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スープの森〜動物と会話するオリビアと元傭兵アーサーの物語〜 【書籍発売中・コミカライズ】  作者: 守雨
第三章

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89 ダルの失敗

 お手伝いに来てくれている近所の奥さんが帰ると、スノーはずっとルーカスと一緒にいる。

 これまでスノーは寝ていることが多かったのに、最近では起きている時間が長くなった。しかも起きている時間のほとんどはルーカスと一緒だ。


『ボクも 赤ちゃん 遊ぶ!』

『ダメ』

『遊びたい!』

『ダメ』


「スノーはルーカスを独り占めしたいの?」

『違う ダル ルーカス 舐める』

『スノー ルーカス 舐めてる! ボクも! 舐める!』


 スノーとダルが言い合いをしている。ルーカスはニャオニャオ鳴いている二匹の猫の間に座り、ニコニコしながら右を見たり左を見たりしている。

 二匹の猫の尻尾が膨らんできた。


『ダル しつこい 赤ちゃん 痛い』

『むわわわー!』


 興奮したダルが意味不明な抗議の声を出したので、オリビアは思わず笑ってしまう。

 アーサーには「ニャアアウ」という鳴き声にしか聞こえず、オリビアが笑っているのを見て少し悔しい。だがここで口を開くと猫たちの会話が止まりそうで、床で座っているルーカスを膝に抱き上げて黙って聞いている。


「ああ、ルーカスのほっぺが赤くなったことね?」

『ダル しつこい』

『むわわわわああ!』


 数日前、ルーカスが「わああん」と泣きながらオリビアによちよちと駆け寄ってきたことがあった。ルーカスの心から痛みの感情が伝わってきたから、オリビアは慌てた。

 顔を近づけて見ると、しがみついたルーカスの頬が真っ赤になっている。ルーカスがダルを指さしている。

 指を指されたダルは、しょんぼりしていて気まずそうだ。


「ルーカス、ほっぺをどうしたの?」

「ここ。ここ。たいいい」

「うん、痛そうね。どうしたかな」


「たいいい」は痛いと言っているのだ。

 明るいところにルーカスを抱いて運び、じっくりと見る。ルーカスの薄い皮膚に傷はない。ただ、擦ったように赤くなっていて、その中がさらに点々と赤くなっている。

 スノーが近寄って来て、オリビアに事情を説明し始めた。


『ダル たくさん 舐めた』

「ルーカスのほっぺを?」

『うん ルーカス イヤ ダル やめない』

「ああ、そういうこと……」

『ダメ 言った ダル 舐めた』


「スノーが注意したけどダルは聞かなかった、ということね?」

『うん』


 柔らかくていい匂いのルーカスの頬をダルが舐め続けたのだろう。

 ダルはオリビアやアーサーを舐めることが結構ある。スノーやロブのことも延々と舐める。親愛の情を漂わせながらザリザリと舐めるダルは可愛いから好きにさせていたのだが。

 ダルは舐めているうちにゴロゴロと喉を鳴らし、恍惚とした表情になることが多い。我を忘れて夢中になってしまうのは気づいていた。


「ダル、ルーカスは赤ちゃんだから、たくさん舐めたら痛くなっちゃうの」

『ウン……』

「ルーカスが嫌がったらやめてね?」

『ウン……』

『ダル ばか』

『むわわあー!』


 辛辣なスノーに、ダルがいきなり飛びかかった。だが、スノーはダルの首に噛みつき、一瞬でねじ伏せた。ダルは腹を上にした状態でピクリとも動かず、目だけ動かしてオリビアに助けを求めている。


「スノー、その辺で許してあげて」

『赤ちゃん 舐める だめ』

『わかった』


 静かにダルから離れるスノー。その白くて豪華な尻尾はまだ膨らんでいる。

 ダルは仰向けになったまま、目玉だけを動かしてスノーの様子をうかがっている。やがてそっと起き上がるとせっせと自分の体を舐めて毛づくろいを始めた。心を落ち着かせたいらしい。


