91 アーサーの最後の出勤
アーサーが翌日出勤してフレディに薬草店を退職したい旨を報告すると、フレディは少し考えてからゆっくりうなずいた。
「あの店は人家から離れているからね。オリビアと幼児だけのときに強盗でも入ったら取り返しがつかない。オリビアが身重になったのなら、なおさらだ。うん、わかった。君に辞められるのは痛手だが、新規に店員を募集するよ」
「ありがとうございます。勝手を言いまして、申し訳ありません」
「いいんだよ。なにかあってからでは困るからね。君が『スープの森』にいるだけで、危険を避けることができるだろう。ただ……」
フレディはアーサーにひとつの提案をした。
「アーサー、君が採取してくる薬草はとても質がいい。今後も君に採取を頼めないだろうか。週に一度でいい。欲しい薬草を採取して届けてくれたら助かるんだが」
「それは大丈夫だと思います。予定日が一月一日だそうなので、その前後はオリビアの体調次第になりますが」
「真冬は薬草が採取できないから大丈夫さ」
「あっ、そうでしたね。では任せてください。喜んでお引き受けします」
そこまで話をし、フレディがしみじみとした顔になった。
「いよいよオリビアが母親になるんだね。よかった。ずっと一人で生きていくんじゃないかと心配していたんだ。本当によかった。マーガレットとジェンキンズも喜んでいることだろう。はは、年を取ると涙もろくていけないな」
フレディは途中から涙声になり、苦笑している。アーサーは大きな手をフレディの背中にそっと当てた。
「オリビアも俺も頼る身内がいませんから。皆さんに心配してもらえるのは、ありがたいです」
「うん。うん。アーサー、君が『スープの森』を訪問したのは、マーガレットとジェンキンズの導きかもしれないね」
「あー……そうかもしれませんが、僕を店の中に呼び込んでくれたのはオリビアなんです」
「オリビアが? 初対面の君を?」
「はい。本降りの雨の中を歩いていたら、手を振って中に招き入れてくれました」
「そうだったのか」
アーサーはニコニコするだけにしておいた。妻と自分の間にある運命的な繋がりのことは、二人だけの秘密だ。
アーサーがその日の薬草店の仕事を終えて家に帰ると、ルーカスはスノー用の木箱の中でスノーと抱き合って眠っていた。
「ただいま、オリビア」
「おかえりなさい、アーサー」
「ルーカスはあそこで寝ているのか。俺が二階まで運ぼう」
アーサーがルーカスを抱き上げて二階のベッドへ寝かせてから下りてきた。そしてオリビアを腕の中にすっぽりと包み込んでただいまのハグをする。
「代わりの従業員が見つかったら、毎日一緒にいられるのね。私がどれだけホッとしているか、胸の中を見せてあげたいくらいよ。私、頭では大丈夫と思うんだけど、やっぱり妊娠もお産も少し怖いのよ」
「そうだろうな」
アーサーがオリビアの髪をそっと撫でた。
「今朝、ルーカスを庭で遊ばせていたらキツネが藪の中から顔を出したの。私がいる前でルーカスを襲うとも思えなかったけど、念のためにルーカスを抱き上げてキツネの心を探ったの」
「キツネはなにをしに来たんだい?」
「キツネはメスらしくて『赤ちゃん 可愛い』って。初めて見るキツネだったわ。優しい気持ちが流れていたけれど、念のために話しかけたの」
アーサーが黙ったまま表情で話の続きを促した。
「『私の子なの。襲わないでね』って言ったら、『襲わない 赤ちゃん 可愛い』って。そのキツネはしばらくルーカスを眺めただけで満足して森へ戻って行ったわ」
「ルーカスはキツネを怖がらなかったのかい?」
「全然。うっかり森の動物に近寄らないよう、教えたほうがよさそう」
「そうだな」
今日は近所でたくさん育てられているビーツを使った赤いスープだ。ビーツは角切りにして使うと、食べ応えが出るだけでなく、栄養もたっぷりになる。スープを温めながら、オリビアは昼間にミラから聞いた話をアーサーに話した。
