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羆との死闘

 それから数日歩き通し、ふたりと一羽はくたくたになっていた。追手が行動しないであろう真夜中の時間帯を狙って移動を繰り返していたため昼夜が逆転し、どうにも調子が悪かった。道中立ち寄った小さな村ではセルマを隠して旅人を装い、食べ物を買うこともあったが、危険が伴う行為である。

 

 トルバルはなるべく森の中で採れる木の実や果実、キノコや罠に掛けた小動物の肉などをセルマに食べさせるよう努めた。


「セルマ、今日は魚を捕ろうと思う」


 森の小川の畔で休憩しながらトルバルは言った。色々なものをバランス良く食べなければ目的地に着くまで身体が持たない。闇商人はあれから襲ってきていない。

 

「どうやって捕るの?」


 ついさっきまで草の上で眠っていたセルマが、眠そうな目を擦りながら尋ねた。

 

「お前がよだれ垂らして寝てる間に釣り竿を作った。こいつでカワマスやイワナを釣るぞ」


 トルバルはそう言って即席の釣り竿を披露した。白樺の枝と裂いた木の皮で作った粗末な釣り竿である。先日ステン直伝の首括り罠で捕えたウサギの肉を餌にしている。


「ふーん」


 しかしセルマは興味がないのか、またウトウトし始めた。無理もない。生活の調子が乱れているばかりか、睡眠も十分ではないのだ。それはトルバルも同じである。


「眠いなら寝てていいぞ。起きたら御馳走が目の前にあるはずだ」


 トルバルはひとり張り切って釣り糸を川に垂らした。ステンと湖で釣りをした時は巨大なカワメンタイを釣り上げるほどの強運を見せつけた手前、少し調子に乗っていた。


「……おかしいな」


 待てども待てども魚は餌に食いつかない。氷上釣りとは勝手が違うのだろうかと頭を悩ませていると、森の奥から誰かの声が聞こえた気がした。


「クッ、クッ」


 セルマの横にいたモルンがトルバルの元へ駆け寄ってきた。必死に鳴きながら、何かを訴えている。


「悲鳴か?」


 トルバルは瞼を伏せ、耳を澄ませた。木々のざわめきの間から、微かに女の悲鳴と犬の吠える声が聞こえてくる。自分の腕に目をやると、鳥肌が立っている。嫌な予感がした。


 ——まさか、闇商人がどこかの集落を襲っているんじゃないだろうな。


 もしそうであれば見過ごすわけにはいかない。

 トルバルはほとんど眠っているセルマを負ぶると、悲鳴の聞こえる方へモルンを連れて走った。

 

 道中、森の木に大量の血が付着しており、その根元には茶色い獣がズタズタに引き裂かれた状態で転がっていた。


「なんだこれ。子熊……なのか?」


 獣の正体は子熊であるようだった。気の毒だが構っている暇はない。トルバルはそのまま悲鳴の聞こえる方へ進んだ。




 声のする先には開けた草地があり、草屋根の丸太小屋や何件か佇んでいる。夏の間だけ放牧とチーズ作りのために使われる小さな農場であった。

 トルバルは木の陰から闇商人の姿を探したが、そこに彼らの姿はなかった。代わりに目に飛び込んできたのは、人間の背丈を優に超える黒い塊。巨大な羆であった。

 羆は家畜の牛を襲い、それを追い払おうとした女や番犬たちにも牙を向こうとしていた。


「あんなにでかい羆初めて見た。セルマ、ここに隠れててくれ」


 トルバルはセルマとモルンを草陰に隠し、斧を構えた。羆より大きなトロールを相手にしていたトルバルにとって、これしきの事は難しくないように思われた。一人ではなかったが、実際に羆と戦ったこともある。

 しかし間近でその巨体を目の当たりにすると、恐怖を感じずにはいられなかった。


「おい! こっちを見ろデカブツ!」


 羆は一件の丸太小屋の扉を破壊しようとしているところだった。トルバルは恐怖を打ち消すように怒鳴ると、手近にあった石ころを羆の頭目掛けて投げつけた。

 彼の存在に気付いた羆が、ゆっくりと振り返る。口の周りを血に染め、赤い唾液をだらだらと垂らした雄の羆がトルバルの前に立ちはだかった。


「カフッ、カフッ」


 羆が鼻息を荒くし、奇妙な声で鳴いた。酷く気が立っているらしい。おそらく先ほど倒れていた子熊を殺したのもこの獰猛な雄熊で間違いないとトルバルは確信した。雄の熊は、時に子持ちの雌熊をものにするため、邪魔な子熊を食い殺すことがあると聞いたことがあった。


