座礁した鯨
初夏が訪れ、森を覆い尽くしていた雪が溶け始めると、隠されていた沼が姿を現した。
「トルバル、沼に嵌まるなよ。植物の根がしっかり張っている場所を歩け」
海岸に鯨が打ち上げられたとマヤからワタリガラスを通して連絡があった。ステンの後に続き、泥濘みを避けながら歩く。
トウヒや白樺が生い茂る森は、海岸に近付くにつれて赤松ばかりが目立つようになる。
海風で奇妙な形にねじ曲がった赤松の林を抜けると、青く透き通る波打ち際に、初夏の光をすべてのみ込んでしまいそうなほど真っ黒な鯨の死骸が横たわっていた。まだ若い鯨のようだった。極北へ移動する途中で誤って座礁してしまったのだろう。鯨はゴツゴツとした白い岩場に引っかかり、生臭い死臭を放っていた。
「これ解体するのか? 王都に知れたら泥棒扱いだぞ」
トルバルが尋ねると、ステンは黙って頷いた。
「……まさか食うのか?」
「こんなん食ったら死ぬぞ。死因もわからないしな。歯や鯨蝋が欲しい。時間があれば皮も剥ぎたいし、骨も欲しいが無理そうだ。旧王都に行けば金の代わりになる。近々あそこの鍛冶屋に行かなきゃならない」
「聞いてない」
「今言った」
しかし言われてみれば、近頃ステンは斧や鉈の刃が駄目になってきたとぼやいていた。研ぎすぎて薄くなり、刃先が曲がってしまったのだ。トルバルの斧もガタが来ている。暗黒街と化した旧王都は普通の都市より融通が利くことがある。金を持っていなくとも金になる物さえ持っていればどうにかなることが多いのを、トルバルは知っていた。何より隠遁者が持ち込んだ処刑斧を扱ってくれる鍛冶屋など他にない。
「帰郷するなら変装して行かなきゃな」
トルバルはもちろん付いて行くつもりだった。しかしステンの方はそうでなかったらしい。
「お前は待ってたらどうだ。また拉致されるぞ」
「お前が俺を騙して酒に毒を盛ったりしなければ、拉致されない」
「なんだ、毒を盛られたのか?」
「何でも良い。時間が惜しい。やるぞ」
トルバルは真面目くさった顔で腕を捲ると、ヘラジカ狩りの時に使う槍をステンからひったくって鯨に近づいた。鯨の腹は膨らんでいた。口からは何か内臓のようなものがはみ出している。臭気が溜まっているのだ。
「刺したらすぐ走って逃げろ。下手すりゃ破裂するらしいからな」
ステンが言った。トルバルは鯨の腹に槍を突き刺すと、すぐに走ってその場を離れた。
ふたりは鯨から離れ、大きな赤松の後ろに身を隠して鯨の様子を窺った。槍が刺さったままの鯨の腹からは、霧のようなものがプシュー!と音を立てて漏れ出ている。
「臭っ! 臭すぎる……!」
トルバルは思わず顔を顰めた。初夏の潮風に乗って、強烈な生臭さが漂って来るのだ。
「でも恵みに感謝して頂かないとな」
トルバルは鼻を摘まみながら付け加えた。鯨の腹は徐々にしぼんでいき、臭気はほとんど抜けきったようだった。
「成功したようだ」
ステンが判断すると、ふたりは布で鼻と口を覆い、バケツを持って鯨まで近づくと、腹の槍を引き抜こうとした。――その時だった。
鯨の腹の中からグゴゴゴ……と奇妙な音がして、肉の表面が微かに動めいたのだ。
「まずい」
ステンがつぶやき、ふたりは危険を察知して反射的に別々の方向へ走り出した。しかし、間に合わなかった。ブシャッ!と音を立てて勢い良く鯨の腹が裂け、内容物がそこら中に飛び散った。ふたりは激臭のしぶきを背に浴びてしまい、そのあまりの生臭さに悶絶した。トルバルはすぐさま海にざぶざぶ入ってにおいを取ろうと全身を擦りまわし、ステンに至っては臭気に耐えかねてその場で吐いてしまった。
