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「エルシリア様、大変です! 重大な緊急事態が発生いたしました!」
帝都グランザリアの中心にそびえ立つ、グランベルド帝国の行政総本山『白銀宮』。
その最上階に位置する、私に与えられた執務室(広さは我が家の元大夜会会場くらいある)の重厚なドアがバタンと開いた。
飛び込んできたのは、私の側近に任命された帝国の優秀な官僚、ミルカ青年だ。彼は額に汗を浮かべ、青ざめた顔で書類を抱えている。
私は書類をめくる手を止め、優雅に片メガネのツルを押し上げた。
「どうしましたの、ミルカ? 隣国からの宣戦布告? それとも魔導結界の暴走かしら? どんな危機であれ、私の手元にある予算と法改正案で一時間以内に鎮圧してみせますわ」
「い、いえ! そういうことではありません! ……現在時刻は午後四時五十九分です! あと一分で『定時』になってしまいます!!」
「……は?」
私は思わず素で間抜けな声を上げてしまった。
「定時……? それが何か問題でも?」
「大問題です! 我が帝国の『労働環境健全化法』第3条におきまして、『皇太子妃兼最高経営責任者であるエルシリア様に定時を跨いで残業をさせた者は、国家叛逆罪に準ずる重罪に問われ、給与カットおよび強制三日間有給休暇の刑に処す』と定められております! お願いですエルシリア様、今すぐペンを置いてください! 僕の有休が増えてしまう……じゃなかった、僕の首が飛んでしまいます!」
ミルカは涙目になりながら、私の手から力ずくで羽ペンを奪い取ろうとしてきた。
……カルチャーショックである。
この国、グランベルド帝国に来て一週間。
私の社畜魂は、毎日この「恐ろしいまでのホワイト環境」によってガシガシと削られていた。
まず、始業時間は午前十時。遅い。アルカディア王国時代は午前五時から書類を処理していた私からすれば、昼寝から起きるような時間だ。
次に、昼休みは二時間。しかも専属のシェフが作ったコース料理が用意され、食後には「強制昼寝タイム」まで設けられている。
さらに、一日の目標労働時間を達成すると、周りの官僚たちが「エルシリア様! これ以上働かないでください! 私たちの仕事が無くなってしまいます!」と半泣きで拝んんでくるのだ。
「ちょっとミルカ。この『帝国全土の道路舗装化プロジェクト』の予算書、まだあと三ページ残っているのよ? これを終わらせないと夜も眠れないわ」
「駄目です! 駄目なのです! ほら、ご覧ください!」
ミルカが悲鳴を上げながら部屋の隅を指差した。
そこには、巨大な振り子時計と共に、黒い軍服を完璧に着こなした超絶美形――クロード殿下が、恐ろしい笑顔で壁に寄りかかっていた。
いつからそこにいたの、この人。
「エルシリア。……君はまた、私との『約束』を破ろうとしているね?」
クロード殿下が、静かに、だが圧倒的な圧力を放ちながら歩み寄ってくる。
彼は私の執務机に両手をつき、顔を至近距離まで近づけてきた。蒼い瞳が、ドロドロとした濃密な甘さと、微かなお説教の色を帯びて私を見つめる。
「定時退社をして、私と一緒に帝都の最高級カフェで新作のイチゴパフェを食べる約束だ。覚えているかい? それとも……仕事の方が、私とのデートよりも魅力的だとでも言うのかな?」
「クロード殿下。私は今、帝国のインフラ整備という極めて重要な業務を……」
「ミルカ」
「は、はいっ!」
「エルシリアのデスクの上にある書類をすべて金庫に鍵をかけて仕舞え。明日まで開けるな。破った者は……分かっているね?」
「ハヒッ! ただちに!!」
ミルカは音速の動きで私の書類を回収し、金庫に放り込んで鍵をかけた。連携プレーが見事すぎる。この国の人々は、私を休ませるためなら国難レベルの団結力を発揮するらしい。
