夏の放牧場
「まあ待ちなよ。あんたを取って食ったりしないから。それよりその女の子、熱があるみたいだよ」
アストリッドはセルマを指さして言った。「あたしにはわかる。その顔は熱を出している時の顔だよ」と断言した彼女の目は、偉大な母親のそれであった。
「セルマ、お前具合が悪かったのか?」
トルバルはセルマを抱き上げた。言われてみればいつもと顔つきが違う。額に触れてみると確かに熱い。ずっと眠そうにしていたのはそのせいだったのだ。どうして気が付かなかったのかと、トルバルは己の鈍感さを恥じた。
結局彼はセルマと共にこの放牧場に留まることになってしまった。
森の奥深くにあるこの草地は、毎年夏になると複数の村から牛やヤギ、羊などの家畜を連れた女たちがやって来て放牧を行う。小屋の中では森の野草を食べた牛やヤギの乳を使ってチーズやバターを作り、秋が来る前に再び村へと帰る。こうした移牧の習慣があることを、トルバルはある程度知ってはいたが、実際にその現場を目にするのは初めてだった。
「お礼と自己紹介を言ってなかったね。ありがとう。あたしはアストリッド。この放牧場のまとめ役だよ」
セルマを寝室のベッドに寝かせた後、トルバルはアストリッドに大きなテーブルのある部屋に連れて行かれ、傷の手当てを受けた。自分でできるからいいと突っぱねてみたが、アストリッドの貫禄溢れる眼光を目の当たりにすると、どうにも抵抗できないのだった。
トルバルよりひと回り以上歳上の彼女は、手慣れた手付きで止血消毒をし、包帯を巻いてくれた。
「よろしくアストリッド。……ええと、俺は——」
本名を名乗って大丈夫だろうかと、少し考えて、トルバルはこう名乗った。
「トル……トルステン」
それは咄嗟に思いついた名前だった。
「よろしくトルステン。心配いらない。ここにはあんたたちを隠せる秘密の部屋がある。詳しいことは言えないけどね、こっそりチーズやバターを貯蔵する部屋なのさ。犬の鼻だって利かないよ」
「いや、もし闇商人や追兵が来たら、隠さずに俺だけ突き出してほしい」
「馬鹿言うんじゃないよ。命の恩人にそんな真似したら森の神の怒りに触れるわ。……まったく、あんなに大きな熊は初めてよ。これまでにも熊が来たことはあったけどね、皆で力を合わせれば大抵追い払えた。だけどたまにいるんだわ。どうしようもなく執着心が強くて、狂ったように凶暴な熊が。今日はヤギが一頭やられてしまったけど、それで済んだのは奇跡なんだ。あんたが来なければ死人が出た」
普段は物音を立てたり古くから伝わる歌を歌ったりすることで、熊やオオカミなどを遠ざけているそうだ。万が一敷地に入ってきても数人で槍や弓を使えば撃退できたが、今回ばかりはどうにも歯が立たなかったらしい。
「これでおしまい!」
アストリッドはそう言ってトルバルの肩口を笑顔でポンと叩いた。
「痛ッ……!」
確かこんなやり取りを前にもしたことがあった。相手は仏頂面の元処刑人であったが……
明くる朝、ベッドで浅い眠りについていたトルバルは、部屋に押し入って来た悪ガキたちによって強制的に叩き起こされた。
「起きて! 起きて! 朝だよ!」
「乳搾りに行くよ!」
やんちゃ盛りの小さな少年ふたりがベッドの上で飛び跳ねるので、トルバルはすっかり参ってしまった。叩き起こされることには慣れっこであったが、セルマまで起こされたらたまったものではない。
「シーッ! ガキども、セルマを起こすなよ」
隣で寝ていたセルマは大変不機嫌そうな顔で毛布を頭から被った。
「わかったから……乳搾りが何だって?」
トルバルが眠い目を擦りながら問うと、少年たちは面白いおもちゃを見つけたかのごとく瞳を輝かせ、彼の両腕を引っ張って部屋から連れ出してしまった。
早朝の乳搾りは子供たちの役目のようで、どういう訳かトルバルはそこへ付き合わされることになってしまった。納屋には全部合わせて十頭以上の牛やヤギがおり、バケツを持った子供たちは手慣れた手つきで順番に乳を搾っていく。搾りたての乳がバケツの中でじゃばじゃばと音を立てている。
