90 アーサーの決心
祖母から引き継いだ本には薬草の知識だけでなく、病気の症状と対処法の他に妊娠出産に関しても詳細に書き記してある。その計算式に初めて数字を入れて計算し、オリビアは予想外に出産予定日が近いことを知った。
「予定日は一月一日。あと六ヶ月しかない。半年後には生まれたばかりの赤ちゃんとよちよち歩きのルーカスの二人になる。お店はどうする? いつまでも奥さんたちに来てもらうわけにはいかない。お店は一時的に閉めるべきかしら」
夕食の客たちが帰り、オリビアは眠っているルーカスの寝顔を見ながら、自分に言い聞かせる。
「他の人たちだって年子を産んでちゃんと育てているわ。双子を産む人だっている。大丈夫。私にもできる。問題ない……はず」
ルーカスの寝ている長椅子の脇にペタンと座り込んで指先でルーカスの頬に触れた。
そんなオリビアの足元にスノーが近寄る。
『どうしたの?』
「スノー。私、赤ちゃんが生まれるかもしれないの」
『赤ちゃん 可愛い 赤ちゃん うれしい』
スノーがご機嫌な感じに白い尻尾をゆらゆらと振った。スノーの幸福感と一緒に白や黒やブチの子猫の記憶が流れてきた。
「スノーは赤ちゃんを産んだことがあるのね」
『赤ちゃん 可愛い』
「そうね、可愛いわね」
『うん』
「そうよね。うん。そう、赤ちゃんは可愛い。きっと大丈夫」
スノーの背中を撫でながら、オリビアはもう一度「大丈夫」と自分に言い聞かせた。
立ち上がって家族の絵が貼ってある壁まで近寄り、祖父母の顔を見る。
「生きていたら、二人ともきっとすごく喜んでくれたわね。見せてあげたかった、私の赤ちゃん」
『赤ちゃん 大好き! 大好き! 大好き!』
「あら、ロブ」
『赤ちゃん大好き! リリ 好き ルーカス 好き』
「最近はルーカスとあまり遊べないわね?」
『スノー いる』
「ふふふ。スノー母さんが厳しくて一緒に遊べないのかしら?」
『うん』
優しくて力持ちのロブの頭を笑って撫でる。いつだってロブの心は穏やかだ。オリビアはしばらく考えて、その日の夜にアーサーに妊娠を打ち明けることにした。
夕食を終え、ルーカスを寝かしつけてから、オリビアが「妊娠したようです」と打ち明けると、アーサーは一瞬間を置いてから嬉しそうな顔になった。
「お産の予定日はいつごろかな?」
「順調なら一月一日前後かしら」
「体調は?」
「すこぶるいいわ。料理の匂いがちょっと気になるくらい。食欲もあるし、とくに心配なことはなにもないから、安心して」
アーサーがそっとオリビアを抱きしめた。
「そうか。よかった。薬草店でも君のことを知っているお客さんたちに『赤ん坊はまだか』って、よく聞かれていたんだ。みんな君の産む赤ん坊を待ち望んでいるようだよ」
「そうだったの? あなたなにも言わなかったじゃない?」
「そんなことをいちいち君に言ったら、気にするだろう?」
(そうだった。アーサーはそういう人だった)
そう思いながら夫の顔を見る。
危険な目に遭いそうなことには本気で怒るし何度も繰り返して注意するが、オリビアの心を守るための配慮を決して忘れない人だ。
「あなたは繊細な心の持ち主よね」
「俺が? そうかな。心配性ではあるな」
「とても繊細で優しくて強くて、最高に素敵な夫です」
そう言われてアーサーは精悍な顔で照れたように笑った。だがすぐに真顔になり、オリビアに質問した。
「店はどうする? 重い鍋や野菜かごを持ち上げるのは、おなかの子によくないんじゃないか?」
「少し考えてみます。できる範囲でお店は開けていたいけど、どうかしらね。お手伝いに来てくれている奥さんたちの子育ての話を聞いていると、おなかが大きいときよりも産んだ後の方が大変だそうだから」
「産んだあとか。確かにそうだろうな」
そこでアーサーは立ち上がってお茶を自分で淹れ、オリビアと自分の席に置いた。
