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シャンデリアの光が、これでもかとばかりに床の大理石を照らし出している。王宮のバカに広い大夜会。耳を劈くような管弦楽の演奏がピタリと止んだ。その代わりに会場を満たしたのは、絹擦れの音と、下品な好奇心に満ちた貴族たちの囁き声だ。
その中心に、私は立っていた。
「エルシリア・フォン・グリムワルド! お前との婚約を破棄する! 己の罪を認め、この場で這いつくばるが良い!」
頭の上から降ってきたのは、我が婚約者であったはずの王太子、ジュリアン殿下の朗々たる美声だ。相変わらず、無駄に声量だけは一流である。演劇の舞台にでも立てば、それなりにファンがついたかもしれない。残念ながら、ここは劇場ではなく、彼の頭の中以外では誰も望んでいない茶番劇の舞台なのだが。
ジュリアン殿下の隣には、小刻みに震える可憐な少女が寄り添っていた。男爵令嬢のマリア・ロレイン。記憶が確かなら、彼女は半年前に入学してきた「自称・癒やしの聖女」様だ。
彼女は、まるで凶暴な肉食獣に睨まれた子ウサギのような目をして、ジュリアン殿下の仕立ての良い上着の袖をきゅっと掴んでいる。上目遣い、潤んだ瞳、わずかに開かれた桃色の唇。うん、素晴らしい。お手本のような「守ってあげたい可憐なヒロイン」の造形だ。満点をあげたい。
対する私はといえば、夜会の主役にふさわしい、燃えるような真紅のドレスに身を包んでいた。縦ロールに巻かれた金髪は一筋の乱れもなく、背筋を真っ直ぐに伸ばして、彼らを見下ろしている。傍から見れば、いかにも「善良なヒロインをいじめる悪辣な公爵令嬢」そのものだろう。
――やった。
――やった、やった、やったあああああああ!!!
私の胸の中は、今、割れんばかりの万雷の拍手と、大音量のファンファーレで満たされていた。
ついに来た。この時をどれほど待ち侘びたことか。
公爵令嬢という、有給休暇ゼロ、残業代未払い、24時間365日いつでも「完璧な淑女」を演じ続けなければならない超絶ブラックな役職からの、合法的な解雇通知。これぞまさに、私が人生を賭けて待ち望んだ「退職届(受理確定)」の瞬間である!
「……エルシリア? なんだ、その顔は。己の罪の深さに、ついに言葉も出ないか」
ジュリアン殿下が、勝ち誇ったような歪んだ笑みを浮かべる。私の沈黙を、絶望のあまりの硬直だと勘違いしたらしい。おめでたい頭の構造をしていて羨ましい限りだ。私がいま、嬉しさを噛み殺すためにどれほど表情筋を酷使しているか、彼には一生理解できないだろう。
「殿下」
私は、淑女の完璧な礼を披露した。膝の角度、ドレスの広がり、すべてが教科書通り。最後の奉公だ、これくらいは綺麗に決めてやろう。
「お言葉ですが、私がどのような罪を犯したとおっしゃるのですか? 寡聞にして、己の過ちを思い出すことができませんの。できれば、私の頭の悪い婚約者様にも分かるよう、具体的に教えていただけますかしら」
「ふん、白々しい! マリアに対する数々の嫌がらせ、教科書を切り裂き、階段から突き落とそうとし、さらには彼女のお茶に毒を盛っただろう!」
「まあ」
私は片手を頬に当てて、小さく声を上げた。
お茶に毒、ねえ。
懐かしいわ。確かにそんなイベントもあった。一ヶ月ほど前、マリア様が「エルシリア様にいただいたお茶を飲んだら、お腹が……!」と泡を吹いて倒れた事件だ。
あの時、彼女が使った毒は、確か「バジリスク系の劇薬」だったかしら。効き目が早くて派手だけど、適切な処置をすれば死にはしない、いかにも素人が選びそうな可愛らしい毒。
