↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/34

沼地の戦闘

 

「もう逃げられんぞ。処刑人も控えている」


 数人の男たちが徐々に距離を詰めて来る。どうやら彼らはトルバルをその場で処刑するようだ。王都からは遠く離れているため、生きたまま連れ帰るには面倒がかかり過ぎるのだろう。そんなことをトルバルは思いながら、クロークの裾を切り裂き、胸ポケットから小瓶を取り出した。


「待ってくれ。脚に矢が当たったんだ。もう逃げられない。首はくれてやるから痛めつかないでくれ!」


 トルバルは情けない声で言い、斧を投げ捨てた。弓が役に立たない距離まで引きつけ、接近戦に持ち込む必要があった。


「クソッ! まじで痛ぇ。一撃で楽にしてくれ……」


 トルバルの情けない声に、追兵はニヤニヤと嗤い出す。


「半信半疑で追ってきたが、まさかこんなに遠くまで逃げ延びてるとはな。協力者も炙り出す必要がありそうだ。こんなに元気な逃亡兵は初めて見た。歴代最高記録だぞ。つまり一番の腰抜けだ」


 隊長の男がそう言うと、周囲は肩を揺らして嗤った。


「他にも逃げた奴はいただろ! 俺だけが腰抜けなんじゃない!」

「ああ。他にも逃げた奴はいた。あの後すぐに大雪が降ってな。誰が逃げて誰が埋もれ死んだのか確認するのに時間がかかった。逃亡兵の追跡はお前が最後だ。お前は重要な戦力だった。だから生かして連れ戻すか処刑するかで少々揉めてな。おまけに上はロヴィルンまで試験的に使いたいと」


 隊長がため息をつきながら顎をしゃくり、部下のひとりがトルバルへ歩み寄った。


「まあ連れ戻したところで、もう誰にもお前は飼い慣らせまい。お前は特別だ。拷問せず一撃で死なせてやることになった。こっちへ——」


 男がニヤつきながら白樺の陰に座り込んだトルバルの肩を掴んだ瞬間、鮮血が飛び散った。

 トルバルが男の手首を掴み、こめかみにナイフを突き刺したのだ。頭蓋骨の中で最も薄い凹みへ正確に突き立てられたナイフは深々と突き刺ささり、男が何か考えるより先に死をもたらした。

 

「カール!」


 追兵の内の誰かが叫んだ。トルバルが仕留めた男はそんな名前であるらしい。トルバルは捨てた斧を素早く拾い上げると、カールの体を肉盾にして他の追兵に突進した。咄嗟に弓を構えた男との距離を一気に詰め、足元を払いながら首目掛け斧を振るう。


 追兵たちは甘く見ていた。目の前にいる腰抜けの惨めな逃亡兵が、かつて南の森で何を相手に戦い、どれだけの期間生き延びてきたのか聞かされていながら。


 異変を感じ取ったロヴィルンが地を這うような唸り声をあげて興奮し出す。手綱の鎖を握っていた男が「殺せ!」と叫び、獰猛な魔獣を解放した。

 

 トルバルは猛突してきたロヴィルンから一歩距離を取り、間一髪のところで躱した。同時にロヴィルンの脇腹に斧の刃を滑らせ、わずかながらにその肉を引き裂いた。その刃にはヒヨスの毒が塗られている。ついさっき木の陰で塗ったものだ。逃げ出した時からずっと忍ばせていた。この毒で巨大な魔獣が死ぬことはないが、多少意識を混濁させることはできる。


 毒の付いた斧で傷つけられ、興奮したロヴィルンが一層激しく暴れ出す。トルバルは混乱に乗じてその場から走って離れた。


 白樺の陰で情けない声をあげている間、木の根の張った箇所を確認していた。泥の上を全力で走れば必ず足を取られるだろうが、同時にこの地面の柔らかさは高所からの衝撃を和らげることができる。


「おい! こっちだ!」


 トルバルは木の上から怒鳴り、指笛を吹いた。ロヴィルンと追兵数人が同時に彼の方を向く。追兵より先にロヴィルンの方が全力で向かってきた。無数の木の枝に守られていたおかげで、飛んできた矢の直撃は免れた。


