処刑されるとわかっていながら、愚かにも生き延びることを、自由を掴むことを選んでしまった。
泥にまみれたボロボロのブーツが冷たい雪を踏む。喉の奥からは血にも似た不快な味がする。彼の吐く息は、しんと静まり返った銀世界には場違いなほどに熱く荒々しい。自分は確かにここに生きている。そんな風に実感したのは随分と久しぶりのことであった。
「すまない。皆、すまない」
心臓が引き千切れそうになるほど激しく脈打っている。どんなに呼吸が苦しくとも、どんなに足が傷もうとも、トルバルは走って走って走り続けた。それは狂気にも似た生への重い執着だった。
情けない、卑怯な逃亡兵。
世間は非情である。どんな言い訳を並べたところで、誰もが彼を鼻で嗤い、聞く耳すら持たないことだろう。
しかし、彼の心臓はまだ熱く脈打っている。まだ、止まってはいない。
数年の苦しみの末、ついに己の意志で人生を突き進む時がやって来たのだ。




