少女の名はセルマ
トルバルは逃げ出した六歳の少女を追って白夜の森を突き進んでいた。木の幹に生えた苔や枝の伸び方、太陽の位置だけが頼りだが、辺りにはうっすらと霧が立ち込め始め、視界が悪くなりつつあった。
少女——セルマは、トルバルを裏切り闇商人に売り渡した友人バートの一人娘であった。
さっさと追いついて北の最果てとやらを目指す予定ではあったが、セルマはなかなか見つからない。子供の足でそこまで遠くには行っていないはずである。闇商人もセルマを消すために追っているだろうが、彼らが自分より先にいるのか後にいるのかすらわからない。
だが足場の悪い森の中を走り続けていると、すぐに疑問は解けた。
街道の方から蹄の音を聞き、トルバルは足を止めた。木々の間から様子を窺うと、五人の男がたむろしている。闇商人の一行と見て間違いなかった。かつて自分を王都まで運んだ男の顔も名前も、トルバルはしっかりと記憶していた。
「子供の足だ。これ以上先へ行ったとは考えにくい」
「生け捕りにする必要ありますかね? 裏切り者の家族は皆殺しにするのが鉄則でしょうに」
「確かに皆殺しは鉄則だ。バートの身内はひとりも生かしてはならない。だがあの子供は珍しい。銀色の髪に薄紫の目をしている。売れば大金になる。引き続きこの周辺を探せ」
闇商人の頭である男——ホーカンは馬に跨ったまま冷徹に言い放った。手下の太った男は少し疲れた様子で、他の男三人に「聞いたか? わかったらさっさと働け!」と怒鳴る。
——まずいな。俺が見つかっちまう。それともここで全員倒すか?
しかし、長い走り続けてきたトルバルの脚はもはやガクガクであった。
森にいる間は王都から来る追兵のことばかり考えていたが、執念深い闇商人ホーカンも十分な脅威である。かつての自分の商品がこんなところをうろうろしていると知られればただでは済まない。今ここで全員倒せれば良いが、今の自分の疲労を考えると、武装した大の男五人を相手取るのは明らかに得策ではない。「商人」といえども彼らにはそれなりの戦闘能力があった。
トルバルは悩みながらもその場からそっと離れた。
それからいくらも歩かぬうちに、あるものを見つけて立ち止まった。
「……ん?」
足元に目をやると、柔らかくなった土が少し抉れている。それは小さな足跡のように見えた。おまけにその近くには野イチゴが点々と落ちている。まさかそんなことがあり得るのかとトルバルは我が目を疑ったが、すぐさま野イチゴを回収しつつ持ち主を追った。
「王都の追兵はひとまず置いておくとして、まずはセルマを見つけて、ホーカンをぶん殴って、それから……」
ひとりぶつぶつ言いながら森を進む。野イチゴの道は途中で途切れていた。辺りは次第に薄暗くなりつつある。トルバルは少し休もうと思い、松の木の根本に腰を下ろした。
——なんか、ステンといた時と全然ちがうな。
人気のない静かな森は、ひとりでいると不気味でならない。かと言って自分に近づいて来る足音があれば、それは十中八九追手か獣、もっと悪くすれば得体の知れない魔物である。
時折冷たい風が吹いて、森の木々をざわめかせる。トルバルはその度に神経をけば立たせた。
「嘘だろ。俺ってこんなにビビリだったか?」
暗黒街で生き抜き、戦場から逃げ出し、西の森に迷いこむまではあまりに必死だったので忘れていたが、彼は存外怖がりであった。怪談話でも聞こうものならなかなか寝付けなくなるほどに。幸運なのは、彼に怪談話を聞かせてくれるような人間がほとんどいなかったことである。
パキッ。
近くで妙な音がして、トルバルは斧に手を伸ばした。
——何かいる。
立ち上がり、辺りを警戒する。ホーカンたちがこちらまでやって来たのかと思った。もしそうであれば戦うよりないと覚悟を決めた次の瞬間、音の正体が目の前に姿を現した。それはあまりにも可愛らしい姿をしていた。
「なんだお前は?」