 ロヴィルンが木の幹に近づき、イノシシによく似た鼻をトルバルに向けた時、彼は木の上から斧を構えて躊躇なく飛び降りた。重力のままに斧を振り下ろす。

 

 斧の刃は、ロヴィルンの鼻を捉えた。

 

 ざっくりと切り落とされた大きな鼻が沼地に落ちる音と、おぞましい魔獣の咆哮が響く。


 トルバルは柔らかな泥の上に転がった。全身黒く汚れてしまったが、そんなことを気にしている暇はない。追兵が立て続けに矢を放ってくるのだ。うち一本がこめかみを掠めて派手に出血した。左の視界が赤く染まる。それは何度手で拭ってもダラダラと垂れてきた。


 大事な鼻を失ったロヴィルンは狂乱し、ついに誰にも手が付けられなくなってしまった。


「引け! 引くんだ!」


 誰かが怒鳴った。怒鳴っている割に冷静な声だった。森の奥に目をやると、赤いクロークを着た背の高い男が処刑斧を持って立っている。その出で立ちはまるで死神の様であった。

 旧王都での別れ際、ステンは「王都の処刑人とはやり合うな」と言っていた。


 ——あれが王都の処刑人か。


 ロヴィルンを残し引いてく追兵たちを見ながらどうするべきか考えていると、遠くで名前を呼ばれた気がした。


「セルマ……?」


 トルバルはセルマとモルンが逃げていった方へ走った。途中泥に足を取られ、何度も無様に転びながらも這々の体で彼女の元へたどり着いた。


「トルバル……!」

 

 セルマは今にも泣きだしそうな震え声でトルバルを呼んだ。

 トルバルは彼女が泥に汚れることも厭わず抱きかかえ、そのまま霧の中に消えた。

 

「馬鹿! 泣いてる場合じゃない! いくらも進んでないじゃないか」

「トルバル、怪我してる。血がいっぱい出てる」

 

 動き回るせいでなかなか止まらないこめかみの出血を見たセルマは、青ざめた顔をしていた。


「これは大したことない。こんなんでもちょっとしか切れてない」


 斜面を駆け下りると、激しい流れの川に行きついた。大量の雪解け水で増水している。


「グオオオ!」


 背後でロヴィルンの鳴き声がした。セルマが腕の中でガタガタと震えだす。


「あれは、あれは何?」

「ただの汚いお化けだ」


 トルバルは辺りを見回した。朽ちて中身が空洞になった倒木を引っ張って来ると、木の上で眠る時に使っている紐でセルマと自分の体をぐるぐる巻きにし、川へ入った。


「モルン! お前は飛べ!」


 モルンが驚いたように「グェッ」と変な声を出した。


 水は酷く冷たかったが、ふたりは即席の浮に捕まって激流を滑るように移動した。トルバルは木に空いた穴へ腕を突っ込み、絶対に離すまいとした。


「セルマ、大丈夫か!」

「うん!」


 背中のセルマに何度も声をかける。想像以上の速度が出た。何度か大岩にぶつかりそうになり肝を冷やしたが、追兵たちとの距離はみるみるうちに開いていく。



 やがて安全な所までやって来ると、トルバルはなんとか岸に上がり、セルマを下ろした。こめかみの傷口が熱を持ってどくどくと脈打っていた。

 

「あの人たち、誰なの?」


 ずぶ濡れのセルマが尋ねる。

 

「ああ……あいつらはお前とは関係ないんだ。巻き込んですまない」

「ううん」


 今後、彼らがトルバルを放っておくとは思えない。再び探しに来るはずである。その前に北の最果てへたどり着ければいいが、それもまた現実的とは思えなかった。


 ——やっぱり放牧場に置いて来るべきだったのか? いや、何を今更。そんなことより……


 セルマを温めなくてはならない。トルバルはセルマの服と自分のクロークを絞って水気を取り、できるだけ彼女の体を拭いてやった。夏といえども雪解け水の中に浸されていたのだから体は冷え切っている。セルマの唇は紫色になっていた。


「セルマ、体を動かせ。もっと森の奥へ入る。ツリガネタケを探すんだ。どうにかして火を起こす」


 ふたりはぶるぶる震えながら、小走りで森の奥深くへ消えた。


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。