追兵と魔獣の襲来
早朝の乳搾りを終え、家畜たちを放牧すると、トルバルは他の子供たちと花を摘んで遊んでいるセルマに声をかけようとした。
「おーい、セルマ」
セルマはお喋りに夢中でトルバルが来たことに気付いていない。その時、ふと思った。
——この子は俺といていいのか。
長居すれば他の人間にも危険が及ぶことはわかっている。セルマは追われる身である。しかし、ここに彼女を隠し、自分だけで闇商人を見つけ出して全員始末する道もあるのではないか。そんなことを考えていると、後ろから誰かに肩を叩かれた。
「ここに置いて行った方がいいか迷ってるの?」
ノーラだった。彼女は麦穂色の長い髪を三つ編みにし、耳には薄紫色の花を挿していた。トルバルが無言で頷くと、ノーラは少し申し訳なさそうな顔をして、しかしきっぱりと告げた。
「残念だけど、こうしていられるのは短い夏の間だけ。私たちの村は裕福じゃないし、よそ者には厳しくて。セルマみたいな子は特に苦労すると思う」
「悪かった。安易に考えすぎた」
ノーラの言うことはもっともである。トルバルが謝ると、彼女はますます申し訳なさそうにして、「それにね」と続けた。
「なんとなくわかる。あの子はきっとあなたといたいはず。あの子が一番恐れてるのって、あなたに捨てられることなんじゃないかな」
「そうかな。最初は凄く良い子だったけど、最近はよく我儘を言う」
「良い子のフリをしなくても捨てられないってわかったら、無意識にそうなるんでしょうね。だからこそ……」
トルバルは無邪気に笑うセルマの方を見た。無邪気笑う彼女を見るのは初めてで、その笑顔を自分は取り上げようとしているのではないかという罪悪感が湧き上がる。
「本人の意思もちゃんと確かめなきゃ」
ノーラは穏やかに微笑んで去って行った。
トルバルはセルマに歩み寄り、「おいで」と声をかけた。
「セルマ、俺はここを出る。お前はどうしたい?」
トルバルの問いに、セルマは少し驚いたようだった。
「一緒に行くよ。約束してくれたでしょ?」
セルマは迷うことなくそう言った。モルンまでどこかからトコトコとやって来て、トルバルのブーツの上に陣取った。
「約束した。お前を置いて行かないって」
「うん。トルバルは寂しがり屋さんだから、私がついて行ってあげないとね」
大真面目にそんなことを言うので思わずトルバルは吹き出してしまった。
ふたりと一羽が皆に見送られ放牧場を後にする時、アストリッドはトルバルが作った塩辛いチーズやバターをいくつか持たせてくれた。
彼女はトルバルの素性を最後まで「言わなくていい」と一切聞かなかった。
モルンはごきげんな様子でトコトコと森の中を行く。セルマも負けじとせっせと歩く。それは良いのだが、彼女はごきげんになるとスキップしたり、おかしな踊りを踊ったり、鼻歌を歌ったりしながら進むので無駄に体力を消費する。
「この下にはサメがいるから、ここしか歩いちゃダメなんだよ」
「疲れた」と言って休憩したかと思えば、じっとしていられないのか木の根だけを踏む遊びを始めたりする。そして最終的にはトルバルがおんぶをし、セルマは彼の背中でぐっすり眠ることになるのだ。
「お母さん……」
時折そうやってぐずりながら目を覚ます。寝ぼけてトルバルを父親のバートと間違えることもある。そうなると、トルバルは同情よりも先に苛立ちのような感情が湧き上がるのだが、自分の肩をしっかりと握る小さな手の感触に、はっと我に返る。そんなことの繰り返しだった。
川や湖で頭などを洗ってやるのにもかなりの気を遣う。子供と言えどどこまで干渉していいものかわからず、「自分でやれ」と突き放すような態度を取ってしまう。夜になればいもしない怪物やお化けに本気で怯え、ひとりで用を足しに行くこともできない。両親を喪った甘えたい盛りの少女は、気が付けば何をするにもトルバルの側を離れなくなってしまっていた。
——俺の側以外に選択肢がない、気の毒な子だ。
トルバルは度々そんな風に思った。そして何としてでもセルマが自由な選択肢を持てるような地へ連れて行かねばならない。彼女に危害を加える大人たちの息の根を止め、彼女を受け入れてくれる場所を見つけられれば、それは最北でなくても良いのかもしれない。
ある時、そんなことを考えながら森を歩いていると、やがて沼地にたどり着いた。かつてステンと共に歩いた沼によく似ていた。岩の上やしっかり木の根の張っている場所を選んで歩けば進めそうだが、迂回できるならそうするに越したことはない。
「まいったな。これは、迂回するか」
トルバルはそう言ったが、先頭のモルンは沼などお構いなしと言った様子で歩いて行く。「危ないぞ」と声をかけても止まらない。それどころか、「急いで」とでも言うように何度も後ろを振り返り低い声で鳴きだした。その姿は怯えているようにも見える。
——何かが変だ。
ふわり、と風が吹いて、あるにおいがトルバルの鼻をかすめた。思い出したくもない、おぞましい獣のにおいである。
「まさか」
霧がかった薄暗い森の奥から魔獣の咆哮が轟いた。
「奴が来るのか……」
凄まじい殺気を感じ取り、トルバルは全身から冷汗が噴き出した。
「セルマ、お前はモルンと行け。あいつが踏んだ所は安全だ。沼を抜けたら、木に登って身を隠せ」
「どうして? 何が来るの?」
「今は説明できない。死にたくなければ急げ!」
そう言ったのとほぼ同時に、一本の矢が近くの白樺に突き刺さった。
「焦るな。モルンについて行け」
トルバルはセルマとモルンを先に逃がし、自分は矢が飛んできた方向へ走った。
「下手クソが! そんなもんが当たるか!」
気の陰から薄闇に向かって怒鳴ると、また数本の矢が飛んできた。よく見てみると、王都の追兵が使う矢である。
——待ち伏せされてたのか……? 昼間に行動したのがまずかったか。
濃い霧が出ているから大丈夫だろうと思い、昼間にもかかわらず焦って行動したのが悪かった。
追兵はトルバルだけの追手であるが、人を人とも思わない連中であることはわかりきっている。かつてトルバルのように逃亡を図った仲間は、凄惨な拷問を受けた末に命を奪われた。セルマも見つかればどんな扱いを受けるかわからない。トルバルがセルマを保護するうえで最も気にしていたことである。絶対にセルマを巻き込んではならないのだ。
「トルバル! 貴様のにおいはロヴィルンが記憶している! 大人しく処刑に応じろ!」
隊長と思わしき男が叫んだ。それを合図にロヴィルンと呼ばれる魔獣が霧の中からぬうっと姿を現した。まだ幼獣のようだが、その体は羆よりも大きかった。
いつか極夜の穴倉でステン相手に話をし、絵まで描いたあの魔獣ロヴィルン。体は大山猫、顔は熊、鼻はイノシシの不気味な化け物。元々野生の存在でしかなかったが、どうやら王都の軍はこの化け物の幼獣を使役することに成功したようであった。
「なんでそんなバケモン連れてやがる。犬じゃダメだったのかよ」
トルバルは大きく舌打ちした。ロヴィルンがいつ頃導入されたのかはわからないが、もしステンと共にいた時からトルバルのにおいを嗅ぎまわっていたらと思うとゾッとした。雪が溶けてからしばらくの間、全身が鯨臭かったのは幸運だったかもしれない。