ちなみに、私は毒殺をするなら、無味無臭で遅効性、なおかつ数ヶ月かけて内臓をじわじわと融解させる「ララッカ(キノコの魔物)系の化合物」を、お気に入りのイチゴジャムに少しずつ混入させる。その方が確実だし、何より私の優雅なティータイムを汚されずに済む。
そんな知性の欠片もない、即効性の毒を直前のお茶に入れるなんて、私の美学が許さない。私を犯人に仕立て上げたいのなら、もう少し私の殺人スキルを高く見積もってほしかったものだ。侮辱されたようで、少し悲しい。
「証拠なら、すでにあるのだ!」
ジュリアン殿下が手を叩くと、一人の男が前に進み出た。我がグリムワルド公爵家に仕える、見習い騎士の青年だ。彼は苦渋に満ちた(演技の)表情で、私を指差した。
「エ、エルシリアお嬢様……申し訳ありません! 私はもう、お嬢様の悪行に加担することはできません! 私はお嬢様に命じられ、マリア様の部屋に毒を忍ばせるよう指示を受けました。これが、その時に渡されたお嬢様の印章が入った手紙です!」
彼が掲げたのは、確かに我が家の紋章が刻まれた蝋で封印された書状だった。
周囲の貴族たちから「おお……」「なんと恐ろしい」「やはりあの女が……」と、わざとらしい囁き声が漏れる。
私はその手紙をじっと見つめ、それから見習い騎士の顔を見た。
「ねえ、トマス」
「は、はい……!」
「あなた、我が家の印章を偽造するのに、いくら使ったの? その蝋の色、我が家の正当な『深紅』ではなく、少し安物の『朱色』が混ざっているわ。それに、私の筆跡を真似るなら、もう少し右上がりの癖をつけるべきよ。私は幼少期、厳格な家庭教師に文字のバランスを叩き込まれたから、そんな風に『中途半端な文字』は書かないの。あと、あなたのその仕立ての良い新しいブーツ、見習い騎士の給料で買えるものじゃないわね。……王太子殿下から、いくら貰ったの?」
「な、何を馬鹿なことを!」
トマスの顔がみるみるうちに青ざめていく。嘘が下手くそねえ。ブラック企業の横領社員を引き連れてきた方が、まだマシな演技をしたわよ。
「エルシリア! 往生際が悪いぞ! 証拠はそれだけではない。マリアがすべてを証言しているのだ!」
ジュリアン殿下がマリア様を前に押し出す。マリア様は、涙をポロポロとこぼしながら、震える声で語り始めた。
「エルシリア様……私は、ただ、殿下のお役に立ちたくて……。なのに、あなたは私を見るたびに『身の程を知れ、泥棒猫』と仰って、私の髪を引っ張り……うう……こ、怖かったです……!」
「あら、マリア様」
私は彼女の一歩前に足を進めた。マリアが悲鳴を上げてジュリアン殿下の後ろに隠れる。まるで私が、今すぐ彼女の首を跳ね飛ばす魔王であるかのような過剰反応だ。
「私、あなたにそんな安っぽいセリフ、一度も吐いたことはなくてよ? もし私があなたを罵倒するなら、『あなたの存在自体が我が国の教育水準の低下を体現していらっしゃるわね』とか、『その頭の中の養蜂場を私にも分けてくださらない?』とか、もう少し語彙を凝らしますわ。髪を引っ張るなんて野蛮なこと、この大ブームのネイルが傷つくから絶対にしません。やるなら、あなたの実家の男爵領の流通経路をすべて押さえて、兵糧攻めにする方がずっと効率的ですもの」
「ひっ……!」
マリア様が本当に恐怖に怯えた顔になった。おや、演技ではなく本気で引かれている? おかしいわね、私はただの事実と、より洗練された代替案を提示しただけなのに。
「黙れ、悪女め!」
ジュリアン殿下が顔を真っ赤にして怒鳴る。
「お前のその傲慢に振り切った態度、いよいよ見過ごせぬ! 本日をもって、エルシリア・フォン・グリムワルドとの婚約を破棄し、我が国からの国外追放、およびグリムワルド公爵家の資産の一部没収を命じる! 異論は認めん!」
キターーーーーー!!!
国外追放! 資産没収! 完璧! 満点!
