明るい夜更けの歩み
針葉樹の森は一層薄暗くなり、鳥のさえずりも一切聞こえない。代わりに聞こえてくるのは、どこかで群れを成しているオオカミたちの不気味な遠吠えばかりである。今だけは遭遇したくない。鉢合わせしないことを祈りながら歩いていると、セルマが目を覚まし、今度は「降りて歩きたい」と言い出した。
「お、歩けるのか?」
「歩けるもん」
よく眠った子供の割にはなんだか不機嫌そうである。トルバルはあまり気にしないよう努め、セルマを背中から下して歩かせてやった。
セルマは俯き気味にトボトボと歩き出した。その先にはモルンがトコトコと歩いている。三人は一列になって白夜の真夜中を進む。傍から見れば随分と奇妙な一行だろうなとトルバルは思った。
「疲れた」
数十分ほど歩いた後、セルマはそう呟いて苔生した倒木に腰かけてしまった。朽ちた木の、少し甘い匂いが鼻をかすめる。
「セルマ、ここは虫が多い。もう少し——」
「嫌」
トルバルが言い終わらないうちにセルマははっきりと拒絶した。両の拳をギュッと握りしめ、何かに耐えるように口を結んで俯いている。
「なんだよ。またおんぶするか?」
「嫌!」
トルバルは天を仰いだ。いったい何故。ついさっきまで聞き分けのいい良い子だったはずだ。我慢の限界が来たのか。何か相当に気に入らないことがあるのか。色々考えてみたが、どうすればいいかわからない。
「帰りたい。お母さんとお父さんに会いたい!」
セルマの薄紫色の瞳に涙が溜まる。こんな時どうしてやるのがいいのか、トルバルは頭を悩ませた。同時に少しばかり面倒だとも思っていた。
——そんなこと言われても、お前の親はもう死んだ。
まさかそんなことを言う訳にもいくまい。彼女がどこまで事実を知っているかわからないが、どちらにしろトルバルの口から「お前の親は死んだ」とは言えなかった。それは彼の優しさであり、甘さでもあった。
「なんで。なんでこんなに歩かなきゃいけないの。お母さんのところに行きたい……お母さんがいい」
セルマはワンピースの裾をぐちゃぐちゃに握りしめ、絞り出すような声で言った。トルバルはそんな彼女を前に、ひとり茫然と立ち尽くすばかりであった。
セルマは戦場で正気を失った兵士でもなければ、過去のトラウマが蘇った処刑人でもない。両親を失い、疲れ果てた小さな女の子である。トルバルは過去の自分を思い出してみたが、怒りに我を忘れ暴力に走った過去の自分など何の参考にもならなかった。せめて彼女が少年であればもう少しやりやすかったであろう。小さな女の子の扱い方など誰も教えてはくれなかった。
——こんな時、ステンならどうした?
ふと、ステンの顔が頭に浮かんだ。「マヤならまだしも何故ステンなんだ」とトルバルは不思議に思ったが。
ステンはロクを子供の頃から育てたと言っていた。ロクはトナカイだが、一応女の子である。彼のロクに対する扱いを冷静に思い出してみる。
隙あらばおやつをあげ、可愛いリボンを結んでやり、丁寧なブラッシングをし、特等席で寝かせる。危険な場所以外はどこへ行くにも一緒。
——あいつ、甘やかしすぎじゃないか。
思いのほか溺愛していたことに気付き、トルバルはまたも天を仰いだ。参考にならない。
「なあセルマ。お母さんには会わせてやれないんだ。ごめんな。——ほら、野イチゴ拾ったんだ。お前のだろ。ちょっと食べた方が良い」
トルバルはポケットから野イチゴを取り出した。そんなことでセルマの機嫌が良くなるなどとは微塵も思わなかったが、とりあえず意識を逸らし、同時に栄養も摂らせることにした。
だがセルマはムッとしたまま受け取らない。トルバルが試しにひとつ自分の口へ入れてみると、彼女は焦ったようにトルバルの手を掴んだ。
「なんで食べちゃうの!」
「お前が食わないから……」
「返して!」
「手を出せ。全部返すよ。今度から右のポケットには入れるなよ。穴空いてるだろ。今度直してやる」
トルバルは野イチゴをいくつかセルマの左ポケットにそっと入れてやった。そして残った二粒のをセルマの口元に持って行った。彼女は相変わらずムッとしていたが、結局ムッとした顔のまま野イチゴを食べた。
「北へはね、皆で行くつもりだったの」
ポケットの中の野イチゴまで食べつくしたセルマは再び歩き出し、トルバルに語った。
「そこで、新しい生活を始めるんだって。悪い人も、お父さんたちを恨む人もいない場所で」
『お父さんたちを恨む人』の中には、おそらく自分の存在も含まれていたのだろうと考えると、トルバルは居た堪れない気持ちになった。
「でも悪い人たちにバレちゃった。私ね、一番のお友達にお別れの挨拶をしたの。そしたらそのお友達がね、いろんなひとに喋っちゃった。絶対に内緒だよって言ったのに」
「……そうだったか」
「お母さんもお父さんも、死んじゃったんだよね。なんかね、わかるの。私、謝らなきゃいけないのに」
トルバルに背を向けて歩くセルマがどんな顔をしているのか、トルバルにはわからない。ただひとつわかっているのは、セルマに罪などないということだ。
「全部、全部悪い人たちのせいだ。お前は悪くない。全部馬鹿な大人たちが悪い」
セルマがまた泣き出すのがわかった。モルンが心配そうに後ろを振り返っている。
「セルマ。俺はお前のお父さんとお母さん、どちらの代わりにもなれない。でも、お前が居てくれという限りどこにも行かない。お前を置いて行かない。俺も両親をガキの頃に殺されたんだ。気持ちがわかるとは言わない。ただ、俺たちちょっと……ちょっとだけ似た者同士だと思うんだよ。だから、その……」
トルバルの言葉に、セルマが立ち止まり、振り返った。涙でべしょべしょになった顔でトルバルを見上げる。
「じゃあ、トルバルも悲しいの?」
一瞬、返事に困った。悲しい。そんな風に口に出したことなどなかったからだ。
「そうだな。悲しい。悲しい時もある」
涼しい風が森の中を吹き抜けて、ふたりの髪を揺らした。なんだか自分まで泣きたくなってきて、トルバルは唇を噛んだ。
「ほら、鼻水を拭け」
トルバルはクロークの裾でセルマの涙と鼻水を拭った。正直鼻水を拭うのは抵抗があったが、このままほったらかしにしておけるほど非情ではなかった。これでいい。そうトルバルは確信した。この子供は泣きたい時に泣いて、好きなだけ鼻水を垂らしていいのだ。
「手ぇ繋ぐか?」
「うん。ありがとう。もうちょっとがんばる」
セルマは差し出されたトルバルの手を取り、一歩一歩地面を踏みしめて歩き出した。
「おじさんの手、ゴワゴワだね」
「さっきトルバルって呼んでくれただろ。俺そんなにおじさんか?」
「お父さんより大きいから、たぶんおじさん」
「お前の言うお兄さんって何歳くらいなんだ?」
「うーん。十歳かな」
「じゃあ、おじさんでいい。適わねぇよ十歳には」
ふたりは手を繋ぎ、モルンの後をゆっくり歩く。追手の気配もオオカミの気配も今は消えている。橙色の太陽の光が、針葉樹の木々の間から優しくふたりの背中を照らしていた。