トルバルは拍子抜けした。それは一羽の真っ白なライチョウであった。ライチョウは毛むくじゃらのたくましい足で森の苔を踏みしめ、しかし軽やかにトコトコとトルバルの足元へ歩いてきた。
「クッ、クッ」
ライチョウがトルバルを見上げ、短く鳴いた。まるで挨拶でもしているように。
「なんでこんなところに白いライチョウが? 雪のある極北にしかいないはずだろ」
トルバルはしゃがみながらライチョウに尋ねた。だが当のライチョウは、「そんなことはどうでもいい」とでも言うようにトルバルのブーツの紐を引っ張り始めた。
「おい、よせ」
あんまり懸命に引っ張るので紐は千切れそうである。
「モルン。モルンどこにいるの?」
それと同時に、幼い少女の声が聞こえた。今にも泣きだしそうな声色である。
「……セルマか?」
トルバルが呼びかけると、木の影から少女が恐る恐る顔をのぞかせた。すぐにセルマであるとわかった。優しげな目元は母アリシアに、銀色の髪と薄い唇は父バートにそっくりな子供だ。ある程度覚悟はしていたが、正直なところ、あまり良い気はしなかった。
「……おじさん、誰? 悪い人?」
セルマは言った。トルバルは彼女が誰に話しかけているのか一瞬わからなかった。
——俺は、もうおじさんなのか?
純粋にそんな疑問が浮かんだ。
事実として、彼はまだ「おじさん」ではない。しかし幼い子供からしてみれば、二十歳を超えた大きな大人は十分おじさんとしての条件を満たしている。若者としての輝きを享受する前におじさんとなり果てたトルバルは、小さく絶望した。それもこれもめちゃくちゃで残酷な運命のせいである。
「……俺はトルバル。お前のお父さんの幼馴染みで親友だぞ」
——元な。
トルバルは心の中で毒づいたが、この子を放っておけないという気持ちは捨て切れない。
セルマはトルバルの名を聞くと、ハッとしたような顔をした。
「そのせつは、ちちがたいへんもうしわけございませんでした」
「……は?」
「お父さんに言われた。酷いことしたから、もしトルバルに会ったら謝らないとダメだって」
——あのクソ馬鹿、どんな教育をしやがった。
トルバルは頭を掻き毟りながら思った。セルマの元へ近寄ると、彼女は怯えるように木の陰に隠れようとした。しかしトルバルはさっと背後に回り込んで退路を断ってしまった。
「その件はもういい。お前とは関係ない。それより、ずっとひとりでここまで来たのか? 大した脚力だな」
「ううん。ひとりじゃないよ。モルンも一緒」
セルマはそう言って足元のライチョウを指さした。
「お前のライチョウ?」
「うん。ちょっと前にお父さんが買ってくれた。でもね、この子本当のお家に帰りたいの。お家は北なの。だからね、ついて行ってあげるの。私はもうお姉さんだから。お母さんが言ってた。ずっとずっと北へ行ったら助けてもらえるしね、モルンも家族に会えるんだって」
一年中羽が白いこの国のライチョウは、雪のある大地でなければ目立ってしまい命取りになる。モルンは雪の残る極北を目指して歩みを進めているようだ。セルマの案内役という大役も兼ねて。
「なるほど。そのライチョウが——」
「モルンね」
「そのモルンが案内役なのか。聞いたことある。極北に住むライチョウは一年中白いままで、帰巣本能が特別優れてると」
トルバルの言葉に、セルマは少し眉間にしわを寄せ、小首をかしげた。「帰巣本能」という言葉が理解できなかったのだ。
「とにかく、そいつが——」
「モルンだってば」
「モルンが、北の最果てに向かって歩いてくれるから迷わないと」
「うん!」
セルマが急に元気な声を出したので、トルバルは咄嗟に彼女の口を覆ってしまった。それとほぼ同時に、森の奥に人の気配を感じた。
「奴らが来た」
「殺されちゃうの?」
トルバルは質問に答えなかった。セルマを抱えると、薄暗い森の奥へと静かに走り出した。




