第二十八話「いっちゃん、表事務所に誘われる」
そろばんと書道。
中学時代に必死に磨いた武器が、いっちゃんを工場の現場から「事務所」へと押し上げます。
しかし、ようやく掴みかけた「表舞台」の先には、努力だけでは超えられない、時代特有の理不尽な壁が立ちはだかっていました。
仕事に慣れ始めた頃、課長が突然声をかけてきた。
「上山さん、そろばんの資格、持ってるんだって?」
「はい、4級ですが……」
「そうか。それじゃあ、仕事終わりに1日分のまとめ計算をお願いできるかな。もちろん――夜食つきで」
「えっ、夜食が出るんですか? やります!」
私は即答した。戦中も戦後も、いつもお腹を空かせていた私にとって“夜食”ほど魅力的な報酬はない。食べ物さえあれば、私はどこまでも頑張れた。
繭の長さや生産量の計算を丁寧にこなしていると、
「君の計算は正確で助かるよ。それに字も綺麗だしね」
そう課長に褒められた。中学で必死に練習した書道が、思わぬ形で活きた瞬間だった。
ある日のこと。課長が少し嬉しそうな顔で言った。
「今度、事務所に入らないか? ちょうど欠員が出てね。表事務所に入れてあげる」
私は胸が高鳴った。
――私だって、ちゃんと認められるんじゃ……。
「はい、頑張ります!」
そう返事して、配属の知らせを待った。
しかし、実際に配属の知らせを聞いた時、私は呆然とした。
私の配属先は“表”ではなく、“工務”事務所だった。
理由はすぐに耳に入った。
「表は顔の綺麗な子じゃないと……」
表事務所に入ったのは、計算もできずそろばんも持っていない、ただ美人だというだけの同僚だった。
その時ばかりは、自分の容姿を呪った。生まれ持った顔立ち一つで、努力が届かない場所がある――そう言われた気がした。
(つづく)
「顔の綺麗な子じゃないと……」
その一言が、いっちゃんの心に傷を残しました。
けれど、彼女の手元には、正確に弾かれたそろばんの音と、凛とした書道の跡が確かに残っています。
この悔しさを胸に、いっちゃんは工務事務所でどんな自分を証明していくのでしょうか。
明日もお楽しみに。




