92 ラズベリーの広場
アーサーが店を手伝うようになって、オリビアが助かったことがたくさんある。
そのひとつは、店が休みの日や休憩時間ならいつでも好きな時に森の奥に入れることだ。
「嬉しいわ。おなかに赤ちゃんがいると思うと、森の深い場所に入るのが少し怖くなっていたの。今はラズベリーの季節だから、早く摘みたくてそわそわしていたわ」
「ラズベリーはクマも大好物だから君とルーカスだけじゃ危ない。いいぞ、行こう。ルーカスは俺が背負うよ」
「では私は籠を背負うわね」
ロブを連れて三人で森に入った。
アーサーは薪を背負う背負子にルーカスを座らせ、オリビアが幅広の布で縛って落ちないようにした。
ルーカスは高い位置からオリビアとロブを見おろしてご機嫌だ。
「あーたん! はわういう!」
「そうなの?」
「はわういう!」
「あらまあ、そうだったの」
ルーカスとやり取りしながら、オリビアは「ああ、本当に可愛い」と思う。ルーカスの言葉に毎回丁寧にオリビアが返事をしていると、アーサーが振り向いた。
「ルーカスはなんて言っているんだ?」
「今は心を読んでいないから全然わからない。でも、毎回返事をしてあげることが大切かなと思って」
「なんだ、そうだったのか。俺は『さすがはオリビア、これが聞き取れるんだな』って感心して聞いていたよ」
「ふふふ。実は全然わかっていないのよ」
「ルーカスの言葉を聞いていると幸せな気分になるな」
「ええ! とても」
アーサーはオリビアに行き先を指示されながら前を歩いている。万が一にもオリビアが足を引っかけて転んだりしないように、鉈で枝や足下を這うツルを払っている。
その後ろを歩きながら、オリビアはアーサーが今までよりもずっと丁寧に枝やツタを払っていることに気がついていた。
(おじいさんも相当な心配性だったけれど、アーサーはその上を行くかもね。おばあさんは『もう、あなたは心配しすぎなのよ!』とよく怒っていたっけ。懐かしい)
オリビアが思い出に浸っているうちにラズベリーの群生地に到着した。そこは森の中にぽっかりと開けた小さな広場で、赤、黄、黒のラズベリーがびっしり実っている。
「ここか。ここは初めて来た」
「ここにはラズベリーの季節しか来ないから。疲れたでしょう」
「ルーカスぐらいの重さじゃ、全然疲れないさ」
ルーカスにはオリビアが指で摘まみやすいように枝を差し出して摘ませた。
「こえ、し!」
「美味しいでしょう。お母さんも大好きなの」
「き!」
「そうよ、お母さんはこれが大好きよ」
二人の会話をニコニコしながら聞いていたアーサーが、ブラックベリーを口に放り込みながら話し始めた。
「それにしても、ここにはなんでこんなにラズベリーが集まっているんだろう。木を切り倒した跡があるから、誰かが切り拓いたようだが」
「ああ、木はおじいさんが根気よく切り倒して、ここで薪にしていたの。ラズベリーはおばあさんが一緒に来て、森の中でラズベリーを見つけるたびに引っこ抜いて植えていたのが始まりらしいわ。この場所にはね、思い出話があるの」
この場所のラズベリーがきっかけで、祖父母が喧嘩したことを話した。
「ある年の夏に、おばあさんはここまでラズベリーを摘みに来て、急な土砂降りにあってしまったの。雨の中を歩くのは危険だから、ずぶ濡れになりながら雨が止むのを待っていたらしいわ。私は留守番してた」
「それで?」
オリビアはルーカスが「こ! こ!」とラズベリーを指さすたびに、ひとつずつ摘んでは口に入れてやりながら話を続けた。
「なかなか雨がやまなくて、やんだころには暗くなりかけていて、おばあさんが急いで帰ろうとしたら狼の姿を見つけたらしいの。おばあさんは手近な木の枝によじ登ったものの、狼が下でウロウロしているから下りるに下りられなくて困り果てたんですって」
聞いているアーサーが険しい顔になった。ロブは広場の匂いを夢中で嗅ぎまわっている。この広場は、ラズベリーを食べにウサギ、リス、ネズミ、ハリネズミ、クマなどがたくさん来るからだろう。
「おばあさんの帰りが遅いのを心配したおじいさんが、おばあさんの足跡を追跡してここにたどり着いたら、若い狼が三匹もうろついていたそうよ。おじいさんは剣を抜いて狼と向かい合って、戦うことなく狼を追い払ったんですって。でも、そこからおじいさんが『だから言っただろう! なぜ一人で森に入ったんだ! ラズベリーなら家の近くで育てればいいのに!』っておばあさんを怒って」
「なんだか聞き覚えのある展開だな」
以前、一人で釣りに出かけてアーサーにこっぴどく叱られたことを思い出し、オリビアが苦笑した。
「おばあさんは申し訳なかったって謝ったんだけど、家に着いてもおじいさんの怒りが収まらないから、ついに『こんなに謝っているのに許してもらえないなら、私はどうすればいいのよ!』って言い返しちゃって」