「これからは俺もできる限り家のことをやるよ」
「今でも十分やってくれているのに」
「いや、そうでもない。君の段取りがあるだろうと料理は手を出さないできたし、洗い物も君が気にするからやらなかったけど、今後は俺がなんでもやる」
「ありがとう、アーサー」
二人で熱いお茶を吹き冷ましながらしばらく無言になった。それからアーサーが考え考えしながら話し始めた。
「妊娠と出産は病気じゃないと言う人がいる。それはそうだが、お産は間違いなく命がけだ。俺は君に無理をしてほしくないんだが」
「お店を閉めたほうがいいってこと?」
「客が来れば体調が悪くても働くことになる。それが心配なんだ。オリビアはどう思っているんだい?」
「妊娠に気がついてから、ずっと決めかねているの」
「そうか……」
そう言ってアーサーが黙り込んだ。
「どうしたの? 私、あなたの心を探ることはしたくないの。夫婦なんだから、言いたいことは言ってほしい」
「俺は君が仕事を休むか、または……俺がこの店で働くのがいいと思うんだが、嫌かな。ここは君にとって宝物のように大切な場所だから、君が一番心安らぐ方法にしよう……けど」
「アーサー? 言いたいことは最後まで言ってよ」
アーサーは慎重に自分の気持ちを話し始めた。
「俺は家族を一度に失った。何年たってもあのときの心に大きな穴が空いた感じを忘れることができない。人の命が消えるときはあっという間で、二度と家族に会えないことがどういうことか、俺は身に染みている。君には無理をしてほしくない」
オリビアはアーサーの悲しい心が静かに流れだすのを感じた。
「俺がフレディ薬草店を辞めたら、収入がだいぶ減ってしまうけど、俺は……この店で働きたい。君のおなかが大きくなったときや、赤ん坊を産んだ後、近くにいて君や赤ん坊やルーカスを見守っていたいんだ。薬草店の仕事を辞めて、俺がこの店で働くのはだめかな」
思いがけない提案に驚いて黙っていたオリビアが、少したってからにっこり笑った。
「だめじゃないわ。フレディ薬草店で働ける人は他にもいるでしょうけれど、私が安心してこの店を任せられる人は、あなたしかいないもの」
「いいのかい? 俺の稼ぎはなくなるけど」
「だって私たち、お金を稼いでも使い道がないでしょう? おばあさんの壺は、そろそろ満杯だし」
おばあさんの壺というのはこの家で金庫代わりに硬貨をいれてある壺のことだ。マーガレットとジェンキンズの時代から、少しずつお金を貯めて急な出費に備えてある。
祖父母が神の庭に旅立ったあとは、オリビアが引き継いでお金を貯めてきた。アーサーが薬草店で働いて稼ぐようになってからは、かなりのペースで壺の中身が増えていた。
「そうだったな。人を雇う手もあるが、俺は自分が安心するために店で働きたい。それにこの手で赤ん坊を育てたいし、成長していく姿を記憶に刻みたい」
オリビアはテーブルの上に置いてあったアーサーの手に腕を伸ばし、自分の手を重ねた。
「ありがとう、アーサー。あなたがそばにいてくれるなら、何も怖くない」
「よし、そうと決まったらフレディさんに早めに伝えないとな」
「辞めるのはまだ先でいいわよ。私、働けるもの」
「次の店員が見つかったら薬草店を辞めることにするよ」
こうして話し合いの結果、アーサーが店で働くことに決まった。
「アーサーが仕事を辞める考えは思いつかなかった。でも、おじいさんとおばあさんみたいに私とアーサーの二人でお店を切り盛りすることになるのね」
ロブの頭を撫でながら、オリビアは自分の心が落ち着いていることに気づいた。
(妊娠がわかったときは不安だらけだったのに。これからはアーサーがそばにいてくれると思うだけで、こんなに安心できる)
思いやりのあるアーサーと出会えた自分の幸運を感謝する。オリビアはおなかをそっと撫でながら、身の内側からあふれる幸福感に目を閉じた。





