セルマの怪我とステンの故郷
雨がやみ、いくらか空が明るくなった。湿った風はひんやりとして、どこか心細い気分にさせられる。
セルマの切り傷は思いのほか深いようだった。トルバルが澄んだ川へ連れていき、泥の付いた傷口を洗ってやると、セルマは酷く痛がって泣き出した。同時に自分が足を引っ張っている自覚があるのか、不安そうな表情で「ごめんなさい」と言う。見捨てられるのを恐れているかのように思えた。
「トルバル……私もう歩けないの?」
「大袈裟だなお前は。これくらいの怪我で歩けなくなってたら、人間なんて絶滅してるぞ」
「でも、でもすごく痛いよ」
「痛くてもいずれ治る。ノコギリソウを塗ってやったろ? しばらくすれば傷も塞がって——」
そんな風に説明してやるが、実のところトルバルは不安で仕方がなかった。これは縫わなければ駄目だろうと考えていた。しかし自分が下手に縫えばどうなるかわからない。
——ステン。力を貸してくれないか。
トルバルは懐からステンの手記を取り出した。脂を塗った革製の袋に入れていたおかげで、川に落ちても無事だったのだ。
パラパラとページをめくると、一枚の別紙が落ちそうになった。折り畳まれたそれを広げてみると、地図のようだった。それもただの地図ではない。ステンの故郷の町が記された地図であった。
『何かあれば、ここを頼れ』
地図上の二重丸で囲まれた箇所には、屋敷のような絵が書かれている。町外れの墓場のとなりだった。
——ステンの故郷か。
『真夜中に裏口から尋ねること。俺の名前を出せ。居場所は言うな』
更にその下にはそんな走り書きがあった。
「セルマ、その傷を治してもらおう」
「どこへ行くの?」
「腕利きのお医者さんのところだ」
幸いにも、ステンの故郷はここからそう遠くなかった。トルバルはセルマを背負い、常に小走りで森を移動した。
「北へ急ぎたいだろうに。悪いなモルン」
「クゥ、クゥ」
ありがたいことに、モルンも素直についてきてくれている。
日暮れには森を抜けていた。街道を歩くのは危険なため度々迂回しながら人けのなさそうなルートを選んで走った。
太陽が傾き、辺りが薄闇に包まれはじめた。白夜もそろそろ終わろうとしている。ステンの家は町のはずれにあり、町の門をくぐらなくて良いため助かった。
真夜中になるまで、墓場の隅でじっとしていた。セルマは不気味な墓場を怖がったが、なんとかトルバルが宥めてその場に留まらせた。
「怖いお医者さんなの?」
セルマが薄紫の瞳を揺らして尋ねる。
「愛想は悪いかもしれないな。前に話した俺の友達の家なんだ」
「トルバルの足を治してくれたお友達?」
「そいつの弟がいる」
辺りが闇に包まれ、町の灯りも消えはじめた。目の前の医者の屋敷だけに灯りがともっている。
トルバルはセルマを抱き抱え、屋敷の裏口の戸を叩いた。
「今、行く」
中から若い男の声がした。そのまま待っていると、重い木製の戸がガチャリと開き、長身の男が姿を現した。歳はトルバルとそう変わらないように見えた。
「怪我か?」
男と目が合った。ステンと同じ、灰色の目をしている。
「この子の右脚を診てほしい」
「よそ者だな。どうやってここを知った」
「……ステンから、ここを頼れと」
「入れ」
男はそう言うと、ふたりを屋敷に招き入れ、戸を閉めた。
「まず傷を見せてくれ。ごめんな。僕はエミルだ。君はなんていうのかな?」
男は怯えるセルマの肩を優しく叩きながら言った。
「セルマ」
「よしよしセルマ。少し痛いけど、傷を早く治すためだ。我慢できるね。ちょっと縫うだけだ」
エミルはセルマの傷を見ながら言った。「縫う」という言葉にセルマは飛び退いて、危ういく椅子から転げ落ちそうになったが、トルバルが後ろからがっちりと押さえているため逃げられない。
「あらあらそんな風にしたら怖いわよ」
ふと女の声がしてそちらを見ると、初老の女がお湯を持ったボウルと布巾を持って立っていた。髪の色も瞳の色もステンと同じである。ステンの母親であることは一目瞭然だった。
「キツネさんのぬいぐるみよ。これをあげるから頑張ってね」
女はキツネのぬいぐるみをセルマに手渡し、優しく頭を撫でた。そして足元のモルンに目を向けた。
「ほら、ライチョウさんも頑張れって言ってるわ」
「モルンっていうの」
「そう。可愛いお名前ね」
エミルはセルマに強い果実酒を飲ませて眠らせ、傷口に僅かながら麻酔になる薬草を塗った。
「化膿してない。色もおかしくない。あんたがついてて良かったな」
エミルは鮮やかな手付きで瞬く間に傷口を縫い合わせていく。若くしてここまで卓越した技術を持つ医者はなかなかいないだろうと、トルバルは感心せずにはいられなかった。
接合はあっという間に終わってしまった。セルマの閉じられた瞼の隙間から一筋の涙がこぼれ落ちた。痛みを完全に消せるわけではないのだ。寝台に寝かされた彼女の横にモルンが寄り添い、銀色の細い髪の毛を繕いはじめた。
「もう少し安静にしておこう。ところで、兄さん——ステンにこの場所を聞いたと言ったね。彼は、生きているのか? 生きてるんだよな?」
エミルは果実酒をトルバルにも注ぎながら眉尻を下げて言った。その後ろには心配そうな顔をした母親もいる。
「生きてる。でも場所は言うなと。俺は、王都の森から逃げた逃亡兵だ。ステンに命を助けられた。何があっても死ぬなと。最後まで逃げ切れと言ってくれた」
トルバルの言葉に、エミルと母親の目に少しだけ涙が浮かぶのがわかった。
「そうか。兄さんらしいや。皆、兄さんは死んだと思ってるけど、俺たち家族だけは生きてるって信じてたんだ」
「あの子は少し優しすぎただけなのよ。助けてあげられなくて、本当に後悔してるの」
母親はエプロンの裾で涙を拭った。
エミルはふと思い出したように、ロクについても尋ねてきた。
「そうだ。ロク。小さな黒いトナカイは連れていなかったか? あの日、急にいなくなったんだ」
「ロクも元気だ。未だに小さいよ」
「やっぱり、あの子が守ってくれたんだな。あの日は雪が降ってたから、凍え死んでしまったらと思った。安心したよ」
三人は静かに笑い合った。しかし、トルバルはふと、窓の外に不穏な気配を感じた。セルマに寄り添っていたモルンも顔を上げ、唸り声を上げている。
「外を見てくる」
トルバルは椅子から立ち上がり、裏口から静かに外へ出ると、裏庭に吊るされたなめし革の陰に身を潜めた。闇に目を慣らしながら様子を窺っていると、数人の追兵の男が静かに裏庭の門を開け、中へと入って来た。その中には闇商人ホーカンの姿もあった。