「その夫婦喧嘩、目に見えるようだ。君は小さかったから、怖かったんじゃないのか?」
「いいえ」
ルーカスは特にブラックベリーが気に入ったらしく、よちよち歩きで近寄っては「ん! こえ!」と指さしている。熟しているのを選んで食べさせながら、オリビアが笑う。
「私、ドキドキしながら二人の心を読んだの。そうしたらね、二人とも『ああ、マーガレットが無事でよかった。心配した』『ジェンキンズが来なかったら、私はどうなっていたかしら。本当に助かった!』って、互いを思いやりながら口喧嘩していたの。子供ながらに可笑しくて、私、笑っちゃったのよね。私が笑ったら、おじいさんもおばあさんも我に返ったらしくて。二人も笑い出して、喧嘩は終わりになったわ」
「仲のいい夫婦だったんだな。どんな思い出話を聞いても毎回そう思うよ」
ルーカスが口や手を赤く染めながら眠そうにし始めた。アーサーが気がついて抱っこすると、ルーカスはすぐに眠ってしまった。熟睡したのを確認して、オリビアが敷物を広げてルーカスを寝かせる。
「さあ、ここから本気を出して摘むわ。たくさん摘んでジャムを作る。ルーカスの世話をしてくれたおうちに、ジャムをたっぷり渡したいのよ」
「いいね。君が作るジャムは美味しいから喜ばれるよ」
「あなたとルーカスの分は、ちゃんと取り分けておくわね」
「頼む。今から楽しみだ」
二人が無言で次々とラズベリーを摘んでいると、ウサギが顔を出した。臆病なウサギが自分から姿を見せるのは珍しく、オリビアはそっとその心を探った。ウサギの心の中で、たくさんのキノコとオリビアの姿が思い出されていた。
「あら! あなただったの。私のこと、覚えてくれていたのね」
「顔見知りかい?」
「ほら、去年の秋に足を怪我してうちで手当てをしたウサギ。あの子だわ。キフジンノタシナミの場所を教えてくれたウサギ」
「ああ、そんなことがあったな」
「あなたちゃんと生き延びていたのね。よかった! あなたもラズベリーを食べに来たの? どうぞ。森の恵みですもの、一緒に食べましょう」
アーサーが(通じるのか?)と思いながら見ていると、ウサギはアーサーたちから距離を取りながらも、後ろ足で立ち上がり、熟したラズベリーを選んでは枝ごと引き寄せて実を食べ始めた。
「あの姿をルーカスに見せてやりたかったな」
「近いうちにまた来ましょうよ」
「そうだな。なあオリビア、ウサギの他にも来ているぞ」
「うん?」
アーサーの視線をたどって木の上の方を見ると、シロフクロウがいた。
(シロフクロウが昼間に動くことは珍しくないけれど。あのシロフクロウ? だとしたら、こんな森の中で偶然出会うものかしら)
オリビアは眠っているルーカスからそっと離れてみた。シロフクロウの視線は動かない。シロフクロウが見ているのはルーカスだった。
(ルーカスが気になるのね)
自分も鹿やキツネの顔見知りがいるから不思議ではないが、あまり人に懐くことがない野生のフクロウが、幼いルーカスに興味を持っているのはなぜだろうと思う。
「どうかこの子を見守ってあげてね」
シロフクロウはしばらくルーカスを見ていたが、大きな翼で音もなく羽ばたいて森の奥へと飛んで行った。飛び去るシロフクロウをアーサーは黙って見ていたが、「さあ、そろそろ帰ろう。たくさん摘んだ」と帰りを促した。
帰り道、アーサーは戦場で聞いた話を思い出していた。
夜、フクロウを目がけて石を投げて驚かして喜んでいる若い傭兵に、ベテランの傭兵が静かに注意したことがあった。
「俺は父親に『ふくろうには女性の魂が入り込む。それがお前の近くに来たら、お前を大切に思っていた女性が見に来たと思え』と言われて育ったもんだ」
「ええ?」
少し馬鹿にしたような顔で笑った若者に、ベテランの傭兵は焚火の炎を見ながら話を続けた。
「神の庭に行った人の中にお前を可愛がってくれたばあさんや母親、お前に懐いていた妹なんかがいないんだったら、俺の言うことは気にしなくていい」
するとその若い傭兵は急に無表情になって黙り込んだ。アーサーはその様子を見て(誰かを思い出したんだな)と思った。
眠り込んでいるルーカスを背負って歩きながら、アーサーは考える。
(もし先輩の話が本当なら、あのシロフクロウには雷に打たれて亡くなった母親の魂が入っているのだろうか。それだったら切ないことだ)
ルーカスを守り抜いて息絶えた若い母親の姿を思い出した。
(ルーカスのことは俺とオリビアが全力で可愛がって育てるから。安心して神の庭に行っていいんですよ)
アーサーは心の中でさっきのシロフクロウを思い浮かべ、そう心で語り掛けながら歩いた。





