公爵家の夜逃げは計画的に
「エルシリア様! お見事でございます!」
夜会会場の重厚なオーク材の扉を押し開けた瞬間、柱の影からぬっと姿を現したのは、私の専属侍女であるチェルシーだった。
彼女は普段の澄ました表情を一切崩さず、しかしその手にはなぜか、ずっしりと重そうな旅用の革鞄が二つと、冷えた最高級シャンパン、そして二つのグラスが握られていた。仕事が早すぎる。
「チェルシー、見ていたの?」
「ええ、配膳係のフリをしてバッチリ特等席で観劇させていただきました。殿下のあの『マヌケ面』、そしてマリア様の『金魚のパクパク』。実に素晴らしい喜劇でございました。特に、契約書第14条第3項を突きつけた瞬間の財務大臣の顔! 卒倒するかと思いましたよ」
「ふふ、評価してくれて嬉しいわ。はい、じゃあ乾杯しましょう。ブラック企業『アルカディア王国』からの脱出と、私たちの明るい快適生活に」
「乾杯です、お嬢様」
廊下の真ん中で、パチンと涼やかなグラスの音が響く。
冷えたシャンパンが喉を潤す。美味い。実に美味い。仕事上がりの一杯というのは、なぜこれほどまでに五臓六腑に染み渡るのだろうか。まあ、私の仕事上がりは「国家規模の職務放棄」なわけだが。
「さて、お嬢様。追っ手が来る前にサッサとずかりましょう。すでに公爵邸の片付けは九割方完了しております」
「流石ね。お父様は?」
「旦那様なら、すでに三日前に『持病の腰痛の治癒(という名目での資産海外逃避)』のために、隣国の帝都へ向かわれました。『エルシリア、後処理は頼んだぞ。お前が国外追放を勝ち取ったら、現地で最高級のワインとカトブレパスステーキを用意して待っている』とのことです」
「お父様ったら、相変わらず抜け目がないわねえ」
そう、勘違いしないでいただきたいのだが、今回の「婚約破棄&国外追放」は、決して私が突発的に思いついた嫌がらせではない。我がグリムワルド公爵家が、過去二年にわたって綿密に組み上げた【国家見限られ・安全脱出プロジェクト】の集大成なのだ。
アルカディア王国の財政はすでに火の車。王太子ジュリアンは愚鈍な上に浪費家。国王は病床に伏せ、権力を握った貴族たちは自分たちの懐を肥やすことしか考えていない。
そんな沈みゆく泥船のエンジン代わりとして、我がグリムワルド公爵家は死ぬほど働かされてきた。
魔力供給、財務の穴埋め、外交交渉、さらには聖女の魔物討伐の裏方まで。
「公爵家なんだから国に奉仕して当然だろ?」という顔で、無給かつ無限の残業を強いられてきたのだ。
冗談じゃない。私たちは聖人君子ではなく、ただの貴族だ。
労働にはそれ相応の対価とリスペクトが必要である。それがないと分かった瞬間から、私とお父様は秘密裏に準備を進めていたのだ。
「王太子が自発的に私を捨て、国外追放を命じるように仕向ける」という、完璧な脱出計画を。
そのために、私はわざとマリア様の浅はかな嫌がらせに引っかかり、嫌がらせを放置し、王太子が「俺が正義の味方だ!」と勘違いして調子に乗るのをじっと待っていたのである。
マリア様が私のお茶に毒を盛った時など、私は心の中で「よし! 毒殺未遂イベント発生! これで追放口実の王手に一歩前進!」とガッツポーズをしたものだ。……まあ、毒のお茶はこっそり観葉植物に捨てたら、翌朝その鉢植えがドロドロに溶けていたけれど。
「待てーっ! 待つんだ、エルシリア・フォン・グリムワルド!!」
廊下の奥から、ドタバタと無駄に賑やかな足音が響いてきた。
振り返ると、息を荒らしたジュリアン殿下と、その後ろから顔を青ざめさせた財務大臣、魔導長官、そして近衛兵たちがゾロゾロと走ってくる。マリア様は走るのが遅いのか、ドレスの裾を踏んで転びそうになりながら泣きついている。
「あら、ジュリアン殿下。夜会の最中にそんなに走られては、王族としての威厳が台無しでしてよ? ああ、そうでした。もう私はあなたの婚約者ではありませんでしたわ。どうぞ心置きなくドタドタとお走りくださいませ」
「戯言を抜かすな! ええい、近衛兵、その女を捕らえろ! 逃がすな!」
近衛兵たちが剣に手をかけ、私に迫ろうとする。
しかし、チェルシーがため息をつきながら、ポケットから小さな鈴を取り出して鳴らした。
チリン――。