「ダル、ルーカスを可愛がってくれてありがとうね」

『うん』


 しょんぼりしながらダルが出て行った。


「やんちゃ坊主が失敗しましたって感じかい?」

「そうね。ダルはまだ若いから。きっと加減がわからなかったのよ」


 オリビアはルーカスにダルの気持ちをわかってほしくて言葉をかみ砕いて説明する。


「ルーカス、ダルはあなたのことが大好きなの」

「たいい」

「そうね。痛くなっちゃったけど、ダルを許してあげてね」


 ルーカスは理解できないらしく、自分の頬を指さしながら「たいい、たいい」と繰り返している。そのまま放置していても跡を残さず治るのはわかっていたが、湿布をすることにした。


「湿布をしたほうが痛みが和らぐから」


 清潔な布に傷が腐るのを防ぐ薬草のペーストを塗り広げる。その上からまた薄い布を重ねる。薬草は効き目よりは刺激が少ないものを選んだ。湿布をそっとルーカスの頬に当てた。


「もう痛くないでしょ?」

「ん」

「ルーカスは強い子ね」

「ん!」


 頬に湿布を貼ったまま笑顔になるルーカスが可愛くて、オリビアの心が慈愛の感情で満たされる。アーサーはオリビアの幸せそうな顔に微笑んだ。


「ルーカス、ヤギを見に行くか?」

「く!」

「そうか、行くか」

「抱っこで行くか? 自分で歩くか?」

「たいい。こ! こ!」

「そうか。痛いから抱っこがいいか」

「んっ!」


 ルーカスを左腕で抱えながら裏庭に向かうアーサーを見送って、オリビアは「アーサーもかなり甘いわよ」と苦笑する。

 以前「ルーカスの要求を全部満たそうとしたらとんでもないわがままな子供が出来上がるぞ」と注意されたことを思い出す。オリビアもアーサーも気を引き締めていないとついついルーカスを甘やかしてしまう。


 昼間、ルーカスの世話をしに来てくれたミラにその話をした。ミラはうなずきながら話を聞いていたが、言葉を選びながら自分の考えを話してくれた。


「私も自分の子供を育てるときは必死だった。ちゃんと育てなきゃ、しっかりした人間にしなきゃ。それで頭がいっぱいだったわ。でもね、子供は親の愛情を食べて育つものだから」

「愛情を食べる……」

「そう。孫を見ていたらそう思うわ。全力で可愛がってやれる時間は案外あっという間に過ぎてしまうものさ。可愛がったらいい。だけど、言葉で言い聞かせられるようになったら、譲れることと譲れないことはきっちり、だね。一度ダメと言ったら、最後までダメ。そこをなあなあにすると、子供が親の顔色を窺うようになるんだよ」


 どういうことかとオリビアが考えていると、ミラが言葉を付け足してくれる。


「犬や猫をしつけるとき、『今はこういう事情だから許すけど、普段はダメ』とは言わないだろう? それと同じかしらね。子供には理解できない大人の側の事情をしつけに持ち込まないことだね」

「ああ、なるほど」

「まあ、偉そうにこんなことを言っている私も、失敗してからわかったことだけどね」

「子供を育てるのは難しいですね」

「そうでもないよ」


 ミラはルーカスがヤギミルクに浸したパンを不器用に食べているのを眺めながらそう言う。


「一番大切なのは、『私はあなたを大切に思っているよ』ってことさえ伝われば、子供は元気に育つもんだ。食べ物だけじゃ子供は育たないからね。ルーカス、パンは美味しいかい?」

「しい!」

「そうかい、美味しいかい。よかったねえ」


 もうすぐ昼の開店時間だ。

 オリビアはスープをかき回していたが、どうにも豚肉の匂いが不愉快に感じた。

(肉は新鮮だったのに。アクをもっと取るべき? 香草を足すべき?)

 迷いながら料理を続けるが、ずっと肉の脂っこい匂いが気になった。


 オリビアはそっと自分のおなかに手を当てた。

 もしかしたらという予感はあるものの、ぬか喜びはしたくない。それに違っていたらアーサーをがっかりさせてしまう。

 だからオリビアはその可能性を誰にも言わずに料理を続けた。


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書籍『スープの森 全1・2・3巻』
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