襲い来る闇商人
霧がかった森の中で息を殺して駆け抜ける。疲労はかなり蓄積されている。少女ひとり負ぶっているから尚更である。
足音を立てないように岩場を避け、ふかふかのハナゴケの上を踏む。森の中は異様なまでに静まり返っているが、よく耳を澄ませてみると、自分以外の人間が土を踏む音が聞こえ、殺気を纏った気配を痛いほど感じる。
——すぐそこにいる。
トルバルは右手に追手の気配を感じ、身を低くして距離を取った。
だが大きな松の木の横を通り抜けた時、あろうことか追手と鉢合わせしてしまった。完全に気配を消していたか、もしくは何も考えずにのこのこ歩いていた下っ端の男である。
「ここに……!」
ハッとした男が言いかけた瞬間、トルバルはセルマを負ぶったまま全力で男の顎先に掌底を叩き込んだ。喉を掻き切ろうかとも考えたが、ナイフを抜く時間も惜しく、大量の血が滴ればセルマも声をあげてしまうかもしれなかった。まだ彼女には何の説明もしていないのだ。
男を地面にそっと横たえたトルバルは、完全に伸びている男の服を嫌々まさぐり、食料や武器、そして地図を素早く奪い取ると、大木の陰に隠れた。
「セルマ、よく聞け。お前はあいつらに見つかったらまずい。そうなる前に俺がなんとかする。怖いものを見せることになるし、きっと悪いこともたくさんする。それでも、着いて来てほしい」
「おじさんの故郷も北にあるの?」
幼いながらにいくらか状況を理解しているらしいセルマは小さな声で囁く。北の最果てへ行けば自由が手に入るのか。確信は持てないが、アリシアの言うことが本当であれば、そこでセルマは助かるのだ。ついでに己の自由も手に入れば御の字である。
「故郷……じゃないが、俺も北へ行く。お前の、お前たちの助けも必要なんだ。約束する。絶対にお前たちを傷つけない」
「わかった。一緒に行ってあげる」
「約束ね」と言ってセルマが手を伸ばす。その背後に恰幅のいい男がぬうっと立ちはだかり、斧を振り上げた。
「下がって」
トルバルは伸ばされたセルマの手を掴んで素早く自分の後ろに引っ張ると、自身の斧の柄で相手の一撃を流し、そのまま急所を蹴り飛ばした。男は悶絶したが、すぐに立ち上がって反撃を仕掛けようとする。トルバルは男が取り落とした凶器を咄嗟に足で避け、大声を上げかけた男の口に地面から毟り取ったハナゴケの塊を拳ごと突っ込んだ。
男が鈍く呻きながらトルバルの双眸を潰しにかかる。両脚はトルバルの腿に押さえつけられて動かすことはできない。
トルバルは焦ることなく左手でナイフを抜き、男の喉笛を一瞬で掻き切った。男の喉から血と空気の漏れ出る音がする。ぼんやり眺めている暇はない。
「ついて来いモルン」
セルマを抱きかかえると、モルンに呼びかけ、森の中を何振りかまわず一目散に走った。背後からは追手の矢が飛んできていたが、森の木々と底霧のおかげで命中を免れた。
しつこく追って来る闇商人を撒くのは至難の業である。運良く浅い渓流を見つけ、しばらくは水の流れに沿って中を歩いていた。川は南から北へ向かって流れている。しかし体力を使い果たすわけにもいかない。トルバルは木の上に登ってやり過ごすことにした。崖の淵に生えたトウヒの巨木によじ登り、じっと息を潜める。何とかついてきたモルンも枝に止まり、羽を休めている。
「声を出すなよ」
「わかった」
セルマは大人しいものだった。聞き分けも良く、トルバルの言うことには素直に従う。静かにしろと言えば「よし」と言われるまで静かにしている。走れと言われれば必死に走る。文句のひとつも言わないのだ。普通の子供であれば泣いたり駄々をこねたりするような状況でここまで手がかからないのは幸いであったが、同時に奇妙でもあった。
彼女は目の前で両親の命を奪われたか、混乱の中訳もわからずに逃げてきたはずである。そのうえトルバルのような怪しい男に連れまわされ、不安で恐ろしくて堪らないに違いないのだが……
「お前、大丈夫なのか?」
数時間の潜伏の後、ようやくトルバルはセルマに話しかけた。追手は完全に撒けたようだが、薄暗くなる真夜中になるまで休むことにした。
「うん。平気だよ」
セルマはけろりとしている。だが声は小さいままだった。
「さっき、大きな声出してごめんなさい」
自分のせいで追手に居場所が割れたと思っているのか、セルマは申し訳なさそうにトルバルを見上げた。
——どうしてこの子はこんなに聞き分けが良いんだ?
トルバルはかつての自分を思い出してみた。両親が殺された数時間後、仇である盗人にナイフを突き刺した過去の自分も極端ではあるものの、それはそれとしてセルマの落ち着き様は両親と引き離された子供のそれではない。
——無理をしているのか?
従順になることが彼女の生存戦略であるのだとすれば、かなり神経をすり減らしているかもしれない。
「セルマ、疲れただろ。掴んでてやるから少し——」
トルバルが言い終わらないうちにセルマの頭が前後に揺れ始めた。もう少し反応が遅れていれば彼女を木から落としていたかもしれない。
それから数秒の後、セルマはトルバルの胸に頭を預けて完全に眠ってしまった。まるで急に魂が抜けたようである。トルバルが体勢を変えるためにもぞもぞと身体を動かしても全く目を覚まさない。
「そうか……そりゃ疲れたよな」
トルバルは鯨の腱で作った紐を使い、自分とセルマの身体と木の幹を縛って固定した。木の上で眠るのは慣れていたが、子供をひとり抱えて眠るのは初めてだった。トウヒの枝がチクチクとあちこちに刺さる。それらがセルマに刺さらないよう注意を払った。
それから少し眠った。珍しく夢も見なかった。浅く眠ってはいるが、意識は常に現実にあり、敵襲があればいつでもナイフで紐を切って動けるようになっている。
太陽が地平線すれすれまで沈み、辺りは夕暮れのように薄暗くなった。白夜の真夜中である。安全を考え、白夜の中でも一番暗い時間帯に動こうと決めていた。
「セルマ、起きろ。出発する」
トルバルはセルマを揺すり起こした。セルマはすぐに起きたが、しばらくぼんやりとトルバルを見上げてから、首を横に振った。
「まだ眠いのか」
尋ねると、今度は縦に首が揺れた。
「……わかった。じゃあ背中で寝てていい。でも木からは頑張って降りてくれないか?」
トルバルが頼み込むと、セルマは渋々了承し、眠い目を擦りながら木から下りた。だが地面に両足が着いた途端おんぶをせがんだので、従うよりない。
セルマはトルバルの背中におぶさると、すぐにまた寝息を立て始めた。よっぽど疲れているらしい。それはわかるのだが——
——思ったより重い……
いくら小さな子供と言えども、完全に脱力した人間を背負って歩くのは容易ではない。斧の重さとも相まって、身体には確実に負担がかかっている。
南の森にいた時は、トロール狩りの他にも森の伐採や道の整備などといった重労働を強いられていた。重いものを運ぶのには慣れていたが、セルマは雑に担げないばかりか時折動くので、ある意味資材を運ぶより大変である。
いつまでおんぶをせがまれるのだろうかとトルバルは考えた。こんな調子で最果てまで歩けば腰が壊れてしまう。
「舐めてたかもしれない。かなり大変な旅になるぞ」




