暗闇の中の古傷
タイトルを『泥濘の逃亡兵と小さな聖域』から『泥の中の燈火〜トロール殺しの逃亡兵と小さな聖域〜』に改変致しました。
詳しいお話は活動報告でお知らせ致します。
極夜の期間も終盤に差し掛かった頃、ステンの様子に変化が見られ始めた。最初は食事中に虚空を見つめるなどの小さな変化だった。しかし微かに手元を震わせたり、いつもの仏頂面からさらに表情が消えたり、殆ど眠らなくなったりと明らかに良くない兆候が出てきていた。
「おい、大丈夫か?」
そんな風にトルバルが尋ねてみても、ステンは「極夜の間は調子が悪くなるだけだ」と淡々と答えるだけだった。しかしそんな一言に集約できるほど単純な話のようには思えない。トルバルはステンの心に土足で踏み込まないよう細心の注意を払いつつ、備蓄の食料を頻繁につまませたり、くだらない作り話を聞かせたりしていた。
しかし、それでも限界はやってきた。
ある吹雪の夜、小屋はいつもより冷え込み、外は不気味な風の音が唸っていた。浅い眠りに落ちていたトルバルは、ステンの呻くような声で跳ね起きた。
「……ステン?」
目を凝らしてみると、薄暗い小屋の隅で、大きな身体を縮こまらせて転がっているステンの姿があった。ロクが心配そうにそれを見つめているが、ステンとは一定の距離を取っていた。いつもの甘えん坊の態度とは明らかに異なるその様子に、トルバルもただ事ではないと瞬時に理解した。
「そっちへ行くからな」
脅かさないように一声かけてから近づく。見ると、何かに怯えているようだった。その様子は、かつて戦場や兵舎で正気を失った仲間のそれとよく似ていた。恐らく彼は今、かつての処刑台か拷問部屋にいるのだ。
――こいつもか。
ステンほどの男であってもこんな風に何かに怯え、正気を手放すことがあるのかと、トルバルは処刑斧をステンの視界から遠ざけながら思った。
斧の持ち手に目をやると、何か文字が刻まれていることに気が付いた。
『我が心は不磨の石である』
己への戒めの言葉だろうか。しかし皮肉なことに、今のステンは心から血を流している。
こんな時どうしたら良いのか、トルバルはある程度心得ていた。
「おいステン、起きろ。転がってちゃ駄目だ」
トルバルはステンを起こし、壁に背中をぴったりとつけるように座らせた。脚を小さく折り畳もうとするのをやめさせ、身体全体を安定させるべく地面に密着させる。
「周りをよく見ろ。ここはどこだ?」
トルバルは静かに、しかしはっきりと通る声で質問した。
「首が、戻ってきた……当然の報いだ」
しかしステンはそんなことを言いながらどこか遠くを凝視するばかりだ。トルバルがこちらを見るように指示しても殆ど目線が合わない。
焚火の明かりに照らされたその目は、恐怖と罪悪感に支配されている。前に言っていた「処刑された罪人の首」の幻が見えているのだ。
「なんで、拍手なんか……」
ステンはそう言うと、早く浅い呼吸を繰り返し、終いにはうずくまって心臓を押さえ始めた。彼の心は完全に処刑台にあるようだった。
「うるさい……」
こういう時、共感して下手に慰めの言葉をかけたりベタベタと身体に触れたりするのは逆効果であることをトルバルは過去の経験から学んでいた。一緒になってメソメソすることも、前向きに励ますことも、ましてや叱責することも、こういった状態の人間には救いにならなかったのだ。
「しょうがないな。ちょっと待っておけ」
トルバルはそう言って外に出ると、猛吹雪のなか雪を救い上げ、ぎゅうぎゅう固めると再び小屋へ戻った。
「頭でも冷やせ」
ステンの顔に雪の塊を押し付け、その冷たさだけに集中するよう促す。処刑斧や拷問器具を握った感触を思い出させそうで、手に握らせることはできなかった。