「お前に恨みはない。でもお前みたいな男には感心しない」


 トルバルは羆との距離を測りながら言った。羆は後ろ足でぬっと立ち上がり、トルバルを睨みつけると、地を這うようなおぞましい声で「ブオオオ!」と吠えた。二本足で立ち上がると相当な大きさである。小屋の中からは子供の泣き叫ぶ声が聞こえている。


「……よし、来い」


 トルバルは斧を構え、いつでも動けるように軽く膝を曲げると、突進してくる羆を真正面から迎え撃った。頭の中に、少し懐かしい声が蘇る。


  ——闇雲に何度も攻撃するな。一撃必殺を狙え。


 それはかつてのステンの言葉だった。


 羆の巨大な前足が空を切った。掌には長く鋭利な爪が生え揃っており、その爪もまた血に汚れていた。

 間一髪でそれを躱し、羆の懐へ刃を突き立てるも、分厚い毛皮と肉に阻まれる。心臓を狙ったが、外してしまった。


 ——そう簡単にはいかないか。


 胸部を傷つけられた羆は怒り狂い、再び鋭利な爪をトルバルに突き立てようと振り上げた。その瞬間、トルバルは凄まじい速さで斧を振るい、羆の右前足を切断した。血に染まった羆の右手が宙を舞う。だが、そんなことで巨大な猛獣の動きは止まらない。そのまま強烈な体当たりを食らわされ、トルバルは草の上にすっ飛ばされてしまった。


 羆は仰向けに倒れたトルバルへのしかかるように覆いかぶさり、喉笛を喰いちぎろうと大きく口を開けた。

 羆が喉に食らいつこうとした刹那、トルバルは斧の柄を羆の口へ押し当てるようにして突っ込んだ。血の混ざった唾液が顔目掛けだらりと垂れてくる。酷いにおいがした。


「やれるもんならやってみろ!」


 トルバルは腹の底から荒々しく叫び、全力で斧の柄を羆の口に押し込んだ。何本か歯が折れ、草の上に落ちる。羆は残った左前脚の爪をトルバルの肩口に食い込ませている。肩口にじわりと血が滲む。


「クソ……!」


 トルバルは呻き、思い切り羆の腹を蹴り上げた。一瞬だけ羆が怯み、その隙をつき転がるようにして脱出した。

 

 羆は自分の下から抜け出した獲物を逃がすまいと、すぐさま突進する。トルバルは斧を捨て、全力で再び熊の懐へ飛び込んだ。


 手にはしっかりとナイフが握られていた。分厚い肉に深く突き刺さった刃から、熱い鮮血がトルバルの手に伝い落ちる。羆が呻き、動きが止まった。


「心臓だな」


 トルバルは勢いよくナイフを引き抜いた。羆は草の上に倒れ伏し、荒い呼吸を何度か繰り返した後、完全に動かなくなった。



「倒した!」

「怪我はない?」

「あれ? あんた誰よ?」


 小屋の中から数人の女と子供たちが出て来て、不思議そうな顔でトルバルを見た。


 女と子供、総勢十四人に取り囲まれたトルバルは成す術もなくその場に立ち尽くしていた。

 どうやら女たちは、森を抜けた先にある自分の村から男たちが物資か何かを届けにやって来てくれたのだと思ったようである。しかし実際そこにいたのは、見たこともない怪しげな男ひとりであった。


「あんた、何者?」


 一番年上のがっしりした女が鋭い目つきでトルバルに問う。つい出しゃばって熊退治を買って出てしまったが、余計なことをしたかもしれない。トルバルの額に冷汗が滲む。


「ちょっとアストリッド。命の恩人にそんな態度取っちゃ駄目だよ」


 トルバルが何と言って誤魔化そうか考えていると、アストリッドと呼ばれた女の後ろから別の若い女が顔を出した。


「怪我もしてるし、手当てするべき」


 そう言って本当に心配そうな目でトルバルを見る。


「これなら心配ない。旅の途中でちょっと……悲鳴が聞こえたから寄っただけで……も、もう行くよ」


 慣れない視線にトルバルは変に動揺し、すぐにその場から立ち去ろうとした。目立つ真似をするべきではなかった。彼女たちがトルバルを通報しないにしろ、関わり方次第では厄介ごとに巻き込みかねない。


 ——すぐに離れるべきだ。


「あんた、訳ありのよそ者だね」


 アストリッドは相変わらず険しい顔でそう言う。全くもってその通りであるので、トルバルは正直に答えた。


「その通りだ。だから、もう行かないと」


 羆の死骸を残していくのは無責任だと思ったが、トルバルは森の方へ歩き出そうとアストリッドに背を向け、その瞬間「うわっ」と声をあげた。


「セルマ!? いつの間に」


 草陰にいたはずのセルマがいつの間にか背後にやって来ていた。





 

 


 

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