「大丈夫かステン! クソ! 最後っ屁が残ってやがった」
「……最悪だ。このにおい、長いこと染みついて取れないぞ」
トルバルが駆け寄ると、ステンは死んだ魚のような目をして告げた。
「そんな……じゃあ俺たちずっと臭いままかよ」
「そういうことだ」
ステンは海水で口の周りを洗い始めた。トルバルは厳しい現実に絶望したが、ここまで来ておいて臭いからという理由で帰るわけにもいかない。やるしかないのだ。
まずは歯から採ることになり、ふたりは松の丸太を半開きになった鯨の口に無理やり押し込むと、そこに全体重を乗せた。メリメリという嫌な音を立てて鯨の口がこじ開けられる。そこからはみ出た邪魔な内臓を取り払い、ぎっしり並んだ立派な歯を斧やナイフで歯茎ごとこそぎ取っていく。最初は臭くてやっていられず、ふたりはしょっちゅう愚痴をこぼしていたが、やがて鼻が馬鹿になってしまうと、黙々と作業をするだけの存在になり果てていた。
次は鯨の頭を裂いて中の脳油嚢を半ば強引にくり抜いた。これは鯨が浮力を調節する際に使う器官であるが、この袋の中に入っている鯨蝋と呼ばれる脂は質の良い蠟燭や石鹸になるため、高値で取引されていた。
「クソ。そろそろ潮時だ」
ステンが言った。初夏ということもあり、夕方になっても日は高く明かりには困らなかったが、潮が満ちてきていた。結局たったふたりで採取できたのは数本の歯と鯨蝋、そして尾っぽの付け根にある腱のみだった。
「むしろふたりだけでよくやった方だ」
名残惜しそうに鯨を見つめるステンにトルバルは言った。一応マヤに報告しておこうということになり、ふたりはマヤの家に向かった。
「まあ……! この世の終わりみたいな姿じゃない!」
マヤはすさまじい悪臭を放つ男ふたりを目の前にしてほとんど気を失いかけてしまったので、早々に帰宅するよりなかった。うっかりお互いが強烈に臭いことを忘れていたのだ。
鯨の歯はこびりついた肉を取り除き、鯨蝋はマヤから貰った樽に入れ、小屋から少し離れた物置小屋に保管した。それからふたりは湖まで行くと、ざぶざぶと水の中に入り、寒さに震えながら全身を洗った。しかしお世辞にもにおいが取れたとは言えない状態であった。
「ロクが寄ってきてくれない」
その晩、寝床に着きながらステンが拗ねたように言った。ロクは何とも言えない顔をして、ふたりから距離を取ってしまっていた。
「仕方ないだろ。俺らは臭いんだ」
「嫌な呪いだ」
何かと呪いに繋げたがるステンをよそに、トルバルは生前の鯨のことを考えていた。あの若い鯨は、北を目指していたのか。仲間はいたのか。どうして死んでしまったのか。死ぬ時は孤独や恐怖を感じたのか。痛みは? 考えれば考えるほど気が滅入ってくる。もし運が悪ければ、自分もあの鯨のようになっていたのだ。
――俺はいつまでここにいられるんだ。ここを出たら、その後は? 上手くやれるか? たった一人で。
そんな風に考えると、トルバルは心臓の辺りがむかむかしてきた。
――何だっていい。やれることをやるだけだ。
未来のことなど自分にはわからない。目の前のできることをひたすら全力でやるしかないのだと、トルバルは自分に言い聞かせながら静かに瞼を閉じた。
いつかはここを出ていく。それはもう彼の中で決まっていた。絶対に追手がやって来ないなんてことはないだろう。今のトルバルは自分の足で歩き、自分の意志で生きているとは言えなかった。ステンやマヤから与えられた聖域の中で護られ、ただ傷ついた心身を休めているに過ぎない。
この安らぎは永遠には続かない。嫌というほどわかっていた。