「兄ちゃんやったことある?」
少年が歯抜けの前歯を見せて言う。トルバルが「やったことないな」と答えると、更に目を輝かせて熱心に指導された。しかし——
教わった通りにやっているはずなのだが、トルバルが牛の乳を搾ってみても糸ほどの細い乳しか出てこない。そんなに難しいことだろうかと首を傾げながら強めに引っ張ってみると、牝牛は不機嫌になって危うく蹴り飛ばされそうになる。すると子供たちはキャッキャと笑いながら、得意げにお手本を示して見せた。
乳搾りが終わると、今度は家畜たちを一斉に野へ放つ。首元に着けたベルをカコンカコンと鳴らしながら、家畜たちは思い思いの場所へと歩いていく。黄色や白、薄紫の野花が咲き乱れる草原では子供たちも遊んでいる。
女性たちは家畜が遠くへ行きすぎたり猛獣に襲われたりするのを防ぐため、犬と共に森や草地を歩き回りながら定期的に歌を歌った。裏声を使い、高く透き通った声を森中に響き渡らせる。
「この歌は大昔から伝わるおまじないでね。魔物や、やましい心を持つ人間を遠ざけて、家畜や優しい心を持つ人間を呼び寄せるんだって。でも羆にはそんなに効かなくて。あんなに獰猛でも心は純真だからかな」
トルバルが薪割りの合間に草の上に腰を下ろし休んでいると、ひとりの若い女が隣に座って言った。怪我をしたトルバルに対し「手当てするべき」と言って心配そうな目を向けた女だった。彼女はノーラといい、トルバルと歳も近かった。
「人間にも効果が?」
「そう。だからあなたはここに来られた」
ノーラは太陽の光を受け輝く麦穂色の髪を摘まみながら言った。トルバルはなんだか照れくさくなって、彼女から目を逸らした。「優しい」などと言われたのはいったい何年ぶりのことかわからなかった。
「まあ、少なくとも家畜は集まって来るよ。やって見せてあげる」
ノーラは立ち上がり、両手を口元にかざすと、その澄んだ高い声を響かせた。
緑豊かな夏の森に、家畜たちの首輪に付いたベルの音と、ノーラの美しい歌声が力強く響き渡る。家畜たちが遠くからのんびりやって来て、ベルの音は段々とはっきりしてくる。トルバルはその光景に目を奪われ、一言も言葉を発せなくなってしまった。
家畜たちがノーラの前に集まって来て、口をモグモグさせながら「呼んだ?」とでも言いたげに首を振った。
「ほら、来てくれるでしょ。皆いい子なの」
ノーラはトルバルを振り返って微笑む。トルバル自身にはその正体がよくわかっていなかったが、彼は自分に向けられた微笑みに対し、心臓が引き裂かれるような思いに駆られていた。自分とは違う世界に生きる清らかな人間。だが逞しく生きている。そう思わずにはいられなかった。
「トルステン! バター作りを手伝いな!」
突如アストリッドの声がして、ノーラに見とれていたトルバルは一気に現実に引き戻された。
放牧場ではバターを作る小屋とチーズを作る小屋が分かれており、トルバルはバター作りの小屋に引っ張り込まれた。
生乳の脂肪分だけを撹拌樽に入れ、撹拌用の棒を叩くように上下に動かす。約一時間もの間それを繰り返すので、かなりの重労働である。それを終えると黄色い塊ができる。水分を素手でギュウギュウ絞り出し、浅い木桶に入れて小川の冷水をかけながら木べらで何度も練り上げる。
「なかなか才能があるじゃないの。その調子ですっかり水分を抜いてちょうだい。バターはお偉いさんに買ってもらう高級品なんだからね」
アストリッドは馬鹿力でバターを絞るトルバルを見ながら上機嫌で言った。
「こんなに大変だとは思わなかった」
かつて自分たちが王都で度々口にしていた乳製品が、こういった重労働の上に成り立っていたことをトルバルは初めて知った。
その後しっかりと水分を抜いたバターにハーブと大量の塩をまぶし、木樽に詰めて地下室へ運んだ。
そんな日々が何日か続いた。セルマの体調がすっかり良くなると、トルバルは放牧場を去る準備を始めた。




