狩猟小屋の男
——このにおいは……
薬草の香りに混ざって、どこかで嗅いだことのある独特なにおいが鼻を掠めた。生臭いような、少し甘ったるいような……
最初は気のせいだと思った。そんなことが起こりうるはずがないからだ。しかし、トルバルは出てきた肉のスープのにおいを嗅いで確信した。嫌というほど嗅いだにおいだった。
「やっぱり、あんたはひとりじゃなかった」
トルバルはスプーンで肉を掬って、まじまじと観察しながら断言した。
「セルマ、この肉は駄目だ。食ったら最悪死ぬぞ」
「どうして?」
トルバルは困惑するセルマから無言でスプーンを取り上げ、セルマの手を取ると、席を立った。
「悪いな。これは食えない。俺たちはここを出る」
「何故だ。何故お前にわかる。どうやって気付いた」
バルブロの優しげな目つきが一瞬にして吊り上がるのがわかった。
「外へ出てろセルマ」
「そのガキは逃がさん!」
あろうことか、バルブロはナイフを振り上げ、セルマ目掛けて投げつけようとした。
「落ち着け。口外するような真似はしない。そんなことすれば俺達も無事じゃ済まない」
「わかっとらんな。俺の本当の目的が何なのか」
「……どうしたいんだ」
「そのガキを置いていけば、お前は逃がしてやってもいい」
トルバルの言葉に、バルブロは口角を上げ、ところどころ抜けた黄色い歯を剥き出しにして笑った。歯茎からは血が滲んでいる。
「なるほど。この子が目的なんだな。でもくれてはやれない」
トルバルは静かにそう言うと、テーブルに置かれたスープ皿におもむろに手を伸ばした。
「なあ、もし俺が逃亡兵や殺し屋だったらって考えないのか」
そう言いながら、バルブロの顔目掛けてスープをぶちまけた。
「外に出ろセルマ!」
トルバルの叫びと共に、セルマは半ば泣きながら走ってドアを開け、外に出た。モルンもその後に続く。
「クソッ、待て……!」
目にスープが入ったバルブロはめちゃくちゃにナイフを振り回しはじめた。トルバルはすぐそばにあった椅子を持ち、暴れまわるバルブロを三度ほど殴った。
バルブロは床に倒れ、荒い呼吸を繰り返したが、その呼吸はどこか弱弱しいものだった。
「あんたは病気に罹ってる。やっぱりそうなるのか。俺は兵舎にいた頃、ひとついいことを教わってた。どんなに腹が減っても人間の肉は食うなって。人間の肉のにおいはよく知ってんだ。血のにおいも。薬草で誤魔化そうとしても無駄だ。何故お前は人間を食う」
トルバルが静かに問うと、バルブロは呼吸を乱しながらもニヤニヤと笑い、淡々とした調子で話し始めた。
「俺は数年前、村で妻を殺してその肉を食った。病に侵されていてな。彼女の肉を食べれば同じ病に罹り、同じ冥界へ行けると思った。当然処刑されるはずだったさ。ところが処刑人はヘッタクソな若造でな。何度も失敗され、結局俺は助かった。だが村での扱いは、それは最悪でな」
「当然だろ。そんなことしたら」
「俺は村から逃げ出したよ。お前のようにな。逃げて、逃げて、この深い森にたどり着いた。ここなら自分らしく生きていけると思ったんだが……」
「まさか、また食いたくなったんじゃないだろうな」
トルバルが尋ねる。バルブロはまた歯を見せて笑い出した。粗末な丸太小屋に、不気味な男の笑い声が響く。
「最初は獣を獲ってた。でもこの森は獣が少ないようだ。そこで、あることに気づいた。ここいらは、お前らのような訳ありの人間が度々迷い込む。追放者、旅人、脱走兵、脱獄囚、生け贄の娘、置き去りにされた子供! スープに少しの毒を入れて眠らせれば、筋肉質の男だって大人しくなっちまう。たまに情が湧いて共同生活することもあったが、全ては生きるためだ。最後は肉になってもらった」
「人肉は、何故俺たちにも食わせようとした」
「ひ、ひひひひひひ。一番旨いのは、少女の肉だ。あのセルマって子の肉を……ん?」
トルバルの質問を無視して独り興奮しだしたバルブロが、急に困惑しはじめた。
「誰が明かりを消した?」
彼は床に転がったまま、自分の目に手を当てた。トルバルはバルブロの元に跪いて言った。
「すまない。ヒヨスの毒は目に入れるとまずいんだ。体も痺れてきたろ。あんた、俺のスープに入れる毒の分量を誤ったか? 入れすぎたんじゃないのか」
「そんなはずはない! 極少量しか——」
「冗談だ。隙を見て足しておいた」
トルバルはバルブロの姿をまじまじと観察した。体にはだいぶガタが来ているようで、トルバルが手を下さなくとも放っておけば死んでしまいそうである。
「寝る前にもういっぺん言えるか? セルマをどうするつもりだったか」
バルブロは何も答えず、ぶるぶると震えはじめた。その震えは毒のせいか、怯えのせいなのか、それとも別のものか。
「そうか。他に、何か言い残すことは」
トルバルが問うと、彼は獣のように不気味な声で唸りだし、やがて大声で叫んだ。
「俺は病人を楽にしてやっただけだ! 妻を愛していただけだ! 全ては生きるためだ!」
直後、トルバルのナイフが空を切り、バルブロの息の根を止めた。
セルマと自分に危害を加える者は誰であれ排除する。いつの間にかそんな意思が芽生えていた。
「……すまない。孤独だったんだな。あんたは」
他人との繋がりを求めていても、結局は理解されず、通じ合えず、どこかでそんな他人を憎んでいる。この世界のどこにも居場所なんてないが、死ぬことを選べず、ただがむしゃらに生きるために他人から奪ってしまう。トルバルは何となくわかるような気がした。
彼はバルブロの瞼を閉じさせてやり、小屋を後にした。
——俺だって、道を違えればあんな風になったかもしれない。これからだってわからない。
もしステンやマヤと出会わなければ、もしセルマの存在がなかったら、もし放牧場の女たちに邪険に扱われていたら……想像するとゾッとした。
雨は小降りだがまだ降っていた。
「セルマ! セルマいるか!」
トルバルの声に微かに震える声が返事をした。
「トルバル。ごめんなさい!」
声のする方へ行ってみると、セルマが木の下に座り込んでいた。その隣ではモルンがオロオロしている。
「セルマ、ちゃんと逃げて偉かったな。——どうした?」
少し様子がおかしい。近づいてよく見てみると、セルマの脚に深い切り傷があった。
「ごめんなさい! 転んじゃった……」
セルマは大粒の涙をこぼしながら何度も謝った。
「謝るんじゃない。見せてみろ。……深く切ったな」
トルバルは彼女を抱き抱え、傷の具合を見た。かなりの出血である。慌てるあまり尖った岩場で転んだのだろう。雨のせいもあり、かなり滑りやすかったはずだ。
「大丈夫だ。セルマ、大丈夫」
背中をさすり、服を裂いて止血してやる。しかしこのままでは危険だ。
とにかく雨を凌げる場所に行かなくてはと、トルバルは大きなモミの木の下へ移動した。