「別荘地は新規の土地の造成と区画割りが終わったそうよ。別荘地を王家が管理するようになってから、大規模な工事をしていたでしょう? 今は家が次々と完成して、いよいよ王都から新しい住民がやって来るらしいの」
「ああ、薬草店でもその噂は聞いたな」
オリビアは新しい住民のことが不安だ。
「これからうちのお店にも別荘地のお客さんが増えるんでしょうね」
「きっと裕福な人たちなんだろうな」
「以前のようなことが起きないといいのだけれど。少し心配なの」
「そうか……」
以前のようなこと、というのは大金持ちの家の娘がアーサーに好意を持ったことだ。結婚前のことだったが、アーサーはもう少しでマーレイ領を離れるところだった。
そのときはルイーズが助けてくれたが、もうルイーズは隣国に戻ってしまった。
「私は厄介な人を上手に受け流すことが下手だから」
「君とルーカスと赤ん坊は俺が守るさ。安心してくれ。俺は……傭兵だったことを苦しい記憶とだけ思っていたけど、こうなってみるとあの苦しい経験も無駄ではなかったな。大切な家族を守ることができるのは、あの経験があればこそだ。傭兵時代のことを思えば、たいていのことは乗り越えられる。剣を使わずとも、君たちを守ってみせるよ」
(心優しいアーサーが傭兵を務める苦悩は、ひと通りではなかったでしょうに)
オリビアは言葉を上手く選べず、すぐには慰めを言えなかった。しばらく考え込んでから、アーサーに自分の気持ちを伝えることにした。
「私は昔、『私の能力を家族が受け入れてくれていたら』と考えたことがあったの。もし家族が私の心を読み取る力を受け入れてくれていたら、私は貴族として社交界にデビューして……」
オリビアはそこで口を閉じた。
「デビューして? それから?」
「きっと今よりもずっと深い人間不信になっていたと思うし、もっと人間を怖がったと思う。だから、悲しい思い出ではあるけれど、私は受け入れてもらえなかった過去も、無駄ではなかったと思っているわ」
「そうかもしれないな」
「苦しかった過去が今の私を作っているように、あなたの過去が今のあなたを作っているんだと思う」
アーサーはこういうところにオリビアの芯の強さを感じる。
オリビアは控えめで口数が少なく、自己主張をあまりしない女性だ。
だが、自分を取り巻く環境を冷静に見極め、前を向いて一歩一歩進もうとする強さがある。
五歳で修道院送りの馬車から逃げ出し、誰にも自分の能力のことを話さず、秘密を抱えて生きてきた。祖父母と死別してからは、たった一人で愛犬とこの家で暮らしてきた。
「君は強い」
「私が? そうかしら」
「そうだよ。とても心が強い人だ。俺は君のその強さが眩しくて、惹かれるんだと思う」
オリビアはアーサーの言う強さや眩しさがどういうことを言っているのかよくわからなくて、にっこりするだけにとどめた。
・・・・・
フレディ薬草店の店員募集はすぐに応じる人が来て、アーサーはフレディに申し出てから五日で店を辞めた。最後の仕事から帰宅したアーサーを、オリビアとロブが出迎えた。
「アーサー、今日までお疲れ様でした」
「それほど疲れることはなかったよ。いい職場だった。薬草店で接客の基本を学べたのはありがたかったな。最初は客が来ると何をどうしたらいいのかもわからなかったんだ。フレディさんを見て学んだものさ」
「フレディさんにはお世話になったわね。新鮮な薬草を届けられるよう、私も協力するわね」
「ああ。頼むよ。明日からは俺がいるから、ルーカスの世話に来てもらうのも、明日までにしてもらおうか」
「ええ。そうしましょう。明日からは三人で」
「ああ。三人で。そして半年後には四人で」
アーサーがそっとオリビアのおなかに手を当てた。
「俺、いい父親になるよ」
「あなたならきっと大丈夫。あら? 見て」
窓の外、シロフクロウが今夜も来ていた。
「どうかあのシロフクロウがルーカスを見守ってくれますように」
オリビアにとって金色の鹿が心の支えだったように、ルーカスの母親の最期を見届けたシロフクロウがルーカスの友達になってくれたらいいのに、と思う。