私の脳内では、今や紙吹雪が舞い踊り、サンバのダンサーたちが激しく腰を振って踊っている。
国外追放ですって? 最高じゃない。
この国、アルカディア王国は、ぶっちゃけもうオワコンで先がない。魔力の枯渇問題は深刻だし、貧富の差は奮起寸前、隣国との外交は冷え切っているし、何よりこの無能な王太子が次期国王になるのだ。沈みゆく泥船から、合法的に、しかも公式命令で脱出できるなんて、これ以上の幸福があるだろうか。
「……殿下、本当に、その決定でよろしいのですのね?」
私はあえて、声を少し震わせ、悲しみに暮れる哀れな婚約者を演じてみせた。扇で顔の下半分を隠し、瞳をわずかに潤ませる(目薬は使っていないが、あまりの嬉しさに自然と涙が出てきたのだ)。
「ふん、今更泣いて許しを請うても遅い! お前の席など、ここにはないのだ!」
「……分かりましたわ。王命とあらば、私は従うしかありません」
私は深く、深ーーーく頭を垂れた。顔が見えないのをいいことに、口元がだらしなくニヤけてしまうのを止められない。
よし、ここからは「復讐」のターン……ではなく、私の「退職手続き」のターンだ。ブラック企業を辞める時は、きっちりと未払い残業代と、違約金を毟り取らなければならない。
私はドレスの隠しポケットから、綺麗に折り畳まれた一通の羊皮紙を取り出した。
それは、数年前に私とジュリアン殿下が婚約を交わした際に作成された、『国家間および最高位貴族間における婚姻契約書』の複写である。
「殿下、国外追放および婚約破棄、謹んでお受けいたします。つきましては、こちらの契約書第14条第3項に基づき、手続きを行わせていただきますわね」
「……は? 手続きだと?」
ジュリアン殿下が眉を顰める。
「ええ。こちらの条項にはこうありますわ。――『双方の合意なく、いずれか一方の不当な理由、あるいは冤罪によって婚約が破棄された場合、破棄を申し出た側は、相手方に対し、精神的慰謝料およびそれまでに費やされた教育費、贈答品の時価換算額、ならびに公爵家から王家へ提供されていた【魔力触媒の無償提供】の違約金として、金貨50万枚、および過去10年分の魔力使用料を一括で支払うものとする』……と」
会場が、一瞬にして凍りついた。
金貨50万枚。それは、このオワコン王国の国家予算の、およそ3分の1に相当する金額である。
さらに重要なのは「魔力使用料」だ。
「な、何を言っている……! 魔力触媒だと!?」
「ご存じありませんでしたの? 我がグリムワルド公爵家は、代々、王都を囲む結界の魔力源となる『聖遺物』を管理し、王家に無償でそのエネルギーを融通しておりました。それは、私と殿下の婚約が『将来的に両家が一体となること』を前提としていたからですわ。婚約が破棄された以上、我が家が王家に無償で魔力を提供する理由は一ミクロンもございません。……今この瞬間をもって、魔力の供給を停止いたします。それに契約とは信用問題。私以外との契約も、あなたの機嫌一つで変えるというのなら……まあここにいる貴族方々を含め、どうなるでしょうね?」
「な……ッ!?」
ジュリアン殿下の顔から、急速に血の気が引いていく。
それだけではない。壁際に控えていた、王国の財務大臣と、魔導省の長官が、文字通りひっくり返らんばかりの勢いでガタガタと震え始めた。彼らはジュリアン殿下に向かって、必死の形相で手振りを送っている。内容はおそらく「殿下、冗談ですよね!? 今すぐその命令を取り消してください!!」だろう。遅い。もう遅いわよ。王命は一度口にしたら、そう簡単に覆せない。
「さらに」
私は追い打ちをかけるように、にっこりと微笑んだ。
「私が国外追放されるとなれば、私が管理していた『王立魔導研究所の予算管理』『東部国境の関税交渉』『聖女管理職としての年間スケジュール構築』などの業務も、すべて放棄することになりますわ。明日からの引き継ぎですが、申し訳ありません、国外追放の身ですので、一切行えません。私のデスクの上にある書類は、すべてシュレッダーにかけて……あ、この世界にはありませんでしたわね、すべて暖炉で燃やしておきましたわ」
「エルシリア、お前……な、何を言って……」
「殿下、マリア様とどうぞお幸せに! 彼女は『癒やしの聖女』様ですから、きっと明日からの国家予算の赤字も、魔力の枯渇も、東部国境からの関税収入の激減も、すべてその『癒やしの力』で、えいっ!と解決してくださいますわ! そう願っております」
私はマリア様に向かって、満面の笑みでパチパチと拍手を送った。
マリア様は完全にキャパシティをオーバーしたようで、口を金魚のようにパクパクと開閉させている。可哀想に。彼女はただ、格好良くて身分の高い王子様とイチャイチャしたかっただけなのに、明日から国家破滅の戦犯として扱われることになるのだから。悲劇ねえ。プッ、笑いが止まらないわ。
「それでは皆様、ごきげんよう! 私、これから国外追放の準備(荷造りという名のバカカンスの準備)がありますので、これにて失礼いたします!」
私は、これ以上ないほど軽やかな足取りで、夜会会場の扉へと向かった。
後ろからは、「待て! 待つんだエルシリア!」「殿下、何ということをしてくれたのですか!」という、実に見事な大合唱(喜劇のフィナーレ)が聞こえてくる。
ああ、最高。空気が美味しい。
私の、血と汗と涙にまみれた社畜令嬢ライフは、今ここに幕を閉じた。
明日からは、隣国で美味しいものでも食べながら、この国がどうやって綺麗に自滅していくかを、特等席で観劇させてもらうとしましょう。
さあ、楽しい楽しい、人生最高のバカカンスへ、いざ出発よ!