次の瞬間、廊下の天井からドサドサドサッと、大量の「書類の山」が降ってきた。
それは過去5年分、ジュリアン殿下がマリア様に買い与えたドレスや宝石の請求書、そして彼が勝手に結んだ無謀な事業計画書の複写(全5800ページ)である。
「うわあああ!? なんじゃこりゃあ!?」
「書類が……! 請求書の山が!!」
近衛兵たちは紙の雪崩に飲み込まれ、派手に転倒した。
ジュリアン殿下も足を取られ、無ざまに大の字になって倒れ込む。その顔面に、マリア様のために購入した「ピンクダイヤモンドの首飾り(未払い・金貨3千枚)」の請求書がペタリと貼り付いた。
「な、なんだこれは! エルシリア、貴様何をした!?」
「何って、引き継ぎ資料の提示ですわ。殿下、あなたが『俺のポケットマネーだ』と言ってマリア様に買い与えていた品々、実はすべて公爵家のツケで払われていたのです。婚約が破棄された以上、それらの支払いはすべて王家、ひいては殿下個人に請求がいきますわ。総額で金貨12万枚ほどになっておりますので、どうぞ分割でお支払いくださいね。年利は15%です」
「じ、十二万金貨ぁぁぁっ!?」
ジュリアン殿下が悲鳴を上げる。
その横で、財務大臣が胃を押さえながらズルズルと壁を這い降りていた。
「エルシリア様……頼む、頼みます! 冗談は止めてください! あなたがいなくなれば、明日からの財務処理が止まってしまう! 魔力結界も、あと三日で完全に消滅するのです! 国が……国が滅んでしまう!!」
大臣の必死の懇願。
一年前の私なら、胃を痛めながら「仕方ありませんわね」と徹夜で書類を処理していただろう。
だが、今の私は自由な鳥だ。労働基準法(※この世界にはないが私の心の中にはある)を無視するブラック上司に捧げる慈悲など、一滴も残っていない。
「財務大臣様。お言葉ですが、私は『悪女』として国外追放を命じられた身ですのよ? 悪女が国家の財務を助けるなんて、悪女の名がすたりますわ。それに……」
私は優雅に扇を広げ、極上の笑顔を向けた。
「国の崩壊くらい、そこにいらっしゃる『聖女様』の奇跡の力でどうにでもなるでしょう? ねえ、マリア様?」
「えっ!? あ、あの、私……私、そんな、国家予算とか魔力結界とか、よく分からなくて……っ! 私はただ、ジュリアン様と幸せになりたかっただけで……!」
マリア様が泣きじゃくる。
ジュリアン殿下は青ざめた顔でマリア様を見つめ、それから私を見上げた。
「エルシリア……嘘だろ? お前、本当に俺を捨てるのか? 俺たちは幼馴染で、将来を誓い合った仲じゃないか! ちょっとマリアを可愛がったくらいで、そんな冷たい態度をとるなよ! なあ、謝る! 謝るから、追放は撤回する! だから、明日からも普通に仕事をしてくれ!!」
……ハッ。
思わず、素で嘲笑が漏れそうになった。
「ちょっとマリアを可愛がったくらい」?
「謝るから明日からも普通に仕事をしてくれ」?
本当に、どこまでも自分勝手で、どこまでも愚かな男。
私がどれほどの血を吐くような思いで、この国の均衡を保ってきたと思っているのか。
私が寝る間も惜しんで働いている間、お前たちは浮気旅行に出かけ、私の悪口を叩き、挙げ句の果てに大勢の前で罪人に仕立て上げようとしたのだ。
そのツケを、今さら「ごめんね」の一言で帳消しにできると思っているのだろうか?
おめでたい脳ミソすぎて、もはや感動すら覚える。
「ジュリアン殿下」
私は冷ややかな声で言った。
「王命は、すでに下されました。『撤回』などという見苦しい真似は、王族の威厳をさらに損なうだけですわ。それに……私はもう、あなたの醜いお顔を見るのも、その汚い声を聴くのも、心底ウンザリしておりますの」
「な……ッ!?」
「それでは皆様、本当にごきげんよう。……あ、言い忘れておりましたわ」
私は去り際に、最高のプレゼント(ドワーフ爆弾)を投下してあげることにした。
「王都の魔力炉の緊急停止スイッチですが、私の部屋のデスクの引き出しに入っております。ただし、解除コードは【エルシリア様、私たちが愚かでした、ごめんなさい】をドワーフ語で100回詠唱することですわ。……頑張ってくださいね?」
「え……ドワーフ語……!? 誰も読めないぞ、そんなものぉぉぉぉっ!?」
ジュリアン殿下の絶叫が、夜会会場の廊下に虚しく響き渡った。