昔のトルバルであれば一発殴って正気に戻すところだが、殴るのはあまり効果がないことを知っている今、この手しかないように思えた。
「もう一度聞く。お前は今どこにいる?」
トルバルはもう一度ゆっくり質問した。
「——森の、小屋か……?」
今度は正確な返事をした。しかし確信は持てていないようである。
「そう。安全なお前の住居だ。誰がいる? そこから何が見える? 全部言え。過去から戻って来るんだ」
「火、ロク、トルバル、毛皮、木の枝……」
「よし。ここには処刑台も拷問器具もない。罪人は目の前の俺ひとりしかいない。そうだな?」
トルバルの問いに、ステンは無言で頷いた。まだ少し呼吸は荒いが、いくらかマシにはなってきている。トルバルは続けた。
「息を吸ってばかりで肝心の吐くことを忘れてる。気づいてたか? 吐くんだ」
ステンの呼吸が徐々に落ち着き始めた。どろどろに溶けた雪の塊が床を湿らせている。彼はそれをぼんやりと見つめながら脱力し、一言も喋らなくなった。余程疲れたのだろう。やがて瞼を伏せ、ゆっくりと床に敷かれた毛皮の上に身を横たえた。
トルバルは特に話しかけることもなく、このまま彼は眠るかもしれないと思い、自分の寝床に戻ろうとした。
「恩情をかけられて追放されたんだ。俺は」
ふいにステンが口を開いた。
「本来なら死刑になるところだった」
「何やらかしたんだよ?」
「……手に残る感触と、血の色とにおい、悲鳴や見物人の視線が嫌で。職務放棄した。処刑台の上で」
「やるな」
「壊れてみっともない姿を晒したんだぞ。領主は俺に失望したが、幸いこれまでの職務態度と過去に馬鹿息子を治療した事実に目を向けてくれた。――罪人は、弟が代わりに処刑した」
「それだけ逃げずに、真摯に職務を全うしてきた証拠だ。お前は壊れたんじゃなくて、本当の自分を取り戻したのかもしれない」
炉の弱々しい炎に小さな鍋を掛け、外から取ってきた雪を入れて溶かす。そこへいつかマヤから貰ったコケモモのジャムを入れて飲んだ。ステンはそれからしばらく喋らず、ゆっくりお湯を飲んでいた。何をどう伝えるか静かに考えているようだったので、トルバルは無理に急かさずに彼が話し出すのを待った。
「神聖な処刑の場を俺は穢した。初冬に全財産を没収されて薄着で外に放り出され、皆俺のことは死んだと思ってる。この森へ来たのは偶然だった」
「まさか、森に来てから毎年こうなのか?」
「いや、今日が一番酷かった。……気を抜いた」
ステンはそう言って起き上がると、床に寝かされていた処刑斧を手に取った。
「なんで未だに処刑斧を持ってるんだ? 個人の所有物じゃないんだから持ち出せないはずだろ」
トルバルは前から気になっていたことを訊いた。
「これは呪いだ。ある時湖に行ったら、こいつが流れ着いてた。処刑に失敗した斧を町の人間が川に捨てたんだろう。それにしたっておかしな話だ」
「寂しくてついてきたんだろ。そいつもお前と同じ気持ちだったのかも」
トルバルの言葉にステンは「何を言っているんだ」とでも言いたげな顔をしたが、直接口には出さなかった。少し安心したように眉尻を下げ、斧を定位置に置いて再び横になると、そのまま静かに眠ってしまった。
極夜が明け、ほんの少しの間太陽の光が姿を現した。ふたりはロクを連れて凍った湖の真ん中まで行き、久しぶりに太陽の光を浴びた。冷たく仄暗かった青色の世界には、黄金に輝く暖かな光が灯され、真っ白な雪を宝石のようにキラキラと輝かせた。それはこの世のものとは思えないほどに美しく、神秘的な光景だった。
太陽がすっかり戻って来ると、夕暮れ時にはマヤのいる海岸まで散歩をし、西の水平線へゆっくり沈む夕日をじっと眺めた。
そんな日々を何度も繰り返すうちに、気付けば辺境の森にも春がやって来ていた。
そんな矢先、海岸の岩場に鯨の死骸が打ち上がった。