「さあ、エルシリア。仕事は終わりだ」
クロード殿下は私の手から無理やりペンを奪うと、私の体を軽々と抱き上げた。
いわゆる『お姫様抱っこ』である。
「ちょっ……!? クロード殿下! 官僚たちの前で何を!? 降ろしてくださいませ!」
「降ろさない。君は放っておくとすぐに書類を貪り喰う悪癖(社畜病)があるからね。私の腕の中でしっかりと拘束させてもらうよ。……ふふ、今日の君も最高に美しく、そして頑固で愛くるしいな」
「愛くるしいって何ですか! 私は冷徹な悪女経営者ですよ!?」
「ああ、その眉をひそめた顔も堪らん。もっと私を冷たい目で見つめておくれ」
ダメだ。この男、帝国の覇者として恐れられている癖に、私と二人きり(+側近たち)になると途端にポンコツな重度溺愛ストーカーに成り下がる。
側近のミルカたちは「ああ、今日も殿下の重病(エルシリア様依存症)が平常運転だ……」という顔で温かく見守っている。助けてほしい。この環境、居心地が良すぎて私の「悪女としての牙」が抜け落ちてしまいそうだわ。
◈
しかし、そんな私の「平和すぎるホワイト社畜生活」に、ついに待ちに待った「極上のエンターテインメント」が飛び込んできた。
その日の翌朝。
私が珍しく定時に出社(※午前十時)すると、広大な謁見の間が怪しい熱気に包まれていた。
「エルシリア様、ついに来ましたよ」
チェルシーが私の隣で、極上の黒い笑顔を浮かべて囁く。
「例の『落ちぶれ泥船国家』からの使節団でございますね?」
「ええ。アルカディア王国から、我が帝国へ『緊急支援要請』の使節が到着いたしました」
謁見の間の壇上には、帝国の皇帝陛下(病気療養中のため欠席)に代わり、全権委任されたクロード殿下が玉座に深々と腰掛けている。その隣には、彼が強硬に設置させた「皇太子妃」のための特等席(※クロード殿下の膝の上になりそうだったのを必死で阻止し、豪華な椅子の隣に並べさせた)に、私が鎮座していた。
私の装いは、最高級の漆黒のベルベット地に、ダイヤモンドと金糸で刺繍が施されたドレス。頭上には皇太子妃の証である小さなティアラが輝いている。
誰がどう見ても、一国の頂点に立つ尊い存在だ。
そして、絨毯の敷かれた謁見の間の中央に、泥と汗にまみれてひれ伏している者たちがいた。
「ぐ……グランベルド帝国、クロード皇太子殿下……! そして……え?」
使節団の先頭にいた男が、ゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、男の動きが完全に凍りついた。
ガタガタと全身を震わせ、眼球が飛び出さんばかりに開かれる。
その男こそ――かつて私を「悪女」と罵り、夜会で華々しく婚約破棄を叩きつけてくれた、我が元婚約者、アルカディア王国元王太子・ジュリアンその人であった。
……いやあ、見事な落ちぶれっぷりね!
かつての煌びやかな金刺繍の衣装は影も形もなく、着ているのは安物の使い古された貴族服。髪はボサボサ、頬はゲソりと痩けこみ、目の下には巨大なクマができている。
さらに、彼の後ろに縮こまっている女性――マリア様も凄まじかった。
自慢の桃色の髪はボサボサでツヤを失い、派手だったドレスは汚れ、まるで『安物のお化け屋敷の仕掛け』のような有様だ。
聞けば、アルカディア王国は私の脱出後、魔力枯渇と財政破綻、さらには隣国からの関税急増によって完全に詰んだらしい。
ジュリアンは王太子の地位を追われ、ただの無給の使節(という名の使い走り)に格下げ。
マリア様も「聖女(偽)」として国民から石を投げられる毎日を送っているという。
ツヤウマ。
肌が歓喜の歌を歌っているわ。
「エ……エルシリア……!? なぜ、なぜお前がそんな場所に……!? 帝国の、皇太子殿下の隣に……!?」
ジュリアンが情けない悲鳴を上げる。